倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」
第2回「罪作りな延命 ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」
倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)
画:光嶋裕介(建築家)

建築が美術(アート)であることを示してしまったから、ル・コルビュジエは罪作りである。まあ、彼が生まれる以前から、建築が美術ではないかというおとりにおびき寄せられる者は数多くいて、将来有望な極東の青年も、危うく道を踏み外すところだった。
「僕は又建築科を択んだ〈中略〉元来僕は美術的なことが好であるから実用と共に建築を美術的にして見ようと思った〈中略〉(同級生の米山がしきりに忠告することには:引用者注)君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは迚とても不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可べき大作も出来るじゃないか。と(※1)」
ただし、そう言われて文学科に進み、夏目漱石の名を20世紀に刻んだ夏目金之助は、彼のちょうど20歳年上だから、当時の建築における「美術的」というのは古来からの形式に則った様式的な技巧の修練によって獲得されるという考え方が支配的であって、それが打ち崩されるのは第一次世界大戦の終わりを待たなくてはならない。
経験が蓄積されないアジア的専制や夢想的な革命ではなく、一歩一歩と深みを増していく理性的な修練の結果として、もはや野蛮な殺し合いなど遠い世界の出来事だと安心していた「先進国」の間で1914年7月に開かれた戦端は、双方の予想を裏切って拡大、長期化し、数千万人が無駄死にして1918年11月に終わった。構築されていたはずのバランスは失われ、ドイツ帝国もオーストリア=ハンガリー帝国もオスマン帝国もロシア帝国もなくなり、分析的な書物の中だけで存在していた社会主義なる政体が現実になった。ヨーロッパで「人間的」とされていた道徳や理性が信頼できる礎石ではなかったという衝撃が、ニーチェを再評価させ、ハイデガーを成立させ、シュルレアリスムや十二音技法を世に送り出したわけだが、コルビュジエもそんな時代から生まれた。
1887年に生誕した彼のデビューは、1918年にアメデ・オザンファンとともに「ピュリスム」という新語を掲げた絵画展をパリの画廊で催し、『キュビスム以後(Après leCubisme)』という共著を同時に出版して自らを歴史に位置付けようとし、これまた目ざといタイトルを冠した雑誌『新精神(L'espritNouveau)』を1920年に創刊したことにある。これは「ル・コルビュジエ」の名が同誌で評論を執筆する時のペンネームとして始まったという修辞的な意味からではなく、本名シャルル・エドゥアール・ジャンヌレが故郷のラ・ショー=ド・フォンで設計したいくつかの建築も、これら1917年にパリに出てきて以降の出来事がなければ、誰も見向きもしなかっただろうからである。
コルビュジエが生まれたのは、スイスの建築界ではなく、第一次世界大戦後のパリの美術界だった。かつて「人間的」とされていたものよりも、もっと根底から秩序立てられなければならない。そんな彼の主張は、主語を当初「絵画」に置いていた。オザンファンとともに宣言した「ピュリスム」がそれである。1907年からパリでパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが協働して展開したキュビスムは、ルネサンス以後のヨーロッパの絵画の礎となった一点透視図法による画面の構築から決別し、多視点からなる構成に向かうことで20世紀美術に多大な影響を与えたが、彼らはそこに規律がないと主張した。ニーチェの表題を借りるなら「人間的な、あまりに人間的な」というわけだ。キュビスムは「騒然とした時代の、騒然とした芸術」であって、ピュリスムはキュビスムを正統な結末へ、つまり協力的で建設的な秩序の時代へと導くだろうと二人は記した。
言っていることは第一次世界大戦後における基盤の再構築という時代の欲求に合っているが、実際のピュリスムの絵画にポスト・キュビスムというほどの魅力を感じないから困ってしまうのだ。後世への影響力も、皆無ではないにしても、キュビスムと比べるべくもない。彼らの正確な言葉づかいの通りに、キュビスム「後(Après)」の一エピソードという位置付けが妥当だろう。肝心のコルビュジエについて言えば、オザンファンの絵画以上のものを制作しているわけでもなければ、理念を自覚させているわけでもない。ピカソに対するブラックの貢献の大きさとはほど遠い。画家としてだけだったら、その命運は尽きていただろう。



ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸
竣工年│1925年
所在地│10, square du Docteur Blanche_75016 Paris
用途│住宅
現在、ラ・ロッシュ邸は一般公開され、ジャンヌレ邸はル・コルビュジエ財団の事務所として使われている
(撮影:倉方俊輔)
*****
そして、コルビュジエは一人のクライアントを得た。若く、裕福で、現代美術を愛好する銀行家のラウール・ラ・ロッシュだった。彼とはスイスからの移住者のパーティで知り合い、『新精神』の後援者とピュリスムの絵画の購入者を手に入れた。コルビュジエとオザンファンはオークションで彼のために入札者を務め、ピカソやブラックの絵画を入手したりもした(※2)。
世界文化遺産の「ル・コルビュジエの建築作品」を構成する17作品のひとつである「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」は、ロッシュのコレクションを展示するギャラリーを含む住まい、それにコルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレと妻のための住居を、壁を共有して建設した鉄筋コンクリート造3階建ての建物だ。
小道の奥に位置した周囲の住宅の裏手に囲まれた北向きの敷地は、コルビュジエがコーポラティブハウスのデベロッパーさながらに地主と銀行とクライアントを行ったり来たりして交渉し、当初の理想像からはだいぶ撤退して実現させた経緯を感じさせるものだが、現在、一般公開されているラ・ロッシュ邸の中に入ると、そんな苦労話は消え失せてしまう。
無重力感に取り囲まれる。それはクライアントがフランスに根を持たず、独身者で、多くの要望を出さなかったことと見合っている。しかし、決してそうした与条件から自動的に導き出されはしない。つくり上げたのは、創造者としてのコルビュジエの意志だ。
それは重力に抗した、あるいは物語性を持ったドラマとして構築されていない。どこから見始めても構わない面、色彩、立体の構成である。ここで言う立体とは実と虚(ヴォイド)の両方のこと。エントランスホールに突き出た階段が、吹き抜けというヴォイドへと貫入しているのに気づくだろう。2階の渡り廊下は透明な長方形をなし、ガラス越しに曲面の外壁が外部空間をへこませているのが分かる。その内部のスロープは上がっても下がってもいい。飾られている絵画がさまざまな見え方をしたのを思い出しはしないか。
この空間で「図」と「地」は同時に規定されている。ある形状をカンバスに置いた際に残余の形も決まるのと同じだ。画期的なのは、建物の内外あるいは虚と実を別個に造形するのでもなく、かと言って、どちらかをどちらかの結果として従属させるのでもなく、等価で異なる図と地として扱ったことだ。外部からは大きな吹き抜けもスロープの存在も分からないが、それを知っていれば開口部も新たに感じられるだろう。
内部の体験が外部の見え方を更新する。内部と外部に序列がないのと同じく、1階から3階までの関係も同等である。建築が社会に占める役割を反映した構成や装飾の物語もまとっていない。ピロティがあるからというだけではなく、これまでの大地から切り離されているのだ。構築物である建築が、ここまで無重力に、現代美術のタブローのように成り立つことをコルビュジエは示した。
ただし、これは絵画のような建築ではない。絵画を超えた美術としての建築である。建築が建物だと思っている多くの設計者が順番の動線にこだわるところを、彼は絵画と同様に―構図によって誘導するものの―来訪者がどこから見始めてもいいようにつくる。1つ1つのシーンは時に来訪者の動きとともに次第に変化する。階段は単なる機能的な必要物ではなく、そのための重要な装置であるという認識がスロープを生んだ。時に内部と外部に代表されるように、だいぶ以前の光景と結びつくこともある。絵画は全体が一度に見渡せるが、建築はできない。その全体像は、経験した者の内面にだけ結ばれる。固定的でありながら、人間の身体と記憶にかかわって、何度も新しい。コルビュジエはピュリスム絵画では不可能だった意志を、絵画とは異なる建築の特性を用いて実現させたのだ。
