石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─6
『あの頃の表現…』
展覧会 「写真の都」物語 ─ 名古屋写真運動史: 1911-1972
名古屋市美術館
2021年2月6日(土)~3月28日(日)
名古屋市美術館・正面
公立美術館の展覧会報告を個人的な話題から始めるのを許してもらいたい。わたしは名古屋生まれの名古屋育ち、高校時代に写真部へ入ったのがきっかけとなり、中部学生写真連盟[高校の部](以下、連盟)の活動に参加、多感な十代後半に「写真」によって人格が形作られてしまった。そして、この歳になるまで「写真道」まっしぐら(大袈裟ですな)、そんな人生を振り返させてくれる展覧会なのである。
担当学芸員・竹葉丈氏(以下、敬称略)に連盟の先輩・杉山茂太の自作写真集『SUD』をお見せしたのは2015年、学生写真のムーブメントを力説したように記憶する。これが展覧会企画の糸口のひとつになったのではないかと思うものだから、当初予定の昨年9月開催が延期され、心配していたところ無事に初日をむかえることが出来、喜び勇んで新幹線に乗ったしだい(わたしは、故郷を離れ京都に住んでおります)。
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会場・エントランスホール
開場の9時30分、エントランスでまず目に入ったサインは山本悍右の『<伽藍の鳥籠>のヴァリエーション』(題不詳、1940年)。戦時体制下の閉塞感と繋がるメッセージがあり、遮光幕で仕切られた会場への期待が膨らんだ。
わたしは、これまで大正期の絵画主義的写真を否定的にとらえていたが、認識が変わった。ある学者の指摘によると「良い歴史を知ることは、若者に生きる活力を与える」。良い歴史は家族の歴史に端緒を持ち、いわゆる自虐史観とは異なる。大正期の広小路で写真器材商を営み「愛友写真倶楽部」の創立メンバーの一人で代表も務めた山本悍右の父、五郎の写真11点が並ぶさまは壮観である。『渋温泉』のシリーズなんて白樺、たなびく雲、光の調子で目が洗われる体験、良い塩梅の写真なのです。ゴム印画やガラス乾板描き込みなどの技法を旦那衆の趣味として見過ごしたのは、現物を観ないままカタログや写真集などの印刷物から作られたイメージが独り歩きした結果だったと反省。微妙な紙の繊維と溶液が緩やかに流れるオリジナル写真にしびれます。和洋折衷の大正期日本家屋の応接間に掛けられていたと思われるような木製額に入った大判写真。日高長太郎の『白樺』(1924年)や『晴れたる日』(1914年頃)などの前に立ち、祖父母の家を思い浮かべた(写真ではなくて油絵だったけど)。光と遠近法が目に心地よく、網膜の喜びをことさら否定することもないように思う。デュシャンの革新から100年以上が経ち、わたしたちは盲目の時代に疲れているのかもしれない。
山本五郎『渋温泉』他
大橋松太郎『白樺』(1918年、ゴム印画) (左)、日高長太郎『白樺』(1924年、ゴム印画)
写真画集『白陽』『銀乃壺』、『日高長太郎遺作集』他
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およそ500点の写真と一次資料からなる今回の展覧会は、1911年から72年までを取り上げ、次の6章から構成されている。──Ⅰ.写真芸術のはじめ─日高長太郎と<愛友写真倶楽部> Ⅱ.モダン都市の位相─「新興写真」の台頭と実験 Ⅲ.シュルレアリスムか、アブストラクトか─「前衛写真」の興隆と分裂 Ⅳ.”客観と主観の交錯”─戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗 Ⅴ.東松照明登場 Ⅵ.<中部学生写真連盟>─集団と個人、写真を巡る青春の模索。
「写真運動史」の切り口を竹葉から伺ったとき、わたしには違和感があった。アルコールの入った席だったので話は別の方向にそれてしまったが、今展のカタログに氏は目的を「写真表現の変遷を個人の表現史として回顧するのではなく、複数の人が出会い、意気投合して生まれ出た表現として辿ること」「社会的あるいは時代的要請に写真がどのように応じたかを検証すること」と述べている。展示を見ながら氏の狙いが判り始めた。客観的になるのは大切です。
