虚空に種まく人
草間彌生の労働・科学・芸術
小泉晋弥(2000年執筆)

草間彌生の年譜をひらいて、画家、彫刻家、パフォーマー、小説家、詩人、さらには企業家としても才能を発揮した経歴と業績を前にしたとき、病を芸術に昇華させた芸術家という一つの側面だけで彼女を把握することの困難さに直面する。次のような言葉を参照して、彼女の活動全般に共通する意志と特質を考察したいと思う。
「人間の偉大さはつねに、自分の生命を再創造することである。自分に与えられたものを再創造することである。そればかりか、自分自身が耐え忍んでいることがらさえもつくり上げることである。労働をとおして、彼は自分自身が生まれもった生存をつくり出す。科学をとおして、彼は象徴を用いながら宇宙を再創造する。芸術を媒介として、彼は自分の肉体と魂の結びつきを再創造する(ユーパリノスの演説を参照)。労働、科学、芸術、この三つのものは、一つだけを対象としてとりあげ、他の二つとの関連なしにみると、なにかしら貧しく、空虚で、むなしいものであることに留意すべきだ」。(シモーヌ・ヴェーユ) (1)
草間の活動を芸術だけで考えると空虚でむなしいというのではない。労働、科学、芸術それ ぞれのフィルターを重ね合わせてみたとき、様々な相で自らを再創造しつづける草間の類いまれな芸術活動の偉大さが浮かび上がってくるだろう。それは「美術史上の比較を絶して屹立する」(2) というよりも、美術史上の比較だけでは収まりきれない彼女の再創造のレンジの問題ではないだろうか。草間の芸術を考察するために、本論ではヴェーユにならって、これら三つの観点から、草間の圧倒的な制作の様相を順次整理してみよう。
労働
草間彌生は、自らの制作を「治療」であると説明し、大方そのように受け取られている。
「建畠-あなたの作品は一種の芸術療法ですか?
草間-自己治療です」。(3)
「草間が精神療法を通じて病の症状の現れ方に馴染み、その原因が幼年期にあることを分析的な思考により認識するにつれ、作品は文字通り精神の乱調を解決する作業としての性格を強めていく」。(4)
では、どのような働きによって制作が治療効果をもつのだろうか。ニューヨークでの彼女の「作業」もしくは「芸術=薬」(5)は次のようなものだった。
朝7時に目覚まし時計で起床し、食事や休息をはさみながら制作は夜中の3時まで続いた。「ナーバス・ブレイク・ダウンになって、救急車が来ちゃう。あまり仕事をすると脈が速くなるわけですよ。休憩なしに断続的に描いていると全部網になっちゃう。窓に赤い網が貼ってあっておかしいと思うと手も網になっている」。心臓発作だからとい って救急車を呼ぶが、救急車が着くころには収まって、医者に診てもらうと血圧も脈も普通になっている。作品はほとんど4時間ぐらいしか寝ないで制作した...。 (6)
そのようにして驚異的な多作が実現された。《無限の網》のシリーズは、黒く下塗りしたロールのキャンバスをテーブルに広げ、網を描き、その面が一杯になるとテーブルの幅ずつ巻き取りながら制作された。網の目の肌理は、そのテーブルの幅ごとに微妙に変化し、壁画におけるジョルナータ(一日分の仕事範囲)のように作業量がブロック状になって現れている。その画面は、寄せては引く波のようなリズムとなる。規則的な縦横の縞が画面上に現れてくるのは、狭い仕事場で大作を生みだすための彼女の合理的な制作方法の結果であった。そのようにして出来上がった作品は、展覧会に出品するときに枠に張られるまで丸められてスタジオに保管される。
その制作のありさまを想像すると、まるで織物工場の職工のようにひたすら生産しストック する、いわゆる芸術制作とはかけ離れた草間の仕事ぶりが目に浮かんでくる。それは草間が反復の影響を与えたというウォホールのファクトリーの、助手を使った工房制作とも異なって、倒れて救急車を要請するほどの直接的な労働だったのだ。それが当時のアメリカでも特殊だったことは、次のように指摘されている。「...60年代のニューヨークで大きな影響力をもったアーティストの幾人かとは対照的に、草間の作品は肉体労働抜きには存在しえないものだった」。(7)
このような制作方法を芸術療法と呼ぶことは妥当なのだろうか。制作によってかえって、病状は昂進しているように思える。制作後に現れる網の脅迫的イメージを彼女は次のように述べている。
「魔法にかかったようだった。カンヴァスに描く網は、私自身を人々や現実から隔てるカーテンのように思えた……壁や天井、床、家具を見ると、そうしたものがすべて網で覆われていた」。(8)
絵を描くことで病気が直ったという自覚があったのかどうかという筆者の問いに、草間は「ただ夢中になって描いていただけで、病気のことも知らないし、後になってあなたは精神科医(にいくべき)だよと言われた」と答えている。没頭することで、一時的に病を忘れることができるのだという。別のインタヴューでも草間がはっきり「私は大量に描いた。そうすることで逃れようとした」 (9) と答えているように、制作は治療というよりも逃避であったのではないか。草間にとっての制作の重要性は治療ではなく、量を生みだすことにあるととらえたらどうだろうか。次の対談で確認されるように、草間はニューヨークでは治療ではなく、労働していたのだから。
「M-でもずいぶん速く仕事をしていたと僕は記憶しているけれど。一日に一枚の大きな絵を 描きあげてしまっていた。
K-水玉が大きいから。でもよくがんばって描いていたでしょう。
M-画家というより労働者みたいだった」。(10)
草間の病は十代から進行しており、精神科医は「家から離れなさい」と助言していたという。病気のもとは母親だからといわれて、東京に出たものの、オーラを放つ猫を見たり、周囲の人々の言葉が理解できなかったり、結局病状はますます昂進した。渡米前のその期間に、彼女はすでに何千枚もの小品を生みだしている。それが渡米によって、作品のサイズにおいても質から量への転換を果たすのだ。
「M-昔の貴女は、リアリズムには興味がない、神秘的なものに興味があると書いていましたね。
K-子供のころの、まだ人格もないようなときに描いた作品が、ものすごく気になっていたのです。でもニューヨークに行ったらそういう考えはふっ飛んだけれど」(11)
ニューヨークが草間にもたらしたのは現実社会の圧倒的な力であり、ちょうど、シモーヌ・ヴェーユが工場労働で得た直感に近いのではなかろうか。ヴェーユは次のように労働の意味を定義する。
「肉体労働は毎日の死である。
労働するとは、おのれ自身の存在を、魂と肉体ともども物質の循環のなかに置き、物質の断片が一つの状態から他の状態へ移行する際の仲介者となり、その道具となることである。…死と労働は必然に属する事象であって、選択に属 する事象ではない。宇宙が人間に糧と熱として与えられるのは、その人間が労力として宇宙におのれを与えるときのみである。…労働は人問の本性に無理を強制する。ある場合には、自己を消費しようとのぞみながら、そのはけ口を見出せないほどの若々しい活力の横溢がある。…肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない」。(12)
草間の仕事ぶりはまさに肉体労働を霊的中心として、絵具という断片を他の状態へと移行させることだった。中原佑介氏は「私は退屈を描いたのだ」という草間の言葉を引いて、「それは自己をなかば機械と同質のものとみなすに等しい行為である」(13) と規定している。彼女はまさに道具となった。その過程で彼女は仲介者=メディア=巫女としての自分を確立したのではないか。病気であろうがなかろうが、それは草間にとって画家として選択の余地のない仕事であった。労働によって宇宙が「糧と熱として与えられる」という表現は詩的な比喩ではない。熱力学の定義である。
科学