*****
コルビュジエは画家として二流だった。しかし、建築家としては一流になった。両者の関係は断絶してはいない。その後の建築家・コルビュジエにも、美術という生まれ故郷がしっかり刻まれている。ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸はそんな転生の秘密を良く内包している。コルビュジエはピュリスム絵画を通じて、マチエールに頼らず、幾何学に規則づけられ、日常的な対象でありながら、幾度となく別個の味わいを与えるものを求めていたと言える。それは建築というものに適した性格だったのである。
〈経験〉の〈蓄積〉による〈構築〉が様式主義の建築が典範としていた、あるいは第一次世界大戦以前の社会が信頼していたものだが、ここでコルビュジエが目指し、成立させたのはそれとは違う〈体験〉の〈集積〉による〈構成〉である。冒頭に掲げた漱石の言葉の趣旨は、建築の美術性は「実用とともに」可能だということで、それが第一次世界大戦前の様式主義の常識だったが、こちらは「実用によって」むしろ可能になる。行為する人間が現出させる美術である点も新しい。
それを、いわゆるモダニズム建築の時代に実用主義と見誤ったり、いわゆるポストモダニズム建築の時代に建築がアートになり得る先例だとみて後進たちが社会に害悪を与えたのは彼の責任ではないのだが、罪作りなのは確かであって、そんな建築家は、この上級な仕事ではっきりと生まれた。
(くらかた しゅんすけ)
※1…夏目漱石「落第」『筑摩全集類聚版 夏目漱石全集10』(筑摩書房、1972、初出1906)
※2…加藤道夫監訳『ル・コルビュジエ全作品ガイドブック』(丸善、2008)p.23
■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

『建築ジャーナル』2017年2月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。
●今日のお勧め作品は、石山修武の新作エディションです。
石山修武
「巨大な廃墟の山々を背に又歩き出す、そして、今、再び。何ともしぶとい足たちよ」
2016年 銅版
Image size: 15.0x15.0cm
Sheet size: 26.0x25.3cm
Ed.5 サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
第2回「罪作りな延命 ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」
倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)
画:光嶋裕介(建築家)

建築が美術(アート)であることを示してしまったから、ル・コルビュジエは罪作りである。まあ、彼が生まれる以前から、建築が美術ではないかというおとりにおびき寄せられる者は数多くいて、将来有望な極東の青年も、危うく道を踏み外すところだった。
「僕は又建築科を択んだ〈中略〉元来僕は美術的なことが好であるから実用と共に建築を美術的にして見ようと思った〈中略〉(同級生の米山がしきりに忠告することには:引用者注)君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは迚とても不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可べき大作も出来るじゃないか。と(※1)」
ただし、そう言われて文学科に進み、夏目漱石の名を20世紀に刻んだ夏目金之助は、彼のちょうど20歳年上だから、当時の建築における「美術的」というのは古来からの形式に則った様式的な技巧の修練によって獲得されるという考え方が支配的であって、それが打ち崩されるのは第一次世界大戦の終わりを待たなくてはならない。
経験が蓄積されないアジア的専制や夢想的な革命ではなく、一歩一歩と深みを増していく理性的な修練の結果として、もはや野蛮な殺し合いなど遠い世界の出来事だと安心していた「先進国」の間で1914年7月に開かれた戦端は、双方の予想を裏切って拡大、長期化し、数千万人が無駄死にして1918年11月に終わった。構築されていたはずのバランスは失われ、ドイツ帝国もオーストリア=ハンガリー帝国もオスマン帝国もロシア帝国もなくなり、分析的な書物の中だけで存在していた社会主義なる政体が現実になった。ヨーロッパで「人間的」とされていた道徳や理性が信頼できる礎石ではなかったという衝撃が、ニーチェを再評価させ、ハイデガーを成立させ、シュルレアリスムや十二音技法を世に送り出したわけだが、コルビュジエもそんな時代から生まれた。
