倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第5回 一つのピリオド サヴォア邸


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 今さら何が語れるだろう、サヴォア邸について。それでも訪れると、自分が最初に発見した物事でもあるかのように、言葉を発したくなる。そして、無知と私性を露呈させてしまう。
 傑作とは怖いものだ。相対する者を第一発見者であるかのように語らしめてしまうのだから。理性的な人間にはありえない態度だろう。さんざん踏み荒らされたものに対して、初めて向き合った人間が自分であり、真に理解できるのは私だけと信じるなんて。
 ル・コルビュジエは、かつて紀元前5世紀の古代ギリシアが産んだパルテノン神殿を、敵対するアカデミーの人間はまったく理解しておらず、自分が真の姿を見出したと語った。挑戦的な態度が功を奏して、知人の輪が広がり、裕福なクライアントへと行き当たった。そして、パリ郊外に残された。パルテノン神殿と同様に、冷静な表情で、人々に時空の狂った情熱を呼び起こさせる傑作が。

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 サヴォア邸は、独立した印象が強い。設計者は良好な景観を持った広い敷地の中に、正方形平面の1棟を配置することを選択した。建物は周りに左右されず、どの方向から眺められてもよいようになっている。
 独立した建築であるという印象に、ピロティが役立っている。それは大地から離れた感覚を与える。2階に生活の主要部分を置いて、良い眺めを得た暮らしを可能にしている。1階には、その優雅さを支える車庫や使用人の部屋などしかない。上階をメインの階とすることは、ルネサンス以来の格式ある邸宅の手法と、むしろ一致している。だが、そのようなアカデミックな邸宅の1階は多くの場合、重々しい。階高は低く、外壁を荒々しい石の仕上げなどとし、開口部も小さく粗野だ。重力に抗して、何とかそこに住む人間が息ができる余地を設けましたとでも言うように、実質本位な基礎のような出で立ちで、うやうやしく上階のピアノ・ノビーレ―主階のことで原義はイタリア語で「高貴な階」―を支えている。だが、サヴォア邸はそれとは違う。1階の階高も仕上げも2階と同じで、平面はより小さい。人も車も視線も透過させる作りによって、主階を目立たせている。
 面白いのは周囲を巡る丸柱の性格だ。もし、これがなかったら、もっとドラマティックだったに違いない。キャンティレバーなどで上下動線を有するコアから張り出させれば、従来の美学に対する技術による勝利を物語ることができる。もし、柱によって支えるのなら、このようにか細いものである必要があろうか。上階を雄々しく支えるポーズを取れば、彫刻的な一体感も出るだろう。
 そのどちらでもない丸柱は、機能的にではなく、美学的にこの建築を支持している。この内側にあるものを、象徴づけている。従来のような、建造物が重力に抗するための構成が人の心理に与える安心感に基づいたアカデミックな構図ではないと。連載第2回で扱ったラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1925年)や前回のヴァイセンホフ・ジードルングの住宅(1927年)の柱の系譜にあり、同じ設計者による後年のピロティの柱とは別種である。サヴォア邸が地理的・時代的背景から切り離された作品であることを語りたいための丸柱が、かえってこれを変遷の中に位置付けてしまった。結局のところ、ここにあるのは点対称の形をしたピリオドだ。
一つの文章を終え、時代を画し、意味と無限の無意味を含むような。
 改めて、サヴォア邸の全容に目を配りたい。外観は無重力な枠組みの設定だ。建ち方は大地に左右されていない。表と裏と左と右は等価であり、同一ではない。重力に縛られているようでもない。コンテクストを考えなくて済むという良好なコンテクストを得て、可能になった千載一遇のチャンス。奇しくもその時、設計者には、設定した枠組みに盛り込めるだけの設計経験の蓄積があった。
 こうしてサヴォア邸は、大地から切り離され、安心して鑑賞できる作品となった。さあ、外観以上に足を踏み入れ、素直に発見を楽しもうではないか。