筆者はかつて、熱力学の第二法則(自然の過程ではエントロピーは不可逆的に増大する)によって河口龍夫氏の作品を説明しようと試みたことがある(14)。ここでは同様の観点から草間の位置づけがかなり明解になると思われるので、少し遠回りかもしれないが、ピーター・W・アトキンスの解説(15)を借りて、論を展開しておきたい。 第二法則は、原子レベルの全ての運動が止まってしまう熱的均衡=「死」へ向かって進行するのが宇宙の運命であると指摘する。第一法則(エネルギー保存の法則)によって宇宙全体のエネルギー量は変わらないが、次第にエネルギーの価値(仕事に使える働き)が低いところで一定になり、不活発になっていく。そのエネルギーの価値が高いのか、低いのか「エネルギーが蓄積さ れているようすを表しているのがエントロピーである」(16)。エネルギーの価値が高い状態はエントロピーが少く、価値が減っていくとエントロピーが増大する。宇宙のエネルギーは一定であるから、エネルギー危機は起こらない。しかし、「科学技術の進んだ社会が燃料をますます多く燃やすにつれ、宇宙のエントロピーは容赦なく増大し、 蓄積されたエネルギーの価値は低下する」。
宇宙は膨張を続けエネルギー価値を低下させているが、局地的にはエネルギーの集積と拡散の繰り返しとなる。集積は秩序を、拡散は混沌を生みだす。たとえば、エンジンは燃料(秩序)を燃やしてガス(混沌)に変えることで、エネルギーの一部からピストン運動(一様な運動)を得る。そのとき、仕事という大きな秩序が得られ、そこにおいてはエントロピーは減少するのだが、同時にもっと大きな混沌(排気ガス)を捨てるため、 全体としてはエントロピーは減少しないという第二法則に従っている。「カオスがたくさん存在すればするほど、より一様な運動を世の中の一部で引き起こす」(17)という逆説的な現象はこのようにして起こっている。
ある種の構造が生まれると、その構造は、集積してより大きな構造へと発達する。それは第二法則に反するように見えて実はそうではない。なぜ油が水に溶けないかという簡単な例で理解される。「油分子は分散すると、水分子に囲まれてしまい(図1)、それぞれの油分子は、水分子でできた弱いおりの中に閉じこめられる。これらのおりが『構造』なのである。…おりができて乱雑さが減ると、エントロピーは大幅に減少する。…ということは、変化が自然あるいは自発的に進む方向は、ばらばらだった油分子がひとつの滴にかたまる方向」なのだ。(18)この現象を説明する図(図1) が、草間の「網」と「点」の関係と相似であることを、単なる偶然として片づけられないように思われる。油分子のようにたんぱく質が集積すると、やがて生命が発生する。したがって、 「エネルギーが好き勝手に流れると、生命と意識が世の中に現れる」(19)という。エネルギーが分散して構造が出現するもうひとつの例として、お湯が沸くときに出現する「ベナール不安定性」が挙げられている。この模様もまた草間の画面と相似であることに注目したい。この模様が出現するところでは、エネルギーの分散が速まっており、エントロピーが速く増大するのだという(図2)。「この構造は、エネルギーの『流れ』によって支えられていて、流れが止まると同時に、構造も崩壊してしまう」。(20) 生命もこうした構造の一つである。
「乱雑さが一様性をつくりだし、それがまた乱雑状態に戻る、つまり、乱雑さというほこりのような状態が最後には、またほこりになる。しかし、ただもとに戻るだけではない。ほこりがほこりに戻る間に、その過程から枝分かれして、生命の構造ができるのだ。だから、私たちは生きるためにエネルギーを分散させ、はかない不安定性を支えていなければならない。安定は、死を意味するからである」。(21)
草間が幼いころから目にしていた「水玉=点」 とは、生命活動の沸騰にともなうエネルギーの「べナール不安定性」の渦を人一倍鋭く感じ取っていたということではなかっただろうか。草間の作品は、集積と拡散という一見すると相反する要素をはらみながら展開する、宇宙の根本的な摂理に触れている。そのことが、草間を空海と比較する峯村敏明氏のように、その作品にある宗教的な感情を抱かせる原因となっているだろう。(22)
草間自身は点と網を次のように説明している。
「靴、ハンドバッグ、人のからだにドットを着けると、とたんにその生命は永遠に永劫化されて、個という一つの物体を離れて、永遠に昇華される。永遠の生命の中に化身される。オブリタレイトされる。だからドットはその仲介をなしている。 ネットもその魔法の杖である」。(23)
いつごろから永劫化とオブリタレイション(消滅)として自覚されるようになったのかは不明だが、渡米当初は違う考えだったことが、最近の対談で示唆されている。
「K-ひとつひとつの個が水玉の網を描くことによって永劫回帰するっていう記事もありました。
M-それで、貴女はそういった批評をばかげていると怒っていましたね。自分は東洋的な神秘主義を描きに来ているのではないと」。(24)
自己消滅や永劫回帰という作品解釈は、アメリカでの批評を受け入れて発展させたものだったように思える。草間は、生命が本質的に不安定な構造にあり、描き続けなければ生きてはいけないことを体現している表現者である。そして、自分自身が「ほこり」に戻った後にも、残された作品が自分の意志を引き継いでくれると信ずる芸術家なのだ。渡米前から、草間の作品に数多く現れていた点と網の意味するものについての考察は芸術の領域になる。
芸術:点と網
1999年東京都現代美術館での巡回展で初公開された初期作品群によって、草間の世界の新たな局面に光が当てられた。《集積の大地》など1950年代の油絵には彼女の生家が経営する畑の光景が描かれ、次のような回想の風景を具体的に示している。
「花は幼いころ、生家がアメリカの園芸業者たちのような広大な採種場を持っていたので、花を描きたいときはスケッチブックを持っていって一日中描きまくったものである」。(25)
1980年代以降、草間のトレードマークとなったカボチャもまた採種場にたくさん転がっていた。「ひろびろとしたのうじょうのなかに うれたかぼちやをみいだす うれしさ ないふで それをつるからはがす きりくちからつゆのようにじゅえきが ふきだしてきてしんせんそのものだ」。(26)種の卸・小売業を営んでいた生家には、カボチャから取りだされ袋詰めされた種が積んであった。初期の作品群でそのような種袋をキャンバスに利用していることに、草間の芸術と種子の関係の深さが確認される。初期作品群のモチーフであるトウモロコシ、向日葵なども採種用の作物なのである。
《発芽》と直接題された作品があるように、草間の「点」に種子のイメージを見ることは間違いではないだろう。ただし、それは具体的な種子を指すのではなく、生命の生成エネルギーが集積した状態の象徴だろう。「水玉即ちミリオンの粒子の一点である私の命」(27)であり、それは時に「夜になるとりんりんと輝きを増す天の星」(28) という宇宙の星々のイメージでもある。
さらに、1960年代になって出現するペニス状の突起についても、生成エネルギーの象徴として考えたい。草間は次のように述べる。「一番最初に男根をつくったのは、セックスは汚いという恐怖感を持っていたからなんです。だから、それを治すためにつくりだしたのが男根なんです。男根をいっぱいつくることによって、自己療法をしたわけですよ。…それらしいものをつくってみたら、ああ、こんなにおもしろいのかと思って、太陽の下でもってきらびやかに病気を賛美するという形になってきたんです」。(29)
これを水玉の強迫と同じように、男根強迫と考えると、この突起が草間の無意識下では立体化した水玉のヴァリエーションであると見ることはできないだろうか。それは種子が発芽して成長する姿であり、あるいは大地から這い出してくる蛇の姿とも重なり、種子の片割れをばらまこうとするという意味ではペニスでもある。そのイメージは小説の中では重なって登場するのである。「小川の岸のあたり一面の落葉の葉脈が筋になってうねうねとたゆたっている。それは蛇の紋様に次第になってきて、いきいきと地によみがえってきた蛇の精たちなのだ。その枯葉の地の間々にあまた立つ樹々や白樺は一面の蛇のたたずまいだった。…その度にあたりに怪しげな女の性器をおびやかす蛇が一面に動き出すのだ。」(30)ただし、蛇はその外見からフロイト的にペニスとだけ解釈されるのでは足りない。脱皮という特質が出産に擬せられて、古代日本では蛇は女性の生命力とも見られていた。(31)要は生存のために集積し成長する、冬には地に隠れ、春に復活するという点で、種子と同等の生命エネルギーの姿ととらえられていたのだ。さらに、ペニス状の突起は前述したエネルギーの流動を示す「ベナール不安定性」の渦を側面から見たものに等しいことも指摘しておこう。
