松本竣介《コップを持つ子ども》について

大谷省吾
(東京国立近代美術館副館長)

 松本竣介の生誕110年を迎えた今年、《コップを持つ子ども》に出会えたのは嬉しい。『松本竣介画集』(平凡社、1963年、no.56)、『松本竣介油彩』(綜合工房、1978年、no.100)にそれぞれモノクロ図版で掲載されてはいるものの、これまで実物が公開された機会はほとんどないはずである。
今回あわせて展示される素描(本展cat.no.3)は、2012年に岩手県立美術館をはじめ全国5館を巡回した生誕100年の回顧展にも出品されており(生誕100年展D051)、その際には合わせてもう1点の素描(生誕100年展D050、参考図版1)も展示されていた。D050の素描は、1942年2月1日~3日に日動画廊で開催された「松本俊介第二回個人展」の案内状に図版掲載されている(生誕100年展M07-05)ということを、大川美術館長の田中淳氏からご教示いただいた。今回展示される油彩の《コップを持つ子ども》も、この「第二回個人展」に出品された可能性があると想像され、調べてみることにした。幸い東京国立近代美術館には、松本竣介の親友であった難波田龍起からご寄贈いただいた同展目録があり、それを繰ると、D050およびD051とは異なる同構図の素描(参考図版2)が掲載されていることが判明した。目録では「三十三 素描 五号」とある。目録には全部で35点の記載があり、題名と大きさから類推して「五 小供 五号」と記された作品が、このたびの油彩の《コップを持つ子ども》である可能性が高いように思われる(註1)。
 このようないくつものバリエーションの存在は、これまでたびたび指摘されてきたように(註2)、松本竣介のスケッチから油彩に至るまでの周到な計画に基づいた制作方法に由来する。村上博哉氏の整理に従えば、
①おもに鉛筆による現場でのスケッチ
②現場スケッチをもとにアトリエで制作される、線の整理されたデッサン
③ハトロン紙などに太い鉛筆の輪郭線を引いたカルトン(原寸大の下絵)
④カルトンの輪郭線を画用紙に転写して濃淡の調子を加えた素描作品
⑤カルトンからキャンヴァスへの輪郭線の転写、ようやく油彩画を完成
というプロセスによって松本竣介の油彩は制作されており、《コップを持つ子ども》の上記のようなバリエーションをこのプロセスに照らし合わせるならば、生誕100年展D050(参考図版1)がプロセスの②、本展cat.no.3(生誕100年展D051)がプロセスの③、1942年の個展目録に掲載の作品(参考図版2)がプロセスの④、そして本展cat.no.1の油彩作品がプロセスの⑤ということになろう。
①から⑤への制作プロセスの軸となるのは、言うまでもなく線描であるのだが、⑤の段階の油彩においては、松本竣介の作品のもうひとつの魅力である重厚なマチエール、つまり何層にも重ねられた油彩の物質としての強い存在感が際立つ。深い闇を背景として浮かび上がるような子ども、とりわけ丸みをおびた額にさす光が印象的である。
こうした重厚なマチエールの制作過程については、2019年に大川美術館で開催された「松本竣介 子どもの時間」展の図録において、田中淳氏が舟越保武による印象的な回想を紹介している(註3)。舟越は、4号サイズの小品の《少年》が「出来て行く過程を、毎日のように見ていた」といい、次のように記している。
大谷挿図1参考図版1
大谷挿図2参考図版2

