橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第5回
アバンギャルドショップ「カプセル」 (1968)
倉俣史朗のアイディアは「こんなの、到底出来っこない」というものばかりだったというが、それを実現できたのは、本人の努力のみならず、アシスタントや友人、職人たちの協力あってのことだった。なかでも施工会社「イシマル」代表の石丸隆夫はガラス職人の三保谷友彦と同様、倉俣が「無理を言える」存在だった。
今も現役で活躍する石丸は化学薬品工業の仕事を通じてプラスチックやポリエチレン等、最先端の素材や技法に詳しくなり、1960年代に元テレビ局勤務の知己らとビデオ映像やその撮影用のディスプレイ等を手がける「シマプロモーション」を立ち上げる(注1)。倉俣と出会ったのはその前後で、日建設計工務(現日建設計)のチーフアーキテクトだった建築家の林昌二が、1966年竣工のパレス・ホテル(東京、竹橋)のサイン計画に際し、石丸を倉俣に紹介したのがきっかけだった。倉俣がデザインしたサイン看板を誰も作成できず、困っていたが、石丸が適当な職人を探し出して解決したという。出会った頃の倉俣について石丸は次のように語る。
「カッサドールの当座かなあ、私たちが分かり出して、この人はすごい人だなあって思っていましたから。仕事を受けて何して、自分の事務所の給料も払えないって時でも、オーナーのところに持って行って衝突したら、前でパッと破って、辞めて帰ってくるような方だったですから(注2)。」
この話からすると、1968年4月オープンの西武百貨店渋谷店のA館中2階に設けられたトレンディな服飾売り場《アバンギャルドショップ「カプセル」》 (1968、図1)も石丸がいなければ、倉俣は仕事を降りていたかもしれない。透明なカプセル状のショーケースは、当初、施工業者が製作不可能と判断したからだ。倉俣に呼ばれた石丸は「こんなの簡単ですよ。作ってあげますよ」と言ってさっと製作した(注3)。シマプロモーションで多数の舞台美術を手がけていたからこそ成し得た仕事だったと石丸は言う。
倉俣のデザインする什器は奇抜でありながら、通常の什器以上に機能性を考慮したものが多く、このカプセル状ショーケースもその例に漏れない。5ミリ厚のアクリル成型ケースを貫通するスチール棒は、洋服のハンガーにもなれば、ケース自体を支える支柱にもなる。オレンジ色のカーペットを敷いた床には、スチール棒を差し込むための穴が点在し、ケースの移動は容易い。縦型のカプセル以外に、2本の脚が付いた横型のカプセルも作られた。
当時を知らない筆者は、洋服が宙づりになったカプセルが林立する写真を見ると、どうもスペースエイジのインテリアという印象を受けるのだが、『ジャパンインテリア』や『商店建築』によれば、これは「サイケ(デリック)」なデザインらしい。『商店建築』の紹介記事では、「ヒッピー ピーコック ネオ・ロマンチシズム サイケデリック アールヌーボー調(注4)」と記され(もっともこれはインテリアや什器ではなくて、そこで販売されている服飾のスタイルに言及していたのかもしれないが)、倉俣と親しかったアーティスト横尾忠則は次のように評している。
「現在のはやりの言葉でいうと、サイケデリックということになるのだろうが、とにかくバツグンに楽しい。動く壁、動く柱、動くショーケース、動く椅子、動く電気スタンド・・・・という風にまるで商品そのものまでが、作品のように見えてくるのだ。だから、どこまでがディスプレイで、どこまでが作品なのかさえ分らない。何時間いてもあきることなく楽しく見物のできるディスプレイである。このカプセルを中心にした環境を見るとき、科学万能の、未来の人間の精神が解放されていく姿は、もしかしたらこんな環境ではないかしら・・・と、このコーナーを後にした時ふと考えた(注5)。」
横尾が記した「動く椅子、動く電気スタンド」というのは、服飾売り場に併設されたスナックコーナーの什器である。「動く電気スタンド」は天井から伸びた工事用フレキシブルチューブの先に電球を仕込んだ照明器具で、「動く椅子」は直径約20ミリのスウェーデン製スチールパイプのバネの上に座面をつけたものだ。この椅子は後に《スプリングの椅子》(1968)と命名された。座る人の動作に反応してバネが上下に動くため、体は安定せず、ぴょんぴょん跳ねる。安定を生み出すはずの椅子が不安定をもたらすという逆説的な発想は、「何が本当の安定か」という疑問から生まれたらしく、「むしろ上下に移動することによって違う安定感があるような気がします」と倉俣は言っている(注6)。