1887年に生誕した彼のデビューは、1918年にアメデ・オザンファンとともに「ピュリスム」という新語を掲げた絵画展をパリの画廊で催し、『キュビスム以後(Après leCubisme)』という共著を同時に出版して自らを歴史に位置付けようとし、これまた目ざといタイトルを冠した雑誌『新精神(L'espritNouveau)』を1920年に創刊したことにある。これは「ル・コルビュジエ」の名が同誌で評論を執筆する時のペンネームとして始まったという修辞的な意味からではなく、本名シャルル・エドゥアール・ジャンヌレが故郷のラ・ショー=ド・フォンで設計したいくつかの建築も、これら1917年にパリに出てきて以降の出来事がなければ、誰も見向きもしなかっただろうからである。
コルビュジエが生まれたのは、スイスの建築界ではなく、第一次世界大戦後のパリの美術界だった。かつて「人間的」とされていたものよりも、もっと根底から秩序立てられなければならない。そんな彼の主張は、主語を当初「絵画」に置いていた。オザンファンとともに宣言した「ピュリスム」がそれである。1907年からパリでパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが協働して展開したキュビスムは、ルネサンス以後のヨーロッパの絵画の礎となった一点透視図法による画面の構築から決別し、多視点からなる構成に向かうことで20世紀美術に多大な影響を与えたが、彼らはそこに規律がないと主張した。ニーチェの表題を借りるなら「人間的な、あまりに人間的な」というわけだ。キュビスムは「騒然とした時代の、騒然とした芸術」であって、ピュリスムはキュビスムを正統な結末へ、つまり協力的で建設的な秩序の時代へと導くだろうと二人は記した。
言っていることは第一次世界大戦後における基盤の再構築という時代の欲求に合っているが、実際のピュリスムの絵画にポスト・キュビスムというほどの魅力を感じないから困ってしまうのだ。後世への影響力も、皆無ではないにしても、キュビスムと比べるべくもない。彼らの正確な言葉づかいの通りに、キュビスム「後(Après)」の一エピソードという位置付けが妥当だろう。肝心のコルビュジエについて言えば、オザンファンの絵画以上のものを制作しているわけでもなければ、理念を自覚させているわけでもない。ピカソに対するブラックの貢献の大きさとはほど遠い。画家としてだけだったら、その命運は尽きていただろう。



ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸
竣工年│1925年
所在地│10, square du Docteur Blanche_75016 Paris
用途│住宅
現在、ラ・ロッシュ邸は一般公開され、ジャンヌレ邸はル・コルビュジエ財団の事務所として使われている
(撮影:倉方俊輔)
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そして、コルビュジエは一人のクライアントを得た。若く、裕福で、現代美術を愛好する銀行家のラウール・ラ・ロッシュだった。彼とはスイスからの移住者のパーティで知り合い、『新精神』の後援者とピュリスムの絵画の購入者を手に入れた。コルビュジエとオザンファンはオークションで彼のために入札者を務め、ピカソやブラックの絵画を入手したりもした(※2)。
世界文化遺産の「ル・コルビュジエの建築作品」を構成する17作品のひとつである「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」は、ロッシュのコレクションを展示するギャラリーを含む住まい、それにコルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレと妻のための住居を、壁を共有して建設した鉄筋コンクリート造3階建ての建物だ。
小道の奥に位置した周囲の住宅の裏手に囲まれた北向きの敷地は、コルビュジエがコーポラティブハウスのデベロッパーさながらに地主と銀行とクライアントを行ったり来たりして交渉し、当初の理想像からはだいぶ撤退して実現させた経緯を感じさせるものだが、現在、一般公開されているラ・ロッシュ邸の中に入ると、そんな苦労話は消え失せてしまう。
無重力感に取り囲まれる。それはクライアントがフランスに根を持たず、独身者で、多くの要望を出さなかったことと見合っている。しかし、決してそうした与条件から自動的に導き出されはしない。つくり上げたのは、創造者としてのコルビュジエの意志だ。