大正期の絵画主義的写真から新興写真への変化を追うと、展示壁の曲がり角にいくつもの兆しが潜むのだと「視覚的」に感得させられた。やや硬調の写真群は雑誌『カメラマン』(編集・高田皆義)の頁複写による再現で、前章のオリジナルプリントと違う目のアプローチが求められるとしても、残されなかった時代状況と云うか、オリジナルを網目印刷とする解釈が可能であるのかもしれない。高田皆義の『夏の女』(1939年)からはモホリ=ナジ・ラースローを連想するし、佐溝勢光の『GO STOP』(1931年)などドイツ実験映画ではありませんか。こうした写真が続く壁の終わりに弱冠18歳の山本悍右が「誌上アンデパンダン号」と銘打った研究会誌『獨立』に発表した『ある人間の思想の発展…靄と寝室と』(1932年)が掛けられている。これ名古屋市美術館蔵のオリジナル。コラージュでイメージとしても異質なんです。そして、曲がった裏側に並ぶ山本のシュルレアリスム写真6点をファンのわたしは念入りに拝見する。芳しいポエムの漂う写真群。並びの最後に山本の友人でもある後藤敬一郎の『最後の審判図』(1935~40年頃)が掛けられている。学芸員の竹葉が意図したかどうか判らないが、間隔をもうけていないので、同一人の写真と受け取らせる雰囲気がある(これが、運動史?)。
Ⅱ.モダン都市の位相
雑誌『カメラマン』21冊
山本悍右と後藤敬一郎(左端)
山本悍右(左)と後藤敬一郎(右) 、VIVI社マニフェスト『CARNET DE VIVI』No.1(ケース)
それはそれとして、会場を進んだわたしは雑誌『カメラマン』21冊の表紙と対面する。直前まで額装された写真の「複写、インクジェットプリント」とするキャプションを読みつつ図像解釈に勤しんでいたわたしは、ここで、竹葉にしてやられたと気づいた。実際の雑誌頁を捲り目と手で楽しむ喜びが、会場の空間に漂っていたのである。さらに、雑誌群の裏側には二冊の珍しい写真集。──これについては、会場で実見されたい。
竹葉の企画意図とのズレを承知しつつ、わたしが興味をもったのは個人における表現の変遷だった。特に絵画主義的写真の時代に登場し新興写真を経て戦後、山本悍右、後藤敬一郎、服部義文らとの『VIVI社』結成に至る高田皆義の多様性、写真画集『銀の壺』『白陽』や雑誌『カメラマン』での発表作を会場で記憶し(各章に分散して展示)、戦後のソラリゼーションや二重焼付を用いたヌード連作に対面すると、個人と時代との関わりを改めて考えてしまった。影響とはなんだろう。リアリズムも主観主義もわたしからは遠い。写真表現が「お金持ち」の芸術、アマチアの趣味に停滞する感を持つ。ライカやニコンのカメラ談義には、「持たない者の不満」がたまるのである。高田がその例ではないとしても。
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二階の会場に上がると中部学生写真連盟のレジェンド・東松照明の写真が並んでいる。ほとんどが豊橋市美術博物館のコレクションと云う。わたしが高校の写真部で写真集『日本』(写研、1967年)を手にして鳥肌が立った体験そのままに伊勢湾台風や天草に取材した写真が掛けられている。水気を充分に含んだ場面が蒸発しながら視覚化され、立ち止まってしまう。別の壁面でも写真集の頁で物語を読むように、前後関係を持った写真からの残像が、米兵、女性、混血児と繋がり強力に時代を浮かびあがらせる。展示の職人技ですな。
混血児を東松が撮影した年はわたしの生年(これは関係ないか)。社会人になり、京都を取材中の東松照明と先斗町の居酒屋で同席したおり、「悍右さんを知ってるんだって」と声を掛けられた。名古屋出身の東松は学生時代の1952年に連盟を組織、山本悍右は66年からおよそ10年間連盟の顧問をつとめている。わたしが連盟の執行部に参加したのは68年の秋以降で、冒頭で言及した杉山茂太は三代前の委員長だった。その先輩に連れられ覚王山の山本宅にお邪魔し集会で使うパンフに『高校生写真のこと──技術は君たちにとって何か?』の再録(初出『フォト・オピニオン』No.1 1967年)をお願いしたのだった。
