倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第4回「明白な夏 ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅」


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 ル・コルビュジエのヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、1927年にドイツのシュトゥットガルト郊外で開催された住宅展の顔だ。2棟の住宅が敷地の入り口で建つ。
 コルビュジエは7月23日から10月31日までの会期中に40歳を迎えた。住宅展に参加した16人(組)の建築家のうち、最年少のマルト・スタムは当時まだ27歳、最年長のペーター・ベーレンスは59歳だった(※1)。2棟の住宅は、その中核に当たる年齢にふさわしい。屋根は傾かずにフラットルーフで、明るく白い外壁は平滑に塗られ、テラスが外気と人間の間をつないでいる。鮮やかな外観が会場の住宅群に共通する特徴を印象付け、ここから始まるのが世代や個性を超えた一つの物語であることを伝える。
 モダニズムの展開において神話的と言えるこの住宅展には会期中、約50万人が来訪した。評判や悪評に誘われた90年前の参加者と同様、私たちも傾斜を生かした回遊路を歩き、さまざまな形式に遭遇できる。それぞれの住宅は個性を殺して規格化されているわけではない。敷地を無視した一定の間隔で建設されているわけでもない。「実験」のか細さではなく、すでにあったかのように堂々と語られる大きな物語。1棟は斜面から伸び上がり、もう1棟が奥で庭とともにあ
るコルビュジエの作品は、そんな複数の作家で編まれた会場の経験も予告している。
 彼が時代を代表する見事な表紙を描いている。ほんの2年前のレスプリ・ヌーヴォー館では、そうではなかった。それがここでは、多様性の中の統一を示す、模範的な教科書の役割を、さらりと遂行している。

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 これが鮮やかな夏の奇跡だとすれば、ミース・ファン・デル・ローエが目配りの効いたプロデューサーのごとく振る舞えたことも、驚くに値しないかもしれない。コルビュジエより1つ年上の彼は、ヴァイセンホフ・ジードルングを主催したドイツ工作連盟の副会長に就任しており、芸術監督の立場から、この社会的にインパクトのある実践を指揮した。
 準備は1925年に始まった。ドイツ工作連盟は、シュトゥットガルト市の公共住宅計画のうち約60戸を、健康的で実用的なモデル住宅群の建設に充ててもらうことに成功した。プロモーションの場であり、会期が終わった後は貸し出される市営住宅の敷地は、元から市が保有していたもので、最終的に21棟63戸が建設された。
 ミースは当初から、フラットルーフの住宅が地形に沿う形で分散配置された全体計画を念頭に置いていた。それらはさまざまな住戸タイプからなり、敷地の最も高い場所と両脇にはほかより高層の建物が建って、全体を引き締める。重要なのは、現代の風潮を代表するに足る一流の建築家たちが参加リストに並び、その作品が競い合うようにあって、新時代の建築のマニフェストになっていることだと考えた。
 1924年から29年までの時期は、第一次世界大戦の敗戦で成立したドイツ共和国が社会的な秩序を回復し、ヒトラーによる第三帝国成立の契機となる世界恐慌が勃発する以前の安定期として知られる。実験的で
社会的なヴァイセンホフ・ジードルングも、当時のシュトゥットガルトの工業的な復興と自由主義的な思想なしには考えられない、束の間の大戦間の輝かしい文化的達成だった。
 この時期のミースは、生涯で最もマニフェスト的に映る。すなわち、言語を操り、社会的に行動し、グループをなす建築家という像に最も接近していた。1923年に創刊された雑誌『G』をハンス・リヒターやエル・リシツキーと共同編集し、プロジェクトや論考によって人目を引いた。1924年にはフーゴ・ヘーリングらとともに、ベルリン市の保守的な建築行政を打ち破る若手建築家のグループ「リング」を立ち上げ、ドイツにおける新しい建築の機運を推進した。ドイツ工作連盟に参加したのも同じ頃からで、この1907年に創設された伝統ある団体が大戦間にも主導的であることを知らしめたヴァイセンホフ・ジードルングの建築家リストには「リング」の構成メンバーが多く含まれている。
 信頼関係にあった市の担当者とともに、建築家の選定は国際的な視野から行われた。ミースは地域主義的なシュトゥットガルト中央駅が今も威容を誇る地元の建築家パウル・ボナーツをリストから外し、コルビュジエの招聘にはこだわった。書籍を通じた名声が、住宅展に大きな価値を添えると分かっていたためである。
 こうしてコルビュジエは、ミースと初めて出会った。ただし、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレとルートヴィッヒ・ミースであれば、16年前に顔を合わせている。1910年に数カ月間だけだが、コルビュジエはベルリンのペーター・ベーレンスの事務所で働いていた。同じ頃にミースも勤めており、当時の印象をミースは懐想している。「一度だけ、事務所の入り口で出っ食わしたよ。彼は出ていくところで、私は入るところだった」とだけ(※2)。
 ミースが生まれたのはドイツのアーヘンだった。そこからベルリンへ出たのはコルビュジエが故郷のラ・ショー=ド・フォンからパリに向かった1917年よりもだいぶ早い1905年で、父親と母親の旧姓をつないでつくった仮名「ミース・ファン・デル・ローエ」によってインターナショナルでどこか意味深な趣をまとったのは、コルビュジエがその名を決めた翌年の1921年だった。
 蚊帳の外に置かれた重鎮ボナーツの手厳しい計画への批判や、決して実務的とは言えないミースの性格に起因する進行の遅れなどがあったものの、ヴァイセンホフ・ジードルングの実現によって彼は、インターナショナルな現代建築家としての地位を確かにしたと言える。ミースが権限を持つ参加建築家のリストには、師だったベーレンスや、同事務所の先輩として背中を追っていたワルター・グロピウス、表現主義的で作風は必ずしも相容れないハンス・シャロウン、そして自らと同様に実績よりプロジェクトと言論によって名高いコルビュジエも含んでいた。
 この夏、生涯で最もマニフェスト的だったのは、コルビュジエも同じかもしれない。ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、前年に発表した「新しい建築の5つの要点」のきっかけとして作品集の中に置かれている。その後、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面構成の5つは「近代建築の五原則」であるかのように受容されることになる。第一次世界大戦後の世相の中で名を形づくった2人は、40歳代らしく急進的であり過ぎない時代のリーダーとして1927年、明白さの中に溶け合うように見えた。