 何べんも絵具が塗りかためられ、また削られていたが、形らしいものは何も見えなかった。中心のあたりが白く明るく、まわりが暗いだけのものだった。毎日描いてはいるのだが、ほとんど変らない。ただ中心の明るさと周囲の暗さとの諧調が、どんどん深められて行った。
 その次には、昨日までの諧調の上に、何かの形が描かれて、すぐ布で拭きとられたらしい跡が、かすかに見えた。同じようなことが、さらに何日か続いた。
 そんなある日、私が訪ねて行くと、玄関に迎えた竣介の顔が、いつになく紅潮していた。どこかを全速力で走って来たように汗ばんで見えた。はげしい熱気があった。
「イマ、デキタ」かん高い声で言って、竣介は先にたって、アトリエに行った。
 アトリエに入ると、昨日まで模索が続いていた絵が、この「少年」になっていた。
 薄暗いアトリエの中に、そこだけ光が当っているようだった。
 私が訪ねたのは、「少年」が完成して、筆をおいた、まさにその直後だった。
 ただ明暗の諧調だけだった昨日までの画面に、こげ茶色の鋭い線が一気に引かれて「少年」が完成していた(註4)。

 ここでは、完成へと至る展開がたいへん劇的に記されているけれども、これによると線描は制作の最後の段階に一気になされたように読み取れる。しかしながら今回展示される《コップを持つ子ども》の場合はやや異なるだろう。田中氏は舟越の言及している作品が1946年作の《少年像》(参考図版3)を指すものと推察しているが、《少年像》がほぼモノトーンであるのに対して、1942年制作の《コップを持つ子ども》では、いくつかの色面と線描との関係はより複雑である。
松本竣介の絵づくり、色面と線描との重層的な関係については、画家自身の手帖に記されたメモが以前から知られている(註5)。それは次のようなものだ。

下地塗、三度
下絵塗(明暗)
 線描(1)
 中絵塗(明暗)
 線描(2)
 ハーフトーン
 明部 暗部
 線描(3)
 仕上塗 ハイライト
 線描(4)
 仕上 ハーフトーン
 セロニス
 ワニス   四日間
 セロニス
 磨き

この記述によれば塗りと線描が何度も交互に重ねられていることがわかる。とはいえ、このメモは1939年から40年にかけて使われた手帖に記されたものだから、作風としてはモンタージュ的な都会風景を描いていた時期にあたる。この時期の作品は、小林俊介氏が指摘するように「線とマチエールの葛藤とズレ」を本質としていた(註6)。しかし1940年代に入ると、線とマチエールの関係には変化が生じる。1942年1月に描かれた《コップを持つ子ども》は、時期的には上述のメモに記された、塗りと線描を交互に進めていく描き方と、舟越の回想に見られる、塗りと削りの繰り返しによって地の部分の諧調を深めた上での線描という描き方との間に位置づけられるのだろう。色面と輪郭線との関係を注意深くたどっていけば、やはり何度か交互に描き進められていることがわかる。そして背景。深い闇に用いられている色彩も、服やコップに用いられているのと同じ朱色が下層に認められる一方で、その補色となる青緑色も重ねられていることがわかる。それによって闇の深みが増すわけだ。背景を何層にも深く塗りこめる一方で、前述の丸みのある額に見られるような明部を際立たせていくことで、子どもは闇の中に浮かぶ灯のような存在感を獲得するのである。
とはいえこの子どもは、正直言って、手放しに「かわいい」とは言い難い。本展に出品される、少し後の素描《コップを持つ子ども》(1942年12月制作、cat.no.2)では、はにかむような表情に誰しも「かわいらしさ」を認めることであろうが、油彩(cat.no.1)の子どもは、顎をひき、下唇をやや出して、ちょっと不機嫌そうにも見えるし、コップを持つ手にもぎこちなさが感じられる。それがかえって、ステレオタイプな子ども像に回収されないリアリティを感じさせるかもしれない。純真無垢な天使のような存在ではなく、何を考えているのかうかがい知れない謎めいた存在としての子ども。実際のところ、子どもがそうした瞬間を垣間見せることがあるのはまぎれもない事実であろう。この絵に、画家のわが子への限りない愛情が込められているのはまちがいないけれども、その表現に甘さは微塵もなく、ただひたすらに、わが子の「存在」を手探るように、この絵はできているように思われる。そしてこの眼、少し不機嫌そうな、謎めいたまなざし。どこかでこれと似たまなざしに出会っていると思いを巡らしてハタと思い至ったのは、奈良美智の(とりわけ1990年代の)一連の作品だった。画面のこちら側の私たち、あるいはそのはるか先を睨みつけるような奈良の絵の子どもたちが、ステレオタイプな子ども像を破壊しながらも私たちを惹きつけてやまないように、この《コップを持つ子ども》もまた、子ども像の傑作のひとつとして多くの人々の心を捉えることだろう。
大谷挿図3参考図版3
おおたに しょうご