当時、目にした先輩のスマラップブックに山本がグループ展に出品した『朝、突然に』(1968年)の展示写真が貼り付けられていたのだが、今展で東松、山本、杉山と作品が並ぶ場面は、時を逆上る涙もの。山本と杉山のパネル貼り写真こそ、あの頃の表現なのである。先輩は緑色の水貼りテープを嫌い、荷造りテープで仕上げていたのを思い出す。
山本悍右『朝、突然に』(左)、杉山茂太『SUD』他
さて、展覧会の報告も最終に近づいた。高校生のわたしと仲間達がいる。竹葉丈の意図する「写真運動史」の当時者としては、内実を報告する責任があるように思う。連盟主催の合宿で知った高橋章の写真(後に写真集『断層─現代高校生の記録』(491、1974年)として纏められた)に刺激され写真による世界認識と自己改革に目覚めた。連盟の先例にならい自身の写真部で名古屋の繁華街・大須を集団で撮影。写真を部員皆で選び(これが大切)写真を貼付け写真集『大須』を自作し回覧。この作業を竹葉は「高校生による『共同制作』の優れた到達点を示す」と評価する。当事者としては良く判らないのだけど……
今展の会場では、私学展用に選んだ当時の写真5点が壁面に並ぶ、展示ケースには写真集『大須』と『断層』。そして、高橋のとらえた高校生達が、こちらを凝視する緊張感あふれる展示構成となっている。
名古屋電気工業高校『大須』
写真集『断層─現代高校生の記録』(左)、『大須』
高橋章『断層─現代高校生の記録』
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改めて、わたしの撮った『高校生写真』を見ている。左壁面には仲間の写真、彼は川田喜久治風だが、わたしの場合の距離感は、穏やかさの方にふれている。『大須』以降には連盟活動に熱中し学業は疎かになり、写真ばかりの毎日となった。学生運動の反対側では三無主義が蔓延する世相、連盟の集会では空回りの熱気。東京総合写真専門学校に進んだ杉山茂太が中途で名古屋に戻り、わたしたちの前に現れた。すぐに感化され写真に益々深入りしてしまった。そして、山本悍右に紹介されたのである。
会場の最終辺りは名古屋女子大学写真部の集団撮影行動『郡上』で埋め尽くされている。これへの結合点、あるいは脇道の扱いでわたしと友人が広小路で「国際反戦デー」(1969年10月21日)を撮った写真が置かれている。プロテスト写真に関連してある人から「写真が残っていないようだけど、大学生も撮っていたのだろうか」と聞かれた。わたし以上に積極的だった友人は「だれも名前を示そうとしなかった。撮った写真はパロトーネのまま全日(全日本学生写真連盟)に渡したので、どのように写っていたかなど、判らないままだった」と語った。半世紀が過ぎ「誰がどの写真を撮ったのか」に意味などないとする立場と、それでは「家族の歴史が欠如してしまう」と危惧する立場が反目する。集団撮影は階層構造が支配すると考えるわたしは、後者支持。友人は「初回は渡したけど、後はやめた」と続けた。どこかにネガが残されているかもしれないが、名前は欠落したままだろう。『大須』をまとめ『10.21』を撮り、集団撮影の大学生たちを冷ややかに見ていた二十歳前のわたしは、「私写真」の側に軸足を移したのである。その先に、マン・レイへの熱中が待ち受けていた。
山崎正文『壁』(左)、石原輝雄『高校生』
Sugiura Yoji(左)、石原輝雄『広小路通り、名古屋駅前、1969.10.21』
Sugiura Yoji『広小路通り、名古屋駅前、1969.10.21』コンタクト・シート
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今回の「『写真の都』物語」展で特筆すべきは、豊富な一次資料の展示である。大正期の写真画集から雑誌『カメラマン』を経て、70年安保前後の匿名写真集まで。書名は知っていても現物を見ていないも方も多く、貴重な機会を提供していると思う。これらの雑誌や写真集による表現には日本固有の革新性があると注目され、海外でも収集ブームになっていると聞く。中部にも熱心な収集家がいるようだが、多くを手にしてきた当事者としては、展覧会の調査段階で集められた『SUD』『六月』『大須』『白亜の壁─高校生の記録』『名古屋─’70年への饗宴』などの自作写真集が、展示室に移され一堂に会する場面を期待する。額装展示された印画紙表現とは異なる、自作写真集の魅力。個人の書棚で一生を終えるのはあまりに不憫である。