石丸は《スプリングの椅子》の製作にも大いに貢献した。《アバンギャルドショップ「カプセル」》の施工担当者は、単にスチールパイプを曲げてバネをつくろうとしたが、上手くいかない。石丸によればそれは当然で、「鋼(はがね)じゃなかったら、バネにならないんですから」と言う。そして、次のような経緯でようやく制作にこぎつけたそうだ。
「私が〔スウェーデン製の〕鋼材の塊を見つけたんです。川崎の方にある鶴見鋼管という小さい工場なんですが、そこの研究室に持ち込んで、ひっぱった。……パイプを引き出して溶鉱炉に入れたら、貨車十杯分ぐらいのを作らなかったら採算合わないんですよ。……必要な300メートルで、はい終わりっていうなら、一本あたりこの椅子が燃料費だけで何万円としますよね。それをどうやってやったらいいか、そうだ、研究室に持ち込もうって。……〔研究室は〕「これなんか使えませんか」とか話すると、「ちょっと時間見つけてやってあげるから、もうちょっと素材を持っていらっしゃいよ」ということを熱心にやっていただける、そういうことを知っていましたから、鶴見鋼管の研究室で作ってもらったんです(注7)。」
なるほど、ここでも石丸の経験と人脈とが活かされたようだ。《アバンギャルドショップ「カプセル」》は、インハウスデザイナーとして手がけた《三愛ドリームセンター》のアクリルショーケース(1963)を除けば、おそらく倉俣の最初の透明アクリル(プラスチック)を多用したインテリアで、このアプローチは《メンズウェア シバザキ》(1968、静岡)やブティック《米山ヒデミ》(1968、東京、湯島)にも引き継がれた。
1968年は同時並行で透明アクリルの家具もデザインされ、《プラスチックのワゴン》(1968)と《プラスチックの洋服ダンス》(1968、図2))が製作された。透明アクリルの家具は1930年代のハリウッドですでに作られているものの、倉俣のものは既存の木製の家具をアクリルにそっくり置き換えるというアイディアから発想されている。ワゴンのフォルムは倉俣がサパークラブ《カッサドール》(1967)のためにデザインした什器からとられており、アクリル成型による箪笥の型は、既成の洋服箪笥からとられている。倉俣自身、「わざと古い型の木組の洋服ダンスの形をとった(注8)」と述べており、また透明アクリルを使った理由も「(不透明な素材では)扉を閉めてしまうとしまわれたものが隠れてしまうけど、アクリルだとしまったものをいつまでも見ていることができる(注9)。」と1973年に語っている。
この知的なコンセプトは無論、批評家の多木浩二が再三述べたように、《スプリングの椅子》と同様、椅子や箪笥の既成概念の転覆を目論んだ逆説的発想に他ならない。とはいえ、筆者が十数年前に、再製作されたばかりの《プラスチックのワゴン》と《プラスチックの洋服ダンス》を目にしたとき、そのあまりの透徹した美しさに体はすくみ、知的理論もハリウッドの前例も、要するに薀蓄の何もかもが私の頭から吹っ飛んでしまった。言語と非言語のほんのわずかな隙間にあるもの、それを見せてくれるのが倉俣なのだ。
(はしもと けいこ)
注1:石丸の仕事に関する文献の例として、「図面に記されぬ言葉を探る 石丸隆夫とイシマル」『AXIS』1991年冬号(no. 38)、71-73頁参照。
注2:2006年7月25日に筆者が行った石丸隆夫へのインタヴューによる。
注3:同上。
注4:「アバンギャルドショップ カプセル」『商店建築』1968年6月号(vol. 13, no. 6)、
63頁。
注5:横尾忠則「『燃える、燃える』のクラマタ」『ジャパンインテリア』1968年6月号(no. 111)、41頁。
注6:倉俣史朗、多木浩二「④事物の逆説――倉俣史朗+多木浩二」(対談)多木浩二『四人のデザイナーとの対話』新建築社、1975年、218頁。
注7:2006年7月25日に筆者が行った石丸隆夫へのインタヴューによる。
注8:倉俣史朗、山口勝弘(対談)「ミニマル空間の追求――倉俣史朗の空間を語る」『ジャパンインテリア』1974年2月号(no. 179)、51頁。
注9:長谷川堯「『伝説』にただようクラマタの秘境」『商店建築』1973年5月号
(vol. 18, no. 5)、199頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗「Flower Vase #1301」(ブルー)
アクリル
W8.0xD8.0xH22.0cm
撮影:桜井ただひさ
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
