森本悟郎のエッセイ その後
第39回 中平卓馬(1938~2015)(1) 記憶のなかの中平卓馬像
C・スクエアの企画はすべてぼくが決めていたと思われているふしがあるが、そんなことはない。設置当初から運営委員会方式を採用し、展覧会の企画案はぼくのであれ委員のであれ、公平に会議で俎上に載せられる。企画の承認は全員一致が原則だったから、だれの提案であっても退けられる可能性はある。思いのほか開催ハードルは高いものだった。
1996年4月の運営委員会で「中平卓馬の展覧会を開きたい」と発言したのは委員の写真家・高梨豊さんだった。一瞬ぼくは耳を疑った。個展のような作品発表形態をずっと拒否してきたのが写真家・中平卓馬だと思っていたからだ(89年に森山大道さんの展示スペース〈FOTO DAIDO〉で「あばよX」展を開催していたことは後に知った)。中平さんを知る他の委員たちも驚いたに違いない。「できるんですか」と尋ねると、「やりたいと思っているはずだ」と答え、中平さんがほぼ毎日ひとりで写真を撮りに出かけていること、撮影済みフィルムが溜まった頃合いに高梨さんから声をかけ、現像所まで一緒に行っていることなど、中平さんの近況を語った。
『provoke』第1号(1968年11月1日9日)
白川義員氏のアルプスの写真が表現であるとするならば、マッド・アマノ氏の「軌跡」もまた同等の表現であると私は考える。問題はまずこの一点を認めたうえで初めて立てられるべきである。その際マッド・アマノ氏が白川義員氏の写真を素材として使ったのは、〈中略〉それが既存のイメージであるからにほかならない。(中平卓馬「複製時代の「表現」とはなにか」『朝日ジャーナル』1972年9月29日号)
という原作のオリジナリティに対して疑義を挟むものであり、白川作品については「フジヤマ、ゲイシャなどと同列の絵はがき的なアルプスの「美しい」写真」(同)とまで言い切っている。
(左)白川作品 (右)アマノ作品
(「著作権その可能性の中心」〈http://copylawyer.blogspot.jp/2015/06/220131213.html〉より)
ぼくが中平さんに注目したのは、写真家以前にまずこのような論客としてである。作品を意識的に見はじめたのも、その言説との整合性を確認するためだった。ジャンルを問わず表現に関心をもっていたとはいえ、当時ぼくの興味の大半は絵画で、写真の比率が高いわけではなかった。それでも写真は気になるメディウムであり、少しずつ、つとめて写真も見るようになっていった。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
●今日のお勧め作品は、ハ・ミョンウンです。
ハ・ミョンウン 河明殷
"MINI series(5)"
2011年
Foamex acrylic
22.0x15.0x3.1cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
第39回 中平卓馬(1938~2015)(1) 記憶のなかの中平卓馬像
C・スクエアの企画はすべてぼくが決めていたと思われているふしがあるが、そんなことはない。設置当初から運営委員会方式を採用し、展覧会の企画案はぼくのであれ委員のであれ、公平に会議で俎上に載せられる。企画の承認は全員一致が原則だったから、だれの提案であっても退けられる可能性はある。思いのほか開催ハードルは高いものだった。
1996年4月の運営委員会で「中平卓馬の展覧会を開きたい」と発言したのは委員の写真家・高梨豊さんだった。一瞬ぼくは耳を疑った。個展のような作品発表形態をずっと拒否してきたのが写真家・中平卓馬だと思っていたからだ(89年に森山大道さんの展示スペース〈FOTO DAIDO〉で「あばよX」展を開催していたことは後に知った)。中平さんを知る他の委員たちも驚いたに違いない。「できるんですか」と尋ねると、「やりたいと思っているはずだ」と答え、中平さんがほぼ毎日ひとりで写真を撮りに出かけていること、撮影済みフィルムが溜まった頃合いに高梨さんから声をかけ、現像所まで一緒に行っていることなど、中平さんの近況を語った。
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ぼくが「中平卓馬」という名を最初に目にしたのは1960年代の終わり頃だったろうか。当時ぼくの大きな関心事は芸術と社会的問題で、自分のアンテナに引っかかったさまざまな雑誌や本を読み漁っていた。今ではそれがどの雑誌だったか忘れたが、ちょっと気になる写真と文章に出会った。それは情動的にみえながら静謐さを湛えた画像と挑発するような社会的思想的発言だったように記憶しているけれど、それは後からつくりあげたイメージかもしれない。しかし「卓馬」という名前は紛れもなく印象に刻まれた。中平さんが高梨豊、多木浩二、岡田隆彦、森山大道らと出していた『provoke』(プロヴォーク)については情報こそ目にしていたものの、実際に手に取ったことはなかった。
『provoke』第1号(1968年11月1日9日)*
さらに中平卓馬をくっきりと銘記したのは70年代初め、パロディ事件として知られた「白川・アマノ裁判」の論戦を通じてだった(とはいうものの白川・写真家協会側は「盗人」呼ばわりするばかりで、もっぱら論陣を張ったのはアマノ側)。これは山岳写真家の白川義員氏が撮影した画像をフォトモンタージュ作品に無断使用したと、デザイナーのマッド・アマノ氏を損害賠償で訴えた裁判で、この時アマノ擁護の急先鋒は木村恒久さんだった。フォトモンタージュ作品を大々的に展開していた木村さんにはとても他人事ではなかったからだ。ぼくは赤瀬川原平さんの「千円札裁判」とともに芸術裁判のゆくえに興味津々で、関連記事も追いかけていた。そんな中で中平さんのアマノ擁護論も見つけたのだった。それは、白川義員氏のアルプスの写真が表現であるとするならば、マッド・アマノ氏の「軌跡」もまた同等の表現であると私は考える。問題はまずこの一点を認めたうえで初めて立てられるべきである。その際マッド・アマノ氏が白川義員氏の写真を素材として使ったのは、〈中略〉それが既存のイメージであるからにほかならない。(中平卓馬「複製時代の「表現」とはなにか」『朝日ジャーナル』1972年9月29日号)
という原作のオリジナリティに対して疑義を挟むものであり、白川作品については「フジヤマ、ゲイシャなどと同列の絵はがき的なアルプスの「美しい」写真」(同)とまで言い切っている。
(左)白川作品 (右)アマノ作品 (「著作権その可能性の中心」〈http://copylawyer.blogspot.jp/2015/06/220131213.html〉より)
ぼくが中平さんに注目したのは、写真家以前にまずこのような論客としてである。作品を意識的に見はじめたのも、その言説との整合性を確認するためだった。ジャンルを問わず表現に関心をもっていたとはいえ、当時ぼくの興味の大半は絵画で、写真の比率が高いわけではなかった。それでも写真は気になるメディウムであり、少しずつ、つとめて写真も見るようになっていった。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
●今日のお勧め作品は、ハ・ミョンウンです。
ハ・ミョンウン 河明殷"MINI series(5)"
2011年
Foamex acrylic
22.0x15.0x3.1cm
サインあり
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