ペニス状の突起であふれた《強迫家具》とは、安定した(ということは死んだ)日常家具を生命活動のエネルギーの流れの中に取り込んで再生する営みだったのではないだろうか。草間は渡米前につぎのように語っていた。「隠すことがすべての顕示であるような、あるいは桃の実につけられた小さな蟲の穴が却ってそのいのちをあらわすような、そうした方法によって、私は神秘をあらわしたいのです。(32)渡米後の活動は、詩的・神秘的なものを追求するいとますらなく、圧倒的な量の集積によって、生命の活性化の表現を実体化したのだ。しかし、フォトコラージュで強迫家具に囲まれた彼女の姿は、まるで故郷の花畑の中にたたずんでいるように見える。
点=水玉が個別の生命エネルギーだとして、網は何であろうか。草間は《無限の網》について「この白い網は無の背後の暗黒の、音のない死の黒の水玉を包んで、私は朝から晩まで描いていた」 (33)と説明する。その言葉のとおり、《太平洋》と題された作品では黒い下地に白い網が描かれ ているが、実際の作品では下地が黒ではなく、 灰色に見える。網を描き終えた後に薄く溶いた白い絵具をかけてあるためだ。このことは、網の「膜」としての重要性を示しているように思える。網は空虚=死と充実=生を隔てる場所にある。それは壁ではなく、相互の流通が可能で、常に死の存在を感じさせる薄い膜なのである。網は混沌を覆い尽くしてそこからエネルギーを抽出する浸透膜のような装置であり、草間の労働のたまものとして出現し、深い孤独感から尽きないエネルギーをくみ取る彼女の存在そのものを象徴するだろう。それが《ハドソン河》や《太平洋》という河や海の水面を暗示する題名をもつとき、エネルギーがひしめく水中とエネルギーの拡散する空中との境界面を網と見ているのは明らかだ。《集合-千のボート・ショー》におけるボートは、虚無の暗黒の上を漂っていたが、《無限の網》の役割はこの暗黒を覆うものだったはずである。 網には、物体を虚無との境界で脈動させながら、水面のように物体を支えるという二つの働きがある(図1参照)。
芸術:フォトコラージュ
草間は制作する時間はほとんど労働者であり、発表時にプロデューサーとしての才能を発揮し、積極的に自らをプロモートする。そして芸術家として死後の作品の在り方に気を配る。コラージュの場合、制作時から芸術家として作品全体を見渡していた。私たちの作品体験でも、草間のタブローがいつも波に呑み込まれるような体験をもたらすのに比べて、コラージュは意味を読み取ることが可能であり、一般的な絵画体験に近い構造をもっているだろう。実際に草間はタブローの制作に際しては、ほとんど構図などの配慮をすることなく描画に着手し、同じ勢いで制作を進めていく。それに対して、とくに自らが被写体となった写真では「草間が写真の構成を厳密に指示した」(34) という。そしてそれを使ったコラージュでも明確な構図と象徴言語への意識が感じられる。
「だから、草間彌生という中にいつも未知の分野があって、それを引き出して、独創のためにコラージュする。…それで、モノとモノとの関係からはあらわれえない、未知の分野の影とか神秘とかを引き出すための素材として、コラージュというものがあったということなんです。…ただ、自分の世界の背後を探るという意味においては、いま死んでもいいと思うぐらい、ものすごく重大な結果をもたらしてくるということなんですよ」。(35)草間は未知の自己と世界をつなぐ接点として、コラージュの重要性を十分に認識していた。
滞米中のコラージュには二つの系統がある。《強迫家具》を伴った作品ではひたすら集積のイメージが追求され、網を扱った作品のコラージュでは、空間の空ろさが強調されている。網で覆われたマネキンやバッグは日常生活と背を接した虚無を感じさせる。床にマカロニが敷き詰められたイメージは、次のような草間の言葉から考察できるだろう。
「私は、死ぬまで絶え間なく高速道路を走っているかベルトコンベアで運ばれているように感じている。これは何千杯ものコーヒーを飲み、何千フィートものマカロニを食べ続けるようなものだ」。(36)
「マカロニを使ったのは、お米とかパンだと、宗教的なものやポエティックなものがあるけれど、 マカロニは機械で量産される。そういうマカロニを一生食べて死ぬこともできないし、生きることもできない」。(37)
マカロニは、エネルギーを沸き立たせない食物として、流されていく生のとめどなさを示し、網と同様の虚無を際立たせる象徴となっている。これらの作品は「性と無茶食いを融合させたこの地獄図絵」(38) ととるよりも、食べることが生命の発現に結びつかない食物と生命エネルギーに沸き立つ家具の対比において、《千のボート》と同様に虚無の上に浮かぶ生と見るべきだろう。草間が嫌悪したという男根は、むしろ希望の象徴となっているだろう。
帰国後から、大量にストックしていた雑誌の切り抜きによるコラージュが発表される。《自画像》は中心に蟻の巣の断面のイラストをもつ花、そこに様々な蝶や蛾が集うというイメージであり、ここでは草間は自らを、荒野に咲く花、様々な虫達を養う花として見ている。1999年、東京都現代美術館での巡回展で、日本での草間を「In Full Bloom=満開」と形容したことは、比喩ではなく実体であったことが分かる。植物としての再生のイメージは、《セルフ・オブリタレーション》の写真で草間が自らの顔に緑の斑点を木の枝に赤い葉を加えていることにもつながっている。これらの背景は、エリアーデの次の言葉が明解に説明してくれる。
「人間とは、植物のレベルでの過剰がたえずその出現を促している、かりそめの形態なのである。『実在』と『力』の基盤も源泉も人間にはなく、植物にこそ存するのである。人間は、植物の新たな存在様態の束の間のあらわれにほかならない。人間は死ぬときに、換言すれば、人間の条件を放棄するときに『種子』または『精霊』の状態で、樹木にかえる」。(39)
水玉を身にまといパフォーマンスを指揮し、世界にドットを振りまき続ける草間の姿は、このエリアーデの著書に掲載されたイシスの姿になんと近いのだろう。イシスはエジプトでは死者復活の女神であったが、ギリシアで豊饒の女神と同一視された。この図では穀物の発見者として、麦と生殖力の象徴=蛇を頭上に乗せ、天空の女王として星をちりばめた服をまとい、大地と水を支配する。おそらくイシスと同じように、草間の目には、「その宇宙の現象の中に、蒼天も、白い雲も、河の波も、幾万の小石の群も、ひたすらにただ呼吸(いき)づいているのだった」。(40)
瀧口修造氏は草間の小説の後書きで、彼女を「虚のはざまに立って、いまは私よりも遥かにつよい眼差しを投げる妖精!」 (41) と述べた。いまなら、虚無の縁に立って、絶望と希望を越えて種を蒔きつつづける女神というだろう。
【注】
1. 『シモーヌ・ヴェーユ著作集3 重力と恩寵』渡辺義愛・渡辺一民訳 春秋社 1968/1998年、p293-294。
2. 浅田彰「増殖と斑点」『草間彌生版画集』阿部出版1992年、p26。
3. Akira Tatehata in conversation with Yayoi Kusama, Yayoi Kusama, Phaidon Press, 2000, p14 (訳文は筆者)。
4. アレクサンドラ・モンロー「天と地の間-草間彌生の文学作品」『草間彌生 ニューヨーク/東京 Love Forever: Yayoi Kusama, 1958-1968』木下哲夫訳 淡交社 1999年、p81。
5. リン・ゼレヴェンスキー「ドライヴィング・イメージ-ニュ ーヨークの草間彌生」『草間彌生 ニューヨーク/東京 Love Forever: Yayoi Kusama, 1958-1968』木下哲夫訳 淡交社 1999年、p14。
6. 筆者によるインタヴュー、2000年6月2日。
7. ゼレヴェンスキー前掲[5]、p15。
8. モンロー前掲[4]、p84。
9. 前掲[3]、p14(訳文は筆者)。