それは重力に抗した、あるいは物語性を持ったドラマとして構築されていない。どこから見始めても構わない面、色彩、立体の構成である。ここで言う立体とは実と虚(ヴォイド)の両方のこと。エントランスホールに突き出た階段が、吹き抜けというヴォイドへと貫入しているのに気づくだろう。2階の渡り廊下は透明な長方形をなし、ガラス越しに曲面の外壁が外部空間をへこませているのが分かる。その内部のスロープは上がっても下がってもいい。飾られている絵画がさまざまな見え方をしたのを思い出しはしないか。
この空間で「図」と「地」は同時に規定されている。ある形状をカンバスに置いた際に残余の形も決まるのと同じだ。画期的なのは、建物の内外あるいは虚と実を別個に造形するのでもなく、かと言って、どちらかをどちらかの結果として従属させるのでもなく、等価で異なる図と地として扱ったことだ。外部からは大きな吹き抜けもスロープの存在も分からないが、それを知っていれば開口部も新たに感じられるだろう。
内部の体験が外部の見え方を更新する。内部と外部に序列がないのと同じく、1階から3階までの関係も同等である。建築が社会に占める役割を反映した構成や装飾の物語もまとっていない。ピロティがあるからというだけではなく、これまでの大地から切り離されているのだ。構築物である建築が、ここまで無重力に、現代美術のタブローのように成り立つことをコルビュジエは示した。
ただし、これは絵画のような建築ではない。絵画を超えた美術としての建築である。建築が建物だと思っている多くの設計者が順番の動線にこだわるところを、彼は絵画と同様に―構図によって誘導するものの―来訪者がどこから見始めてもいいようにつくる。1つ1つのシーンは時に来訪者の動きとともに次第に変化する。階段は単なる機能的な必要物ではなく、そのための重要な装置であるという認識がスロープを生んだ。時に内部と外部に代表されるように、だいぶ以前の光景と結びつくこともある。絵画は全体が一度に見渡せるが、建築はできない。その全体像は、経験した者の内面にだけ結ばれる。固定的でありながら、人間の身体と記憶にかかわって、何度も新しい。コルビュジエはピュリスム絵画では不可能だった意志を、絵画とは異なる建築の特性を用いて実現させたのだ。
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コルビュジエは画家として二流だった。しかし、建築家としては一流になった。両者の関係は断絶してはいない。その後の建築家・コルビュジエにも、美術という生まれ故郷がしっかり刻まれている。ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸はそんな転生の秘密を良く内包している。コルビュジエはピュリスム絵画を通じて、マチエールに頼らず、幾何学に規則づけられ、日常的な対象でありながら、幾度となく別個の味わいを与えるものを求めていたと言える。それは建築というものに適した性格だったのである。
〈経験〉の〈蓄積〉による〈構築〉が様式主義の建築が典範としていた、あるいは第一次世界大戦以前の社会が信頼していたものだが、ここでコルビュジエが目指し、成立させたのはそれとは違う〈体験〉の〈集積〉による〈構成〉である。冒頭に掲げた漱石の言葉の趣旨は、建築の美術性は「実用とともに」可能だということで、それが第一次世界大戦前の様式主義の常識だったが、こちらは「実用によって」むしろ可能になる。行為する人間が現出させる美術である点も新しい。
それを、いわゆるモダニズム建築の時代に実用主義と見誤ったり、いわゆるポストモダニズム建築の時代に建築がアートになり得る先例だとみて後進たちが社会に害悪を与えたのは彼の責任ではないのだが、罪作りなのは確かであって、そんな建築家は、この上級な仕事ではっきりと生まれた。
(くらかた しゅんすけ)
※1…夏目漱石「落第」『筑摩全集類聚版 夏目漱石全集10』(筑摩書房、1972、初出1906)
※2…加藤道夫監訳『ル・コルビュジエ全作品ガイドブック』(丸善、2008)p.23
■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

『建築ジャーナル』2017年2月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。
●今日のお勧め作品は、石山修武の新作エディションです。
石山修武「巨大な廃墟の山々を背に又歩き出す、そして、今、再び。何ともしぶとい足たちよ」
2016年 銅版
Image size: 15.0x15.0cm
Sheet size: 26.0x25.3cm
Ed.5 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
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