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 無重力の中での統合が、サヴォア邸である。設計が行われた1928~29年までにコルビュジエが実作や計画を通じて獲得した手法が、四角いカンバスの中に組み合わされている。フランス語のピリオド(période)という単語には、一つの主題を中心に、関係代名詞や接続詞などで2つ以上の節をバランスよく連ねた、意味的に完結している総合文(ペリオッド)という意味もある。
 内部には、ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸で出現していた上質な暮らしのイメージが、一層深い説得力で実現している。従来の豪邸のように過去からの物語に彩られたり、束縛されてはいない。重力に抗したドラマもない。素材は抽象化され、形態は幾何学的だ。しかし、貧相ではない。新しい豪奢がある。それは内部だけではなく外部も、マッスだけでなくヴォイドもデザインの対象とすることによって達成されている。
 2階のテラスと、最も広いサロン(ダイニングルーム)との間はガラスによって空気が区切られているのみである。腰掛ければ、建物の内外を気にすることなく、自分の空間として楽しめる。屋内の横長窓からは直接に周囲の風景が切り取られ、中庭の側に目をやれば、外壁によって切り取られた空間越しに風景が見える。まわりの世界はこの建築によって分節されている。中庭越しの向かいの屋根がかかった外部は、マッスの中に貫入したヴォイドの設計だ。ここで「図」と「地」は同時に規定されているのである。屋外に設えられたテーブルが、あちら側にいる私たちを連想させる。人間はもはや建築という壁に閉じ込められ、代わりに過去から与えられた良き趣味(bon goût)を持ったインテリアを与えられて、ソファに腰を落ち着かせているオブジェクトではない。自由に行動できる主体なのだ。そんな風に第一次世界大戦後の土地に縛られないクライアントに、彼らに見合った建築的趣味の回答を与えている。これもラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸と同様だ。
 行動する人間の自由が、称揚されている。それがカンバスに意味を生じさせる。平面のほぼ中央に位置しているスロープが、異なる性格を持った1階から3階までを接続している。こうした戯画的なまでの各階の整理は、ヴァイセンホフ・ジードルングの1棟2戸の住宅でも試されていた。物質としての各階の断絶と、人間の行動がその間をつなぐこととの対立から生まれる妙味は、ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸で効果を発揮していたスロープの導入で、より大きくなった。
 スロープは身体的だ。階段と違って視覚を、理性による分別の始まりではなく、目線で追うことによる身体の連続的な認識の予感として機能させる。スロープは後ずさりすることだってできる少し傾いた床だ。階段とは違って視覚抜きの、身体の動きを可能にする。発明を通じて建築は、1階から2階へという階梯や順序を強化するのではなく、崩すことだってできる。経験の順番は、一層自由になる。
 移動する身体は出会うだろう。ふとした天窓からの光に。突如として艶かしい人体のようなバスルームの曲面に。思わせぶりな枠取りで切り取られた遠くの緑と近くの屋上庭園との近接に。経験は、統合される。抽象画のように、意味と構成の補助線は各自で引かれ、何度も組み替えられる。視覚だけでなく、人間の持つ感覚のすべてを発揮して。
 純粋芸術には欠けている実用が、人間の純粋経験を促すのだから、建築は面白い。ペサックの集合住宅と同様の意図が、ここにも盛り込まれている。説明する建築家の言葉も、定義するのではなく、想像を掻き立てる。時にはぐらかし、意味の発見へと誘う。画家であったコルビュジエだからこそ、ファインアートではない建築の性格を援用できたのかもしれない。

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サヴォア邸
竣工年│1931年
所在地│82 Rue de Villiers, 78300 Poissy, France
用途│住宅
(撮影:倉方俊輔)
パリ郊外のポワシー駅から歩ける距離にあり、現在8ユーロの入場料で邸内を自由見学できる(月曜休)

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 語るのは、これくらいにしたい。それにしても、住宅が傑作になるとは、どういうことだろうか。
 住宅は本来、限られた人間にしか体験できないものであるはずだ。それが語られ、参照される作品になるとは。よく知られているように、サヴォア邸が住宅として使われた時期は短い。第二次世界大戦前後には荒廃して当初の姿を失っていた。評価の高まりは、コルビュジエが自らまとめた作品集がなければ起こらなかった。計画案がその第1集に掲載され、竣工作は入念にセレクトされた写真と魅力的な文章を通じて第2集の冒頭を飾っている。
 著名な建築批評家たちによって物語られ、傑作としての位置付けが確定しつつあった1950年代におけるサヴォア邸を文化財へという動きには、自らの過去の作品の保存にそれほど熱心とは言えないル・コルビュジエも同調した。1964年にフランスの歴史的記念物に指定され、その後の数次の改修を経て、竣工時の姿で広く公開されるに至った。
 作者は罪つくりである。一つには、一つの住宅によって建築の歴史に刻まれるという確証を、続く建築家たちに与えてしまったから。機能がなくなっても評価されてしまうとは、機能主義や合理主義とずいぶん遠い作品主義ではないか。
 あと一つ、ここからコルビュジエは次の文章に向かったから無責任だ。スマートでスムースな文体ではなく、そこから排除されていた力動感、素材性、構造の表現が導入される。次のステップに進むためのまとめだというのは後知恵である。サヴォア邸で終わっていたとしても不思議ではない。これを盛期コルビュジエとして、後のチャレンジが遊びに流され、全体性が崩れさり、だからこそ後世の応用者の手の内で使える断片としては多少興味を誘う程度の衰退期だったとしても。しかし、彼は次に進んだ。みんなが目指したところに、もういなかった。移動する自由のためのピリオドを残して。本人に悪気はないから、たちが悪い。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』2017年5月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170617_08
光嶋裕介
「バルセロナ」
2016年  和紙にインク
45.0×90.0cm  サインあり
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電話番号も変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。
お披露目は7月初旬を予定しています。
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◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。