10. 「対談 三浦清宏/草間彌生」『草間彌生 ニューヨーク/東京 In Full Bloom: Yayoi Kusama, Years in Japan』東京都現代美術館 1999年、p25。
11. 前掲[10]、p28。
12. 『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』山崎庸一郎訳 春秋社 1967/1998年、p320-322。
13. 中原佑介「虚無の結晶 草間彌生の版画」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p123。
14 小泉晋弥「関係-教育・エドゥカティオ」『呼吸する視線 河口龍夫 見えないものとの対話』いわき市立美術館 1998年。
15. ピーター・W・アトキンス『エントロピーと秩序-熱力学の第二法則への招待』米沢富美子/森弘之訳 日経サイエンス社 1992年。
16. アトキンス同上、p53。
17. アトキンス同上、p141。
18. アトキンス同上、p218~219。
19. アトキンス同上、p248。
20. アトキンス同上、p255。
21. アトキンス同上、p274。
22. 峯村敏明「われは無限の他者なり」『草間彌生展』フジテレビギャラリー 1986年。
23. 草間彌生「ネットとドットによるセルフ・オブリタレイション」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p56 (原文は句読点のないカタカナだが、便宜上筆者が漢字交じり文とし、句読点を配した)。
24. 前掲[10]、p24。
25. 草間彌生「花」『草間彌生版画集』阿部出版 1992 年、p53。
26. 草間彌生「かぼちゃ」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p102。
27. 草間彌生「わが魂の遍歴と闘い」『芸術生活』1975年11月号(中原祐介「虚無の結晶」前掲[13]、 p123より引用)。
28. 草間彌生「夢の聖地 輝ける未来のために」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年p138。
29. 「ヴィジョンの降臨」『見えるものと観えないもの-横尾忠則対話録』筑摩書房 1992年、p179~180。
30. 草間彌生『天と地の間』而立書房 1988年、 p79-81。
31. 吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社学術文庫 1999年参照。
32. 草間彌生「新人の主張」『藝術新潮』1955年5月号 (関直子「草間彌生の日本における創作について」『草間彌生 ニューヨーク/東京 In Full Bloom: Yayoi Kusama, Years in Japan』東京都現代美術館 1999年、 p11より引用)。
33. 草間彌生前掲[27]。
34. ゼレヴァンスキー前掲[5]、p19。
35,前掲[29]、p164~165。
36. Interview with Gordon Brown (extract) 1964, Yayoi Kusama, Phaidon Press 2000、p104(訳文は筆者)。
37. 前掲[10]、p25。
38. ゼレヴァンスキー前掲 [5]、p18。
39. ミルチャ・エリアーデ『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』久米博訳・監修堀一郎 せりか書房 1985 年、p230。
40. 草間彌生前掲[30]、p151。
41. 瀧口修造「妖精よ永遠に」『マンハッタン自殺未遂常習犯』講談社 1978年(モンロー「天と地の間-草間彌生の文学作品」前掲[4]、p78より引用)。
(こいずみ しんや)
*『版画掌誌ときの忘れもの』第3号より、再録
■小泉晋弥(1953年~)
昭和28年福島県に生まれる。昭和55年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。昭和59年いわき市立美術館学芸員。平成4 年郡山市立美術館主任学芸員。平成08年茨城大学教育学部助教授、平成13年同教授。平成14年~18年茨城大学五浦美術文化研究所所長。平成23年~26年茨城大学教育学部附属中学校長。平成26年~30年茨城大学教育学部副学部長。平成27年~30年茨城大学教育学部附属幼稚園長。現在茨城大学名誉教授。五浦美術文化研究所客員所員。
■草間彌生 Yayoi KUSAMA
1929年長野県生まれ。49年京都市立美術工芸 学校卒。57年渡米。無限に増殖する網や水玉の作品 を制作、ソフトスカルプチャーなど環境彫刻の先駆け をなし、ボディペインティング、反戦運動など多数の ハプニングを行う。75年帰国。93年ベネチア・ビ エンナーレに参加。98-99年ニューヨーク MoMA他で大回顧展が巡回し、20世紀の最も優れ た女性作家の評価を決定的にした。2004年には 【クサマトリックス】(森美術館)と【草間彌生-永遠の現在】(東京国立近代美術館)の二つの大展覧会 が開催された。2000年芸術選奨文部大臣賞、 2001年朝日賞、2006年高松宮殿下記念世界文化賞(第18回)、2016年文化勲章を受章。2017年東京・新宿に草間彌生美術館が開館。
●『版画掌誌ときの忘れもの 第3号』











●『版画掌誌ときの忘れもの第3号』B版(版画1点入り)

草間彌生
《南瓜》
2000年
シルクスクリーン・コラージュ
27.0×21.0cm
Ed.135 Signed
※レゾネNo.294(阿部出版 2005年新版)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
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塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。
●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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草間彌生の労働・科学・芸術
小泉晋弥(2000年執筆)

草間彌生の年譜をひらいて、画家、彫刻家、パフォーマー、小説家、詩人、さらには企業家としても才能を発揮した経歴と業績を前にしたとき、病を芸術に昇華させた芸術家という一つの側面だけで彼女を把握することの困難さに直面する。次のような言葉を参照して、彼女の活動全般に共通する意志と特質を考察したいと思う。
「人間の偉大さはつねに、自分の生命を再創造することである。自分に与えられたものを再創造することである。そればかりか、自分自身が耐え忍んでいることがらさえもつくり上げることである。労働をとおして、彼は自分自身が生まれもった生存をつくり出す。科学をとおして、彼は象徴を用いながら宇宙を再創造する。芸術を媒介として、彼は自分の肉体と魂の結びつきを再創造する(ユーパリノスの演説を参照)。労働、科学、芸術、この三つのものは、一つだけを対象としてとりあげ、他の二つとの関連なしにみると、なにかしら貧しく、空虚で、むなしいものであることに留意すべきだ」。(シモーヌ・ヴェーユ) (1)
草間の活動を芸術だけで考えると空虚でむなしいというのではない。労働、科学、芸術それ ぞれのフィルターを重ね合わせてみたとき、様々な相で自らを再創造しつづける草間の類いまれな芸術活動の偉大さが浮かび上がってくるだろう。それは「美術史上の比較を絶して屹立する」(2) というよりも、美術史上の比較だけでは収まりきれない彼女の再創造のレンジの問題ではないだろうか。草間の芸術を考察するために、本論ではヴェーユにならって、これら三つの観点から、草間の圧倒的な制作の様相を順次整理してみよう。
労働
草間彌生は、自らの制作を「治療」であると説明し、大方そのように受け取られている。
「建畠-あなたの作品は一種の芸術療法ですか?