連盟機関誌『フォト・オピニオン』No.1-3、プロテスト写真集(『状況1965』『10.21とはなにか』『この地上にわれわれの国はない』『ヒロシマ・広島・hirou-sima』)他
現代美術の側に回収されてしまった写真表現が見直され、わたしたちの手に戻され始めた。令和の時代に至る歴史を遡りながら(良い歴史という意味で)、両親や祖父母時代の写真を調査、研究する機運が全国的に高まっている── 開催が半年程度遅れてしまったが、本来であれば名古屋市美術館を先頭に、福岡市美術館の『ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画』(1月5日~3月21日)、岩手県立美術館の『唐武と芸術写真の時代』(1月16日~2月14日)と続く。写真を専門領域とする学芸員のさらなる活躍を期待したい。
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久方ぶりの「美術館でブラパチ」が、個人的な思い出話で終始する結果となり反省しております。客観的になるのは難しい。結局、昼食に大須でヒレ味噌カツを食べた他は、閉館まで名古屋市美術館に留まってしまった。故郷の青春は良いものですな。
尚、3月20日(土・祝)に竹葉丈を講師に「東松照明と<中部学生写真連盟>」と題する解説会が、美術館講堂で催される。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は今まで不定期連載でしたが、今後は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は5月18日です、どうぞお楽しみに。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第4回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。2月28日には第4回目の特別頒布会を開催しました。お気軽にお問い合わせください。
●東京・天王洲アイルの寺田倉庫 WHAT で「謳う建築」展が5月30日(日)まで開催され、佐藤研吾が出品しています。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
『あの頃の表現…』
展覧会 「写真の都」物語 ─ 名古屋写真運動史: 1911-1972
名古屋市美術館
2021年2月6日(土)~3月28日(日)
名古屋市美術館・正面公立美術館の展覧会報告を個人的な話題から始めるのを許してもらいたい。わたしは名古屋生まれの名古屋育ち、高校時代に写真部へ入ったのがきっかけとなり、中部学生写真連盟[高校の部](以下、連盟)の活動に参加、多感な十代後半に「写真」によって人格が形作られてしまった。そして、この歳になるまで「写真道」まっしぐら(大袈裟ですな)、そんな人生を振り返させてくれる展覧会なのである。
担当学芸員・竹葉丈氏(以下、敬称略)に連盟の先輩・杉山茂太の自作写真集『SUD』をお見せしたのは2015年、学生写真のムーブメントを力説したように記憶する。これが展覧会企画の糸口のひとつになったのではないかと思うものだから、当初予定の昨年9月開催が延期され、心配していたところ無事に初日をむかえることが出来、喜び勇んで新幹線に乗ったしだい(わたしは、故郷を離れ京都に住んでおります)。
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会場・エントランスホール開場の9時30分、エントランスでまず目に入ったサインは山本悍右の『<伽藍の鳥籠>のヴァリエーション』(題不詳、1940年)。戦時体制下の閉塞感と繋がるメッセージがあり、遮光幕で仕切られた会場への期待が膨らんだ。
