森本悟郎のエッセイ その後

第40回 中平卓馬(1938~2015)(2) 言葉と写真


中平卓馬の活動は大きく〈前期〉と〈後期〉に分けることができる。前期は1963年から77年9月10日まで、後期はその翌日から2015年に亡くなるまでである。
63年、中平さんは雑誌『現代の眼』(現代評論社)の編集者となり、同誌を中心に書評など文筆活動を開始。編集者として寺山修司、東松照明と知己を得、東松さんの提案による連載グラビアページを通じて森山大道、高梨豊といった写真家たちと知り合い、自らも写真を撮りはじめる。65年退職して本格的に写真家としての活動に入ると、東松さんの誘いで「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(日本写真家協会)の編纂委員になる。同展準備のため集められた膨大な写真を調査する過程で、写真は自己〈表現〉ではなく世界の〈記録〉だと考えるようになる。
同時に中平さんには写真制作上──自身の常套句を使えば──〈乗り超える〉べき相手があった。《東松照明氏との出遇い、それがぼくが写真を撮り始める唯一のきっかけであった》が、《親しみ、コンプレックス、それが裏返された(中略)敵愾心》を抱く存在でもあった(「日本の現実を凝視する視線の両義性──東松照明『I am a king』」)。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』を分析することで得た手法も、『provoke』をオーガナイズすることも、中平さんには東松さんという先蹤を意識してのことだったのではないか。
70年、中平さんの提案で『provoke』が解散。同年、初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を刊行。巻末にいくつかの文章が収められており、はじめてこの写真を見たときのとりとめなさを文章が補完してくれたのを記憶している。

01初の写真集『来たるべき言葉のために』風土社
※装丁:木村恒久
2010年のオシリス版では装丁が変わり巻末文章を省略


翌71年の重要なトピックスは、まず『朝日ジャーナル』に「植物図鑑」「博物図鑑」「都市」を発表したこと。後の〈植物図鑑〉の着想につながる仕事だった。次いで「第7回パリ青年ビエンナーレ」(ヴァンセンヌ植物園)に参加したこと。これは「サーキュレーション-日付、場所、イベント」と題した日々増殖するインスタレーションで、《毎日ホテルからパリの町へ出てゆく。テレビを見、新聞や雑誌を見、流れる人々を見、そしてビエンナーレ会場で他の作家の作品を見、そしてそれを見る人々を見る。ぼくはそれらことごとくをフィルムに収録し、それらをその日のうちに現像、引伸しを行い、夕方から夜にかけて水洗後のまだぬれている写真を貼りつけ展示する》というもの。個性的・私的〈表現〉を捨て、〈記録〉に徹する行為を示そうとした。《およそ一五〇〇枚の写真を与えられた壁面に貼り、さらにフロアや受付のカウンターにまで貼りめぐらした》が、《思わぬトラブルから、仕事着手から数えて一週間で中止》せざるを得なくなった(「写真、一日限りのアクチュアリティ」)。そして前回触れた「白川・アマノ裁判」となり、このあたりからぼくの中平さん体験が少しはっきりしてくる。

07『サーキュレーション―日付、場所、行為』
オシリス、2012


08展示風景
(『サーキュレーション―日付、場所、行為』より)


この年中平さんの映像観を揺さぶる事件が起きる。「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」と呼ばれるもので、11月10日沖縄返還協定批准阻止を訴える全島ゼネストのさなか、警察官が死亡。翌日読売新聞に載った2枚の写真を証拠に、松永青年が殺人罪で逮捕・起訴された事件である。写真のキャプションでは青年が火だるまになった警察官をめった打ちにしたとしているが、そこに居合わせた人たちは青年が警察官を救い出そうとしていたと証言。つまり同じ写真に全く異なる解釈が成立するということであり、写真の〈記録〉性に疑問を抱かせることになる(「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」)。

02『讀賣新聞』
1971年11月11日朝刊


その果てにたどり着いたのが〈植物図鑑〉のように写真を撮るという発想だった。『provoke』の代名詞でもある〈アレ・ブレ〉はいかにも〈詩〉的であり、モノクロームを選んだことが〈手の痕跡〉を残すことになって《情緒という人間化をそこにしのび込ませていた》と自省。《イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物(もの)を事物として、また私を私としてこの世界に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない》と考えた。そこで《直接的に当の対象を明快に指示すること》、《あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつ》こと、《あらゆるものの羅列、並置》であること、《けっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない》ということから図鑑に思いいたった。しかも《動物はあまりになまぐさい、鉱物ははじめから彼岸の堅牢さを誇っている。その中間にあるもの、それが植物である》という理由から〈植物図鑑〉としたのである(「なぜ、植物図鑑か」)。

03初の評論集『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
晶文社

『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社)を出した73年、「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」裁判に参加するため初めて沖縄を訪れる。74年は多木浩二氏ら企画の「写真についての写真」展(シミズ画廊)、「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に出品し、75年は「ワークショップ写真学校」に講師として参加するが、スランプだったのだろうか、『なぜ、植物図鑑か』刊行以降写真の発表が減っている。

04「15人の写真家」東京国立近代美術館
※出展作家:荒木経惟、北井一夫、沢渡朔、篠山紀信、高梨豊、田村彰英、内藤正敏、中平卓馬、新倉孝雄、橋本照嵩、深瀬昌久、森山大道、柳沢信、山田脩二、渡辺克巳


05「15人の写真家」中平卓馬のページ


76年、『アサヒカメラ』誌上で篠山紀信の写真と中平さんの文章による「決闘写真論」を1年間連載。当時ぼくはこの組み合わせを訝しんだ。中平さんの文意が理解できないわけではない。けれども篠山作品に目を移したとたん「そうだろうか?」と今でも思うのだ。それはともかく、この連載最終回の末尾に、《アッジェ、エバンス、篠山、この三人は再び私を写真にひき戻した》と記した。ここには自ら発した言葉に突き動かされて写真に向かおうとする姿がある。しかし中平さんは優れて言葉の人である一方、その言葉が写真行為を縛りつけていたように思われる。

06『決闘写真論』
朝日新聞社


この連載は翌77年単行本化されるが、その刊行直前の9月10日に〈泥酔して昏倒、記憶の一部を失う〉(委細不明)という事故が起きる。これが活動の前期と後期の境界である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、葉栗剛です。
20170728_haguri_2201葉栗剛
<男気>《龍》
2017年
木彫 楠木、彩色
H27cm
サインあり

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移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)~7月29日(土) 11:00~18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome_2出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

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ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。