アバンギャルドショップ「カプセル」 (1968)
倉俣史朗のアイディアは「こんなの、到底出来っこない」というものばかりだったというが、それを実現できたのは、本人の努力のみならず、アシスタントや友人、職人たちの協力あってのことだった。なかでも施工会社「イシマル」代表の石丸隆夫はガラス職人の三保谷友彦と同様、倉俣が「無理を言える」存在だった。
今も現役で活躍する石丸は化学薬品工業の仕事を通じてプラスチックやポリエチレン等、最先端の素材や技法に詳しくなり、1960年代に元テレビ局勤務の知己らとビデオ映像やその撮影用のディスプレイ等を手がける「シマプロモーション」を立ち上げる(注1)。倉俣と出会ったのはその前後で、日建設計工務(現日建設計)のチーフアーキテクトだった建築家の林昌二が、1966年竣工のパレス・ホテル(東京、竹橋)のサイン計画に際し、石丸を倉俣に紹介したのがきっかけだった。倉俣がデザインしたサイン看板を誰も作成できず、困っていたが、石丸が適当な職人を探し出して解決したという。出会った頃の倉俣について石丸は次のように語る。
「カッサドールの当座かなあ、私たちが分かり出して、この人はすごい人だなあって思っていましたから。仕事を受けて何して、自分の事務所の給料も払えないって時でも、オーナーのところに持って行って衝突したら、前でパッと破って、辞めて帰ってくるような方だったですから(注2)。」
この話からすると、1968年4月オープンの西武百貨店渋谷店のA館中2階に設けられたトレンディな服飾売り場《アバンギャルドショップ「カプセル」》 (1968、図1)も石丸がいなければ、倉俣は仕事を降りていたかもしれない。透明なカプセル状のショーケースは、当初、施工業者が製作不可能と判断したからだ。倉俣に呼ばれた石丸は「こんなの簡単ですよ。作ってあげますよ」と言ってさっと製作した(注3)。シマプロモーションで多数の舞台美術を手がけていたからこそ成し得た仕事だったと石丸は言う。
倉俣のデザインする什器は奇抜でありながら、通常の什器以上に機能性を考慮したものが多く、このカプセル状ショーケースもその例に漏れない。5ミリ厚のアクリル成型ケースを貫通するスチール棒は、洋服のハンガーにもなれば、ケース自体を支える支柱にもなる。オレンジ色のカーペットを敷いた床には、スチール棒を差し込むための穴が点在し、ケースの移動は容易い。縦型のカプセル以外に、2本の脚が付いた横型のカプセルも作られた。
当時を知らない筆者は、洋服が宙づりになったカプセルが林立する写真を見ると、どうもスペースエイジのインテリアという印象を受けるのだが、『ジャパンインテリア』や『商店建築』によれば、これは「サイケ(デリック)」なデザインらしい。『商店建築』の紹介記事では、「ヒッピー ピーコック ネオ・ロマンチシズム サイケデリック アールヌーボー調(注4)」と記され(もっともこれはインテリアや什器ではなくて、そこで販売されている服飾のスタイルに言及していたのかもしれないが)、倉俣と親しかったアーティスト横尾忠則は次のように評している。
「現在のはやりの言葉でいうと、サイケデリックということになるのだろうが、とにかくバツグンに楽しい。動く壁、動く柱、動くショーケース、動く椅子、動く電気スタンド・・・・という風にまるで商品そのものまでが、作品のように見えてくるのだ。だから、どこまでがディスプレイで、どこまでが作品なのかさえ分らない。何時間いてもあきることなく楽しく見物のできるディスプレイである。このカプセルを中心にした環境を見るとき、科学万能の、未来の人間の精神が解放されていく姿は、もしかしたらこんな環境ではないかしら・・・と、このコーナーを後にした時ふと考えた(注5)。」
横尾が記した「動く椅子、動く電気スタンド」というのは、服飾売り場に併設されたスナックコーナーの什器である。「動く電気スタンド」は天井から伸びた工事用フレキシブルチューブの先に電球を仕込んだ照明器具で、「動く椅子」は直径約20ミリのスウェーデン製スチールパイプのバネの上に座面をつけたものだ。この椅子は後に《スプリングの椅子》(1968)と命名された。座る人の動作に反応してバネが上下に動くため、体は安定せず、ぴょんぴょん跳ねる。安定を生み出すはずの椅子が不安定をもたらすという逆説的な発想は、「何が本当の安定か」という疑問から生まれたらしく、「むしろ上下に移動することによって違う安定感があるような気がします」と倉俣は言っている(注6)。