草間-自己治療です」。(3)
「草間が精神療法を通じて病の症状の現れ方に馴染み、その原因が幼年期にあることを分析的な思考により認識するにつれ、作品は文字通り精神の乱調を解決する作業としての性格を強めていく」。(4)
では、どのような働きによって制作が治療効果をもつのだろうか。ニューヨークでの彼女の「作業」もしくは「芸術=薬」(5)は次のようなものだった。
朝7時に目覚まし時計で起床し、食事や休息をはさみながら制作は夜中の3時まで続いた。「ナーバス・ブレイク・ダウンになって、救急車が来ちゃう。あまり仕事をすると脈が速くなるわけですよ。休憩なしに断続的に描いていると全部網になっちゃう。窓に赤い網が貼ってあっておかしいと思うと手も網になっている」。心臓発作だからとい って救急車を呼ぶが、救急車が着くころには収まって、医者に診てもらうと血圧も脈も普通になっている。作品はほとんど4時間ぐらいしか寝ないで制作した...。 (6)
そのようにして驚異的な多作が実現された。《無限の網》のシリーズは、黒く下塗りしたロールのキャンバスをテーブルに広げ、網を描き、その面が一杯になるとテーブルの幅ずつ巻き取りながら制作された。網の目の肌理は、そのテーブルの幅ごとに微妙に変化し、壁画におけるジョルナータ(一日分の仕事範囲)のように作業量がブロック状になって現れている。その画面は、寄せては引く波のようなリズムとなる。規則的な縦横の縞が画面上に現れてくるのは、狭い仕事場で大作を生みだすための彼女の合理的な制作方法の結果であった。そのようにして出来上がった作品は、展覧会に出品するときに枠に張られるまで丸められてスタジオに保管される。
その制作のありさまを想像すると、まるで織物工場の職工のようにひたすら生産しストック する、いわゆる芸術制作とはかけ離れた草間の仕事ぶりが目に浮かんでくる。それは草間が反復の影響を与えたというウォホールのファクトリーの、助手を使った工房制作とも異なって、倒れて救急車を要請するほどの直接的な労働だったのだ。それが当時のアメリカでも特殊だったことは、次のように指摘されている。「...60年代のニューヨークで大きな影響力をもったアーティストの幾人かとは対照的に、草間の作品は肉体労働抜きには存在しえないものだった」。(7)
このような制作方法を芸術療法と呼ぶことは妥当なのだろうか。制作によってかえって、病状は昂進しているように思える。制作後に現れる網の脅迫的イメージを彼女は次のように述べている。
「魔法にかかったようだった。カンヴァスに描く網は、私自身を人々や現実から隔てるカーテンのように思えた……壁や天井、床、家具を見ると、そうしたものがすべて網で覆われていた」。(8)
絵を描くことで病気が直ったという自覚があったのかどうかという筆者の問いに、草間は「ただ夢中になって描いていただけで、病気のことも知らないし、後になってあなたは精神科医(にいくべき)だよと言われた」と答えている。没頭することで、一時的に病を忘れることができるのだという。別のインタヴューでも草間がはっきり「私は大量に描いた。そうすることで逃れようとした」 (9) と答えているように、制作は治療というよりも逃避であったのではないか。草間にとっての制作の重要性は治療ではなく、量を生みだすことにあるととらえたらどうだろうか。次の対談で確認されるように、草間はニューヨークでは治療ではなく、労働していたのだから。
「M-でもずいぶん速く仕事をしていたと僕は記憶しているけれど。一日に一枚の大きな絵を 描きあげてしまっていた。
K-水玉が大きいから。でもよくがんばって描いていたでしょう。
M-画家というより労働者みたいだった」。(10)
草間の病は十代から進行しており、精神科医は「家から離れなさい」と助言していたという。病気のもとは母親だからといわれて、東京に出たものの、オーラを放つ猫を見たり、周囲の人々の言葉が理解できなかったり、結局病状はますます昂進した。渡米前のその期間に、彼女はすでに何千枚もの小品を生みだしている。それが渡米によって、作品のサイズにおいても質から量への転換を果たすのだ。
「M-昔の貴女は、リアリズムには興味がない、神秘的なものに興味があると書いていましたね。
K-子供のころの、まだ人格もないようなときに描いた作品が、ものすごく気になっていたのです。でもニューヨークに行ったらそういう考えはふっ飛んだけれど」(11)
ニューヨークが草間にもたらしたのは現実社会の圧倒的な力であり、ちょうど、シモーヌ・ヴェーユが工場労働で得た直感に近いのではなかろうか。ヴェーユは次のように労働の意味を定義する。
「肉体労働は毎日の死である。
労働するとは、おのれ自身の存在を、魂と肉体ともども物質の循環のなかに置き、物質の断片が一つの状態から他の状態へ移行する際の仲介者となり、その道具となることである。…死と労働は必然に属する事象であって、選択に属 する事象ではない。宇宙が人間に糧と熱として与えられるのは、その人間が労力として宇宙におのれを与えるときのみである。…労働は人問の本性に無理を強制する。ある場合には、自己を消費しようとのぞみながら、そのはけ口を見出せないほどの若々しい活力の横溢がある。…肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない」。(12)
草間の仕事ぶりはまさに肉体労働を霊的中心として、絵具という断片を他の状態へと移行させることだった。中原佑介氏は「私は退屈を描いたのだ」という草間の言葉を引いて、「それは自己をなかば機械と同質のものとみなすに等しい行為である」(13) と規定している。彼女はまさに道具となった。その過程で彼女は仲介者=メディア=巫女としての自分を確立したのではないか。病気であろうがなかろうが、それは草間にとって画家として選択の余地のない仕事であった。労働によって宇宙が「糧と熱として与えられる」という表現は詩的な比喩ではない。熱力学の定義である。
科学
筆者はかつて、熱力学の第二法則(自然の過程ではエントロピーは不可逆的に増大する)によって河口龍夫氏の作品を説明しようと試みたことがある(14)。ここでは同様の観点から草間の位置づけがかなり明解になると思われるので、少し遠回りかもしれないが、ピーター・W・アトキンスの解説(15)を借りて、論を展開しておきたい。 第二法則は、原子レベルの全ての運動が止まってしまう熱的均衡=「死」へ向かって進行するのが宇宙の運命であると指摘する。第一法則(エネルギー保存の法則)によって宇宙全体のエネルギー量は変わらないが、次第にエネルギーの価値(仕事に使える働き)が低いところで一定になり、不活発になっていく。そのエネルギーの価値が高いのか、低いのか「エネルギーが蓄積さ れているようすを表しているのがエントロピーである」(16)。エネルギーの価値が高い状態はエントロピーが少く、価値が減っていくとエントロピーが増大する。宇宙のエネルギーは一定であるから、エネルギー危機は起こらない。しかし、「科学技術の進んだ社会が燃料をますます多く燃やすにつれ、宇宙のエントロピーは容赦なく増大し、 蓄積されたエネルギーの価値は低下する」。