わたしは、これまで大正期の絵画主義的写真を否定的にとらえていたが、認識が変わった。ある学者の指摘によると「良い歴史を知ることは、若者に生きる活力を与える」。良い歴史は家族の歴史に端緒を持ち、いわゆる自虐史観とは異なる。大正期の広小路で写真器材商を営み「愛友写真倶楽部」の創立メンバーの一人で代表も務めた山本悍右の父、五郎の写真11点が並ぶさまは壮観である。『渋温泉』のシリーズなんて白樺、たなびく雲、光の調子で目が洗われる体験、良い塩梅の写真なのです。ゴム印画やガラス乾板描き込みなどの技法を旦那衆の趣味として見過ごしたのは、現物を観ないままカタログや写真集などの印刷物から作られたイメージが独り歩きした結果だったと反省。微妙な紙の繊維と溶液が緩やかに流れるオリジナル写真にしびれます。和洋折衷の大正期日本家屋の応接間に掛けられていたと思われるような木製額に入った大判写真。日高長太郎の『白樺』(1924年)や『晴れたる日』(1914年頃)などの前に立ち、祖父母の家を思い浮かべた(写真ではなくて油絵だったけど)。光と遠近法が目に心地よく、網膜の喜びをことさら否定することもないように思う。デュシャンの革新から100年以上が経ち、わたしたちは盲目の時代に疲れているのかもしれない。
山本五郎『渋温泉』他
大橋松太郎『白樺』(1918年、ゴム印画) (左)、日高長太郎『白樺』(1924年、ゴム印画)
写真画集『白陽』『銀乃壺』、『日高長太郎遺作集』他---
およそ500点の写真と一次資料からなる今回の展覧会は、1911年から72年までを取り上げ、次の6章から構成されている。──Ⅰ.写真芸術のはじめ─日高長太郎と<愛友写真倶楽部> Ⅱ.モダン都市の位相─「新興写真」の台頭と実験 Ⅲ.シュルレアリスムか、アブストラクトか─「前衛写真」の興隆と分裂 Ⅳ.”客観と主観の交錯”─戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗 Ⅴ.東松照明登場 Ⅵ.<中部学生写真連盟>─集団と個人、写真を巡る青春の模索。
「写真運動史」の切り口を竹葉から伺ったとき、わたしには違和感があった。アルコールの入った席だったので話は別の方向にそれてしまったが、今展のカタログに氏は目的を「写真表現の変遷を個人の表現史として回顧するのではなく、複数の人が出会い、意気投合して生まれ出た表現として辿ること」「社会的あるいは時代的要請に写真がどのように応じたかを検証すること」と述べている。展示を見ながら氏の狙いが判り始めた。客観的になるのは大切です。
大正期の絵画主義的写真から新興写真への変化を追うと、展示壁の曲がり角にいくつもの兆しが潜むのだと「視覚的」に感得させられた。やや硬調の写真群は雑誌『カメラマン』(編集・高田皆義)の頁複写による再現で、前章のオリジナルプリントと違う目のアプローチが求められるとしても、残されなかった時代状況と云うか、オリジナルを網目印刷とする解釈が可能であるのかもしれない。高田皆義の『夏の女』(1939年)からはモホリ=ナジ・ラースローを連想するし、佐溝勢光の『GO STOP』(1931年)などドイツ実験映画ではありませんか。こうした写真が続く壁の終わりに弱冠18歳の山本悍右が「誌上アンデパンダン号」と銘打った研究会誌『獨立』に発表した『ある人間の思想の発展…靄と寝室と』(1932年)が掛けられている。これ名古屋市美術館蔵のオリジナル。コラージュでイメージとしても異質なんです。そして、曲がった裏側に並ぶ山本のシュルレアリスム写真6点をファンのわたしは念入りに拝見する。芳しいポエムの漂う写真群。並びの最後に山本の友人でもある後藤敬一郎の『最後の審判図』(1935~40年頃)が掛けられている。学芸員の竹葉が意図したかどうか判らないが、間隔をもうけていないので、同一人の写真と受け取らせる雰囲気がある(これが、運動史?)。
Ⅱ.モダン都市の位相
雑誌『カメラマン』21冊
山本悍右と後藤敬一郎(左端)
山本悍右(左)と後藤敬一郎(右) 、VIVI社マニフェスト『CARNET DE VIVI』No.1(ケース) それはそれとして、会場を進んだわたしは雑誌『カメラマン』21冊の表紙と対面する。直前まで額装された写真の「複写、インクジェットプリント」とするキャプションを読みつつ図像解釈に勤しんでいたわたしは、ここで、竹葉にしてやられたと気づいた。実際の雑誌頁を捲り目と手で楽しむ喜びが、会場の空間に漂っていたのである。さらに、雑誌群の裏側には二冊の珍しい写真集。──これについては、会場で実見されたい。