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ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
竣工年│1927年
所在地│Weissenhofmuseum im Haus Le Corbusier Rathenaustrasse 1- 3 70191 Stuttgart
用途│住宅
(撮影:倉方俊輔)
2006年から1戸が博物館として公開され、計画から現在に至るまでの改変や復元の過程が良く分かる

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 しかし、ここにあった物語とは、一体何だったのだろうか。住まいという建築家の美学にとっての新たな領域? 生活の基礎の再定義による建築家の社会貢献? あるいは第一次世界大戦の悲劇の後にルネサンスが訪れ、美学と社会性が握手する夢?
 コルビュジエもミースも、そんな明快な白昼夢にまどろまないことにおいて共通し、同時に対照的だった。
 入り口の裏手の高台まで上がれば、ミースの設計による24戸3階建の集合住宅の全貌が姿を表す。白く四角い建物に窓が規則的に穿たれた、彼にとって初めての鉄骨構造の建物だ。屋内の壁は耐力から解き放たれ、間取りの変更も可能になった。出展作品中で最も、住宅問題の解決という社会的使命に誠実に応えているかのようである。
 それにしては厳然としすぎだ。団地のようであり、さらに言えば工場のようであり、甘さのない割り切りにおいて、単純な美学の表出にも、社会的な事象への応答にも見えない。時代の要求に応え、時代の技術を駆使することによってこそ、時代に左右されない存在感が生まれる。そんなミースの時代精神の思想は、この時から描かれたプロジェクトではなく、現実の姿をとるようになった。

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コルビュジエとミースのただ一度の共演は、互いに形態のエールを送っているようで微笑ましい。ミースの集合住宅の南側立面にはテラスが突き出している。けれど、それは椅子を向き合わせるのがやっとの窮屈なもので、反復の凄みを強める役目しか果たしていない。
 他方でコルビュジエが従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに設計した1棟2戸の住居は、1階に並ぶ鉄骨柱がミースの作品を連想させる。だが、はるかに享楽的なポーズであり、柱で持ち上げられた2階が、暮らしのための空間になっている。ほかに用意された1階の家事室、書斎と称された3階の階段脇のスペース、そして鉄骨柱という限定された要素が、この空間と屋上庭園の無限定感を強調している。2戸がつながり、さらに横に伸びていくかのようだ。この空間の使用法は次のように解説される。
 「大きな部屋を得る方法として動く間仕切りを使用、これを引き込むことで実現する。寝台車のように、夜だけこの仕切りを利用するのだ。昼間は、端から端まで開け放たれて大きな居間となる。夜には、眠るためのものはすべて―ベッドや必要な戸棚類―各細胞ブロックに隠れたものが出て来る。横に沿ったワゴンリ(寝台車)の国際規格の車輌と全く同じ寸法の廊下が、夜のための通路となる(※3)」。
 目的に応じた部屋を準備することに自らの美学を使う多くの設計者と異なり、ミースのユニバーサル・スペースに近いわけだが、丘の下のコルビュジエは何と違った場所にいるのか。彼のもう1棟の独立型住宅は、長く温めていたシトロアン型住居の実現で、こちらの名前は自動車のシトロエンになぞらえたものだ。ここでもメタファーが形態から想像が動き始める感覚を高め、機械が人間中心ではない自由をもたらし、空間は定義を喪失する。規定の美学や社会性は意味を失い、笑いを通じて時代は超克される。
 ここから言語と形態の両面でミースはますます寡黙に、コルビュジエは饒舌になっていく。ヴァイセンホフ・ジードルングは明白に見えた夏の証だ。
くらかた しゅんすけ

※1…経緯は基本的に以下の文献に依拠した。
『Weissenhof Museum Im Haus Le Corbusier Katalog Zur Ausstellung』(2008)
※2…フランク・シュルツ著、澤村明訳『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』(鹿島出版会、2006)p.45
※3…ウィリ・ボジガー/オスカル・ストノロフ編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』(A.D.A EDITA Tokyo、1979)p.136

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

表紙
『建築ジャーナル』2017年4月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170517_03
光嶋裕介
「幻想都市風景2016-03」
2016年  和紙にインク
45.0×90.0cm  サインあり
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◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。