宇宙は膨張を続けエネルギー価値を低下させているが、局地的にはエネルギーの集積と拡散の繰り返しとなる。集積は秩序を、拡散は混沌を生みだす。たとえば、エンジンは燃料(秩序)を燃やしてガス(混沌)に変えることで、エネルギーの一部からピストン運動(一様な運動)を得る。そのとき、仕事という大きな秩序が得られ、そこにおいてはエントロピーは減少するのだが、同時にもっと大きな混沌(排気ガス)を捨てるため、 全体としてはエントロピーは減少しないという第二法則に従っている。「カオスがたくさん存在すればするほど、より一様な運動を世の中の一部で引き起こす」(17)という逆説的な現象はこのようにして起こっている。
ある種の構造が生まれると、その構造は、集積してより大きな構造へと発達する。それは第二法則に反するように見えて実はそうではない。なぜ油が水に溶けないかという簡単な例で理解される。「油分子は分散すると、水分子に囲まれてしまい(図1)、それぞれの油分子は、水分子でできた弱いおりの中に閉じこめられる。これらのおりが『構造』なのである。…おりができて乱雑さが減ると、エントロピーは大幅に減少する。…ということは、変化が自然あるいは自発的に進む方向は、ばらばらだった油分子がひとつの滴にかたまる方向」なのだ。(18)この現象を説明する図(図1) が、草間の「網」と「点」の関係と相似であることを、単なる偶然として片づけられないように思われる。油分子のようにたんぱく質が集積すると、やがて生命が発生する。したがって、 「エネルギーが好き勝手に流れると、生命と意識が世の中に現れる」(19)という。エネルギーが分散して構造が出現するもうひとつの例として、お湯が沸くときに出現する「ベナール不安定性」が挙げられている。この模様もまた草間の画面と相似であることに注目したい。この模様が出現するところでは、エネルギーの分散が速まっており、エントロピーが速く増大するのだという(図2)。「この構造は、エネルギーの『流れ』によって支えられていて、流れが止まると同時に、構造も崩壊してしまう」。(20) 生命もこうした構造の一つである。
「乱雑さが一様性をつくりだし、それがまた乱雑状態に戻る、つまり、乱雑さというほこりのような状態が最後には、またほこりになる。しかし、ただもとに戻るだけではない。ほこりがほこりに戻る間に、その過程から枝分かれして、生命の構造ができるのだ。だから、私たちは生きるためにエネルギーを分散させ、はかない不安定性を支えていなければならない。安定は、死を意味するからである」。(21)
草間が幼いころから目にしていた「水玉=点」 とは、生命活動の沸騰にともなうエネルギーの「べナール不安定性」の渦を人一倍鋭く感じ取っていたということではなかっただろうか。草間の作品は、集積と拡散という一見すると相反する要素をはらみながら展開する、宇宙の根本的な摂理に触れている。そのことが、草間を空海と比較する峯村敏明氏のように、その作品にある宗教的な感情を抱かせる原因となっているだろう。(22)
草間自身は点と網を次のように説明している。
「靴、ハンドバッグ、人のからだにドットを着けると、とたんにその生命は永遠に永劫化されて、個という一つの物体を離れて、永遠に昇華される。永遠の生命の中に化身される。オブリタレイトされる。だからドットはその仲介をなしている。 ネットもその魔法の杖である」。(23)
いつごろから永劫化とオブリタレイション(消滅)として自覚されるようになったのかは不明だが、渡米当初は違う考えだったことが、最近の対談で示唆されている。
「K-ひとつひとつの個が水玉の網を描くことによって永劫回帰するっていう記事もありました。
M-それで、貴女はそういった批評をばかげていると怒っていましたね。自分は東洋的な神秘主義を描きに来ているのではないと」。(24)
自己消滅や永劫回帰という作品解釈は、アメリカでの批評を受け入れて発展させたものだったように思える。草間は、生命が本質的に不安定な構造にあり、描き続けなければ生きてはいけないことを体現している表現者である。そして、自分自身が「ほこり」に戻った後にも、残された作品が自分の意志を引き継いでくれると信ずる芸術家なのだ。渡米前から、草間の作品に数多く現れていた点と網の意味するものについての考察は芸術の領域になる。
芸術:点と網
1999年東京都現代美術館での巡回展で初公開された初期作品群によって、草間の世界の新たな局面に光が当てられた。《集積の大地》など1950年代の油絵には彼女の生家が経営する畑の光景が描かれ、次のような回想の風景を具体的に示している。
「花は幼いころ、生家がアメリカの園芸業者たちのような広大な採種場を持っていたので、花を描きたいときはスケッチブックを持っていって一日中描きまくったものである」。(25)
1980年代以降、草間のトレードマークとなったカボチャもまた採種場にたくさん転がっていた。「ひろびろとしたのうじょうのなかに うれたかぼちやをみいだす うれしさ ないふで それをつるからはがす きりくちからつゆのようにじゅえきが ふきだしてきてしんせんそのものだ」。(26)種の卸・小売業を営んでいた生家には、カボチャから取りだされ袋詰めされた種が積んであった。初期の作品群でそのような種袋をキャンバスに利用していることに、草間の芸術と種子の関係の深さが確認される。初期作品群のモチーフであるトウモロコシ、向日葵なども採種用の作物なのである。
《発芽》と直接題された作品があるように、草間の「点」に種子のイメージを見ることは間違いではないだろう。ただし、それは具体的な種子を指すのではなく、生命の生成エネルギーが集積した状態の象徴だろう。「水玉即ちミリオンの粒子の一点である私の命」(27)であり、それは時に「夜になるとりんりんと輝きを増す天の星」(28) という宇宙の星々のイメージでもある。
さらに、1960年代になって出現するペニス状の突起についても、生成エネルギーの象徴として考えたい。草間は次のように述べる。「一番最初に男根をつくったのは、セックスは汚いという恐怖感を持っていたからなんです。だから、それを治すためにつくりだしたのが男根なんです。男根をいっぱいつくることによって、自己療法をしたわけですよ。…それらしいものをつくってみたら、ああ、こんなにおもしろいのかと思って、太陽の下でもってきらびやかに病気を賛美するという形になってきたんです」。(29)
これを水玉の強迫と同じように、男根強迫と考えると、この突起が草間の無意識下では立体化した水玉のヴァリエーションであると見ることはできないだろうか。それは種子が発芽して成長する姿であり、あるいは大地から這い出してくる蛇の姿とも重なり、種子の片割れをばらまこうとするという意味ではペニスでもある。そのイメージは小説の中では重なって登場するのである。「小川の岸のあたり一面の落葉の葉脈が筋になってうねうねとたゆたっている。それは蛇の紋様に次第になってきて、いきいきと地によみがえってきた蛇の精たちなのだ。その枯葉の地の間々にあまた立つ樹々や白樺は一面の蛇のたたずまいだった。…その度にあたりに怪しげな女の性器をおびやかす蛇が一面に動き出すのだ。」(30)ただし、蛇はその外見からフロイト的にペニスとだけ解釈されるのでは足りない。脱皮という特質が出産に擬せられて、古代日本では蛇は女性の生命力とも見られていた。(31)要は生存のために集積し成長する、冬には地に隠れ、春に復活するという点で、種子と同等の生命エネルギーの姿ととらえられていたのだ。さらに、ペニス状の突起は前述したエネルギーの流動を示す「ベナール不安定性」の渦を側面から見たものに等しいことも指摘しておこう。