竹葉の企画意図とのズレを承知しつつ、わたしが興味をもったのは個人における表現の変遷だった。特に絵画主義的写真の時代に登場し新興写真を経て戦後、山本悍右、後藤敬一郎、服部義文らとの『VIVI社』結成に至る高田皆義の多様性、写真画集『銀の壺』『白陽』や雑誌『カメラマン』での発表作を会場で記憶し(各章に分散して展示)、戦後のソラリゼーションや二重焼付を用いたヌード連作に対面すると、個人と時代との関わりを改めて考えてしまった。影響とはなんだろう。リアリズムも主観主義もわたしからは遠い。写真表現が「お金持ち」の芸術、アマチアの趣味に停滞する感を持つ。ライカやニコンのカメラ談義には、「持たない者の不満」がたまるのである。高田がその例ではないとしても。
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二階の会場に上がると中部学生写真連盟のレジェンド・東松照明の写真が並んでいる。ほとんどが豊橋市美術博物館のコレクションと云う。わたしが高校の写真部で写真集『日本』(写研、1967年)を手にして鳥肌が立った体験そのままに伊勢湾台風や天草に取材した写真が掛けられている。水気を充分に含んだ場面が蒸発しながら視覚化され、立ち止まってしまう。別の壁面でも写真集の頁で物語を読むように、前後関係を持った写真からの残像が、米兵、女性、混血児と繋がり強力に時代を浮かびあがらせる。展示の職人技ですな。
混血児を東松が撮影した年はわたしの生年(これは関係ないか)。社会人になり、京都を取材中の東松照明と先斗町の居酒屋で同席したおり、「悍右さんを知ってるんだって」と声を掛けられた。名古屋出身の東松は学生時代の1952年に連盟を組織、山本悍右は66年からおよそ10年間連盟の顧問をつとめている。わたしが連盟の執行部に参加したのは68年の秋以降で、冒頭で言及した杉山茂太は三代前の委員長だった。その先輩に連れられ覚王山の山本宅にお邪魔し集会で使うパンフに『高校生写真のこと──技術は君たちにとって何か?』の再録(初出『フォト・オピニオン』No.1 1967年)をお願いしたのだった。
当時、目にした先輩のスマラップブックに山本がグループ展に出品した『朝、突然に』(1968年)の展示写真が貼り付けられていたのだが、今展で東松、山本、杉山と作品が並ぶ場面は、時を逆上る涙もの。山本と杉山のパネル貼り写真こそ、あの頃の表現なのである。先輩は緑色の水貼りテープを嫌い、荷造りテープで仕上げていたのを思い出す。
山本悍右『朝、突然に』(左)、杉山茂太『SUD』他さて、展覧会の報告も最終に近づいた。高校生のわたしと仲間達がいる。竹葉丈の意図する「写真運動史」の当時者としては、内実を報告する責任があるように思う。連盟主催の合宿で知った高橋章の写真(後に写真集『断層─現代高校生の記録』(491、1974年)として纏められた)に刺激され写真による世界認識と自己改革に目覚めた。連盟の先例にならい自身の写真部で名古屋の繁華街・大須を集団で撮影。写真を部員皆で選び(これが大切)写真を貼付け写真集『大須』を自作し回覧。この作業を竹葉は「高校生による『共同制作』の優れた到達点を示す」と評価する。当事者としては良く判らないのだけど……
今展の会場では、私学展用に選んだ当時の写真5点が壁面に並ぶ、展示ケースには写真集『大須』と『断層』。そして、高橋のとらえた高校生達が、こちらを凝視する緊張感あふれる展示構成となっている。
名古屋電気工業高校『大須』
写真集『断層─現代高校生の記録』(左)、『大須』
高橋章『断層─現代高校生の記録』---
改めて、わたしの撮った『高校生写真』を見ている。左壁面には仲間の写真、彼は川田喜久治風だが、わたしの場合の距離感は、穏やかさの方にふれている。『大須』以降には連盟活動に熱中し学業は疎かになり、写真ばかりの毎日となった。学生運動の反対側では三無主義が蔓延する世相、連盟の集会では空回りの熱気。東京総合写真専門学校に進んだ杉山茂太が中途で名古屋に戻り、わたしたちの前に現れた。すぐに感化され写真に益々深入りしてしまった。そして、山本悍右に紹介されたのである。