石丸は《スプリングの椅子》の製作にも大いに貢献した。《アバンギャルドショップ「カプセル」》の施工担当者は、単にスチールパイプを曲げてバネをつくろうとしたが、上手くいかない。石丸によればそれは当然で、「鋼(はがね)じゃなかったら、バネにならないんですから」と言う。そして、次のような経緯でようやく制作にこぎつけたそうだ。
「私が〔スウェーデン製の〕鋼材の塊を見つけたんです。川崎の方にある鶴見鋼管という小さい工場なんですが、そこの研究室に持ち込んで、ひっぱった。……パイプを引き出して溶鉱炉に入れたら、貨車十杯分ぐらいのを作らなかったら採算合わないんですよ。……必要な300メートルで、はい終わりっていうなら、一本あたりこの椅子が燃料費だけで何万円としますよね。それをどうやってやったらいいか、そうだ、研究室に持ち込もうって。……〔研究室は〕「これなんか使えませんか」とか話すると、「ちょっと時間見つけてやってあげるから、もうちょっと素材を持っていらっしゃいよ」ということを熱心にやっていただける、そういうことを知っていましたから、鶴見鋼管の研究室で作ってもらったんです(注7)。」
なるほど、ここでも石丸の経験と人脈とが活かされたようだ。《アバンギャルドショップ「カプセル」》は、インハウスデザイナーとして手がけた《三愛ドリームセンター》のアクリルショーケース(1963)を除けば、おそらく倉俣の最初の透明アクリル(プラスチック)を多用したインテリアで、このアプローチは《メンズウェア シバザキ》(1968、静岡)やブティック《米山ヒデミ》(1968、東京、湯島)にも引き継がれた。
1968年は同時並行で透明アクリルの家具もデザインされ、《プラスチックのワゴン》(1968)と《プラスチックの洋服ダンス》(1968、図2))が製作された。透明アクリルの家具は1930年代のハリウッドですでに作られているものの、倉俣のものは既存の木製の家具をアクリルにそっくり置き換えるというアイディアから発想されている。ワゴンのフォルムは倉俣がサパークラブ《カッサドール》(1967)のためにデザインした什器からとられており、アクリル成型による箪笥の型は、既成の洋服箪笥からとられている。倉俣自身、「わざと古い型の木組の洋服ダンスの形をとった(注8)」と述べており、また透明アクリルを使った理由も「(不透明な素材では)扉を閉めてしまうとしまわれたものが隠れてしまうけど、アクリルだとしまったものをいつまでも見ていることができる(注9)。」と1973年に語っている。
この知的なコンセプトは無論、批評家の多木浩二が再三述べたように、《スプリングの椅子》と同様、椅子や箪笥の既成概念の転覆を目論んだ逆説的発想に他ならない。とはいえ、筆者が十数年前に、再製作されたばかりの《プラスチックのワゴン》と《プラスチックの洋服ダンス》を目にしたとき、そのあまりの透徹した美しさに体はすくみ、知的理論もハリウッドの前例も、要するに薀蓄の何もかもが私の頭から吹っ飛んでしまった。言語と非言語のほんのわずかな隙間にあるもの、それを見せてくれるのが倉俣なのだ。
(はしもと けいこ)
注1:石丸の仕事に関する文献の例として、「図面に記されぬ言葉を探る 石丸隆夫とイシマル」『AXIS』1991年冬号(no. 38)、71-73頁参照。
注2:2006年7月25日に筆者が行った石丸隆夫へのインタヴューによる。
注3:同上。
注4:「アバンギャルドショップ カプセル」『商店建築』1968年6月号(vol. 13, no. 6)、
63頁。
注5:横尾忠則「『燃える、燃える』のクラマタ」『ジャパンインテリア』1968年6月号(no. 111)、41頁。
注6:倉俣史朗、多木浩二「④事物の逆説――倉俣史朗+多木浩二」(対談)多木浩二『四人のデザイナーとの対話』新建築社、1975年、218頁。
注7:2006年7月25日に筆者が行った石丸隆夫へのインタヴューによる。
注8:倉俣史朗、山口勝弘(対談)「ミニマル空間の追求――倉俣史朗の空間を語る」『ジャパンインテリア』1974年2月号(no. 179)、51頁。
注9:長谷川堯「『伝説』にただようクラマタの秘境」『商店建築』1973年5月号
(vol. 18, no. 5)、199頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗「Flower Vase #1301」(ブルー)アクリル
W8.0xD8.0xH22.0cm
撮影:桜井ただひさ
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
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