ペニス状の突起であふれた《強迫家具》とは、安定した(ということは死んだ)日常家具を生命活動のエネルギーの流れの中に取り込んで再生する営みだったのではないだろうか。草間は渡米前につぎのように語っていた。「隠すことがすべての顕示であるような、あるいは桃の実につけられた小さな蟲の穴が却ってそのいのちをあらわすような、そうした方法によって、私は神秘をあらわしたいのです。(32)渡米後の活動は、詩的・神秘的なものを追求するいとますらなく、圧倒的な量の集積によって、生命の活性化の表現を実体化したのだ。しかし、フォトコラージュで強迫家具に囲まれた彼女の姿は、まるで故郷の花畑の中にたたずんでいるように見える。
点=水玉が個別の生命エネルギーだとして、網は何であろうか。草間は《無限の網》について「この白い網は無の背後の暗黒の、音のない死の黒の水玉を包んで、私は朝から晩まで描いていた」 (33)と説明する。その言葉のとおり、《太平洋》と題された作品では黒い下地に白い網が描かれ ているが、実際の作品では下地が黒ではなく、 灰色に見える。網を描き終えた後に薄く溶いた白い絵具をかけてあるためだ。このことは、網の「膜」としての重要性を示しているように思える。網は空虚=死と充実=生を隔てる場所にある。それは壁ではなく、相互の流通が可能で、常に死の存在を感じさせる薄い膜なのである。網は混沌を覆い尽くしてそこからエネルギーを抽出する浸透膜のような装置であり、草間の労働のたまものとして出現し、深い孤独感から尽きないエネルギーをくみ取る彼女の存在そのものを象徴するだろう。それが《ハドソン河》や《太平洋》という河や海の水面を暗示する題名をもつとき、エネルギーがひしめく水中とエネルギーの拡散する空中との境界面を網と見ているのは明らかだ。《集合-千のボート・ショー》におけるボートは、虚無の暗黒の上を漂っていたが、《無限の網》の役割はこの暗黒を覆うものだったはずである。 網には、物体を虚無との境界で脈動させながら、水面のように物体を支えるという二つの働きがある(図1参照)。
芸術:フォトコラージュ
草間は制作する時間はほとんど労働者であり、発表時にプロデューサーとしての才能を発揮し、積極的に自らをプロモートする。そして芸術家として死後の作品の在り方に気を配る。コラージュの場合、制作時から芸術家として作品全体を見渡していた。私たちの作品体験でも、草間のタブローがいつも波に呑み込まれるような体験をもたらすのに比べて、コラージュは意味を読み取ることが可能であり、一般的な絵画体験に近い構造をもっているだろう。実際に草間はタブローの制作に際しては、ほとんど構図などの配慮をすることなく描画に着手し、同じ勢いで制作を進めていく。それに対して、とくに自らが被写体となった写真では「草間が写真の構成を厳密に指示した」(34) という。そしてそれを使ったコラージュでも明確な構図と象徴言語への意識が感じられる。
「だから、草間彌生という中にいつも未知の分野があって、それを引き出して、独創のためにコラージュする。…それで、モノとモノとの関係からはあらわれえない、未知の分野の影とか神秘とかを引き出すための素材として、コラージュというものがあったということなんです。…ただ、自分の世界の背後を探るという意味においては、いま死んでもいいと思うぐらい、ものすごく重大な結果をもたらしてくるということなんですよ」。(35)草間は未知の自己と世界をつなぐ接点として、コラージュの重要性を十分に認識していた。
滞米中のコラージュには二つの系統がある。《強迫家具》を伴った作品ではひたすら集積のイメージが追求され、網を扱った作品のコラージュでは、空間の空ろさが強調されている。網で覆われたマネキンやバッグは日常生活と背を接した虚無を感じさせる。床にマカロニが敷き詰められたイメージは、次のような草間の言葉から考察できるだろう。
「私は、死ぬまで絶え間なく高速道路を走っているかベルトコンベアで運ばれているように感じている。これは何千杯ものコーヒーを飲み、何千フィートものマカロニを食べ続けるようなものだ」。(36)
「マカロニを使ったのは、お米とかパンだと、宗教的なものやポエティックなものがあるけれど、 マカロニは機械で量産される。そういうマカロニを一生食べて死ぬこともできないし、生きることもできない」。(37)
マカロニは、エネルギーを沸き立たせない食物として、流されていく生のとめどなさを示し、網と同様の虚無を際立たせる象徴となっている。これらの作品は「性と無茶食いを融合させたこの地獄図絵」(38) ととるよりも、食べることが生命の発現に結びつかない食物と生命エネルギーに沸き立つ家具の対比において、《千のボート》と同様に虚無の上に浮かぶ生と見るべきだろう。草間が嫌悪したという男根は、むしろ希望の象徴となっているだろう。
帰国後から、大量にストックしていた雑誌の切り抜きによるコラージュが発表される。《自画像》は中心に蟻の巣の断面のイラストをもつ花、そこに様々な蝶や蛾が集うというイメージであり、ここでは草間は自らを、荒野に咲く花、様々な虫達を養う花として見ている。1999年、東京都現代美術館での巡回展で、日本での草間を「In Full Bloom=満開」と形容したことは、比喩ではなく実体であったことが分かる。植物としての再生のイメージは、《セルフ・オブリタレーション》の写真で草間が自らの顔に緑の斑点を木の枝に赤い葉を加えていることにもつながっている。これらの背景は、エリアーデの次の言葉が明解に説明してくれる。
「人間とは、植物のレベルでの過剰がたえずその出現を促している、かりそめの形態なのである。『実在』と『力』の基盤も源泉も人間にはなく、植物にこそ存するのである。人間は、植物の新たな存在様態の束の間のあらわれにほかならない。人間は死ぬときに、換言すれば、人間の条件を放棄するときに『種子』または『精霊』の状態で、樹木にかえる」。(39)
水玉を身にまといパフォーマンスを指揮し、世界にドットを振りまき続ける草間の姿は、このエリアーデの著書に掲載されたイシスの姿になんと近いのだろう。イシスはエジプトでは死者復活の女神であったが、ギリシアで豊饒の女神と同一視された。この図では穀物の発見者として、麦と生殖力の象徴=蛇を頭上に乗せ、天空の女王として星をちりばめた服をまとい、大地と水を支配する。おそらくイシスと同じように、草間の目には、「その宇宙の現象の中に、蒼天も、白い雲も、河の波も、幾万の小石の群も、ひたすらにただ呼吸(いき)づいているのだった」。(40)
瀧口修造氏は草間の小説の後書きで、彼女を「虚のはざまに立って、いまは私よりも遥かにつよい眼差しを投げる妖精!」 (41) と述べた。いまなら、虚無の縁に立って、絶望と希望を越えて種を蒔きつつづける女神というだろう。