会場の最終辺りは名古屋女子大学写真部の集団撮影行動『郡上』で埋め尽くされている。これへの結合点、あるいは脇道の扱いでわたしと友人が広小路で「国際反戦デー」(1969年10月21日)を撮った写真が置かれている。プロテスト写真に関連してある人から「写真が残っていないようだけど、大学生も撮っていたのだろうか」と聞かれた。わたし以上に積極的だった友人は「だれも名前を示そうとしなかった。撮った写真はパロトーネのまま全日(全日本学生写真連盟)に渡したので、どのように写っていたかなど、判らないままだった」と語った。半世紀が過ぎ「誰がどの写真を撮ったのか」に意味などないとする立場と、それでは「家族の歴史が欠如してしまう」と危惧する立場が反目する。集団撮影は階層構造が支配すると考えるわたしは、後者支持。友人は「初回は渡したけど、後はやめた」と続けた。どこかにネガが残されているかもしれないが、名前は欠落したままだろう。『大須』をまとめ『10.21』を撮り、集団撮影の大学生たちを冷ややかに見ていた二十歳前のわたしは、「私写真」の側に軸足を移したのである。その先に、マン・レイへの熱中が待ち受けていた。
山崎正文『壁』(左)、石原輝雄『高校生』
Sugiura Yoji(左)、石原輝雄『広小路通り、名古屋駅前、1969.10.21』
Sugiura Yoji『広小路通り、名古屋駅前、1969.10.21』コンタクト・シート----
今回の「『写真の都』物語」展で特筆すべきは、豊富な一次資料の展示である。大正期の写真画集から雑誌『カメラマン』を経て、70年安保前後の匿名写真集まで。書名は知っていても現物を見ていないも方も多く、貴重な機会を提供していると思う。これらの雑誌や写真集による表現には日本固有の革新性があると注目され、海外でも収集ブームになっていると聞く。中部にも熱心な収集家がいるようだが、多くを手にしてきた当事者としては、展覧会の調査段階で集められた『SUD』『六月』『大須』『白亜の壁─高校生の記録』『名古屋─’70年への饗宴』などの自作写真集が、展示室に移され一堂に会する場面を期待する。額装展示された印画紙表現とは異なる、自作写真集の魅力。個人の書棚で一生を終えるのはあまりに不憫である。
連盟機関誌『フォト・オピニオン』No.1-3、プロテスト写真集(『状況1965』『10.21とはなにか』『この地上にわれわれの国はない』『ヒロシマ・広島・hirou-sima』)他 現代美術の側に回収されてしまった写真表現が見直され、わたしたちの手に戻され始めた。令和の時代に至る歴史を遡りながら(良い歴史という意味で)、両親や祖父母時代の写真を調査、研究する機運が全国的に高まっている── 開催が半年程度遅れてしまったが、本来であれば名古屋市美術館を先頭に、福岡市美術館の『ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画』(1月5日~3月21日)、岩手県立美術館の『唐武と芸術写真の時代』(1月16日~2月14日)と続く。写真を専門領域とする学芸員のさらなる活躍を期待したい。
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久方ぶりの「美術館でブラパチ」が、個人的な思い出話で終始する結果となり反省しております。客観的になるのは難しい。結局、昼食に大須でヒレ味噌カツを食べた他は、閉館まで名古屋市美術館に留まってしまった。故郷の青春は良いものですな。
尚、3月20日(土・祝)に竹葉丈を講師に「東松照明と<中部学生写真連盟>」と題する解説会が、美術館講堂で催される。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は今まで不定期連載でしたが、今後は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は5月18日です、どうぞお楽しみに。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第4回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。2月28日には第4回目の特別頒布会を開催しました。お気軽にお問い合わせください。●東京・天王洲アイルの寺田倉庫 WHAT で「謳う建築」展が5月30日(日)まで開催され、佐藤研吾が出品しています。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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