【注】
1. 『シモーヌ・ヴェーユ著作集3 重力と恩寵』渡辺義愛・渡辺一民訳 春秋社 1968/1998年、p293-294。
2. 浅田彰「増殖と斑点」『草間彌生版画集』阿部出版1992年、p26。
3. Akira Tatehata in conversation with Yayoi Kusama, Yayoi Kusama, Phaidon Press, 2000, p14 (訳文は筆者)。
4. アレクサンドラ・モンロー「天と地の間-草間彌生の文学作品」『草間彌生 ニューヨーク/東京 Love Forever: Yayoi Kusama, 1958-1968』木下哲夫訳 淡交社 1999年、p81。
5. リン・ゼレヴェンスキー「ドライヴィング・イメージ-ニュ ーヨークの草間彌生」『草間彌生 ニューヨーク/東京 Love Forever: Yayoi Kusama, 1958-1968』木下哲夫訳 淡交社 1999年、p14。
6. 筆者によるインタヴュー、2000年6月2日。
7. ゼレヴェンスキー前掲[5]、p15。
8. モンロー前掲[4]、p84。
9. 前掲[3]、p14(訳文は筆者)。
10. 「対談 三浦清宏/草間彌生」『草間彌生 ニューヨーク/東京 In Full Bloom: Yayoi Kusama, Years in Japan』東京都現代美術館 1999年、p25。
11. 前掲[10]、p28。
12. 『シモーヌ・ヴェーユ著作集5 根をもつこと』山崎庸一郎訳 春秋社 1967/1998年、p320-322。
13. 中原佑介「虚無の結晶 草間彌生の版画」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p123。
14 小泉晋弥「関係-教育・エドゥカティオ」『呼吸する視線 河口龍夫 見えないものとの対話』いわき市立美術館 1998年。
15. ピーター・W・アトキンス『エントロピーと秩序-熱力学の第二法則への招待』米沢富美子/森弘之訳 日経サイエンス社 1992年。
16. アトキンス同上、p53。
17. アトキンス同上、p141。
18. アトキンス同上、p218~219。
19. アトキンス同上、p248。
20. アトキンス同上、p255。
21. アトキンス同上、p274。
22. 峯村敏明「われは無限の他者なり」『草間彌生展』フジテレビギャラリー 1986年。
23. 草間彌生「ネットとドットによるセルフ・オブリタレイション」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p56 (原文は句読点のないカタカナだが、便宜上筆者が漢字交じり文とし、句読点を配した)。
24. 前掲[10]、p24。
25. 草間彌生「花」『草間彌生版画集』阿部出版 1992 年、p53。
26. 草間彌生「かぼちゃ」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年、p102。
27. 草間彌生「わが魂の遍歴と闘い」『芸術生活』1975年11月号(中原祐介「虚無の結晶」前掲[13]、 p123より引用)。
28. 草間彌生「夢の聖地 輝ける未来のために」『草間彌生版画集』阿部出版 1992年p138。
29. 「ヴィジョンの降臨」『見えるものと観えないもの-横尾忠則対話録』筑摩書房 1992年、p179~180。
30. 草間彌生『天と地の間』而立書房 1988年、 p79-81。
31. 吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社学術文庫 1999年参照。
32. 草間彌生「新人の主張」『藝術新潮』1955年5月号 (関直子「草間彌生の日本における創作について」『草間彌生 ニューヨーク/東京 In Full Bloom: Yayoi Kusama, Years in Japan』東京都現代美術館 1999年、 p11より引用)。
33. 草間彌生前掲[27]。
34. ゼレヴァンスキー前掲[5]、p19。
35,前掲[29]、p164~165。
36. Interview with Gordon Brown (extract) 1964, Yayoi Kusama, Phaidon Press 2000、p104(訳文は筆者)。
37. 前掲[10]、p25。
38. ゼレヴァンスキー前掲 [5]、p18。
39. ミルチャ・エリアーデ『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』久米博訳・監修堀一郎 せりか書房 1985 年、p230。
40. 草間彌生前掲[30]、p151。
41. 瀧口修造「妖精よ永遠に」『マンハッタン自殺未遂常習犯』講談社 1978年(モンロー「天と地の間-草間彌生の文学作品」前掲[4]、p78より引用)。
(こいずみ しんや)
*『版画掌誌ときの忘れもの』第3号より、再録
■小泉晋弥(1953年~)
昭和28年福島県に生まれる。昭和55年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。昭和59年いわき市立美術館学芸員。平成4 年郡山市立美術館主任学芸員。平成08年茨城大学教育学部助教授、平成13年同教授。平成14年~18年茨城大学五浦美術文化研究所所長。平成23年~26年茨城大学教育学部附属中学校長。平成26年~30年茨城大学教育学部副学部長。平成27年~30年茨城大学教育学部附属幼稚園長。現在茨城大学名誉教授。五浦美術文化研究所客員所員。
■草間彌生 Yayoi KUSAMA
1929年長野県生まれ。49年京都市立美術工芸 学校卒。57年渡米。無限に増殖する網や水玉の作品 を制作、ソフトスカルプチャーなど環境彫刻の先駆け をなし、ボディペインティング、反戦運動など多数の ハプニングを行う。75年帰国。93年ベネチア・ビ エンナーレに参加。98-99年ニューヨーク MoMA他で大回顧展が巡回し、20世紀の最も優れ た女性作家の評価を決定的にした。2004年には 【クサマトリックス】(森美術館)と【草間彌生-永遠の現在】(東京国立近代美術館)の二つの大展覧会 が開催された。2000年芸術選奨文部大臣賞、 2001年朝日賞、2006年高松宮殿下記念世界文化賞(第18回)、2016年文化勲章を受章。2017年東京・新宿に草間彌生美術館が開館。
●『版画掌誌ときの忘れもの 第3号』











●『版画掌誌ときの忘れもの第3号』B版(版画1点入り)

草間彌生《南瓜》
2000年
シルクスクリーン・コラージュ
27.0×21.0cm
Ed.135 Signed
※レゾネNo.294(阿部出版 2005年新版)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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