(註1)『松本竣介油彩』(綜合工房、1978年)には本作が第1回新人画会展(1943年4月21日~30日、日本楽器画廊)出品との記載がある。たしかに同展目録には松本竣介の5点の出品作のうち「5 小供」との記載があるが、これが確実に本作と同定できる図版つきの資料は見出せなかった。今後の調査課題である。
(註2)松本竣介のカルトンを用いた制作プロセスについては、主に以下の論考がある。
朝日晃『松本竣介』日動出版部、1977年3月、p.176
歌田眞介「技法からみた松本竣介」『現代の眼 東京国立近代美術館ニュース』378号、1986年5月、pp.4-5
村上博哉「写す画家、松本竣介」『没後50年 松本竣介展』図録、練馬区立美術館、岩手県民会館、愛知県美術館、1998年10月、pp.175-187
加野恵子「松本竣介のカルトン」『生誕100年 松本竣介展』図録、岩手県立美術館、神奈川県立近代美術館葉山、宮城県美術館、島根県立美術館、世田谷美術館、2012年4月、pp.285-291
(註3)田中淳「序―子どもの時間」『松本竣介 子どもの時間』展図録、大川美術館、2019年4月、pp.10-11
(註4)舟越保武「松本竣介 完成と挫折」『石の音 石の影』筑摩書房、1985年6月、pp.150-152
(註5)『松本竣介展』図録、東京国立近代美術館、岩手県民会館、下関市立美術館、1986年4月、p.66
(註6)小林俊介「近代日本洋画における技法と「抵抗」―松本竣介を中心に―」『芸術学の視座』勉誠出版、2002年6月、p.364

matsumoto-38No.1
コップを持つ子ども
1942年
板に油彩
35.5×27.5cm
サインあり
『松本竣介画集』(平凡社、1963年、No.56)
『松本竣介油彩』(綜合工房、1978年、No.100)

2_コップを持つ子どもNo.2《コップを持つ子ども》
1942年
紙に鉛筆、コンテ、木炭
イメージサイズ:34.0×27.0cm
シートサイズ:34.8×27.2cm
サインあり
*参考出品
『松本竣介展』(東京新聞、1986年、No.199)
『生誕100年 松本竣介展』(NHKプラネット東北/NHKプロモーション、2012年、D052)


3_松本竣介_コップを持つ子ども_表No.3《コップを持つ子ども》
1942年頃
ハトロン紙に鉛筆
イメージサイズ:33.0×25.0cm
シートサイズ:35.5×27.7cm
*参考出品
『生誕100年 松本竣介展』(NHKプラネット東北/NHKプロモーション、2012年、D051)


5_松本竣介_(作品)表No.4(作品)
紙に鉛筆
イメージサイズ:32.0×24.0cm
シートサイズ:35.4×27.8cm
サインあり
*参考出品


4_松本竣介(作品)表No.5(作品)
紙に鉛筆
イメージサイズ:29.2×22.0cm
シートサイズ:31.7×23.7cm
*参考出品


6_(作品_撮影)No.6(作品)
紙に鉛筆
イメージサイズ:23.5×47.0cm
シートサイズ:24.2×53.3cm
*参考出品


matsumoto-39No.7《顔(1)
1947年頃
紙にインク、墨
イメージサイズ:9.5×9.6cm
シートサイズ:13.8×9.6cm
印サインあり


matsumoto-40No.8《顔(2)
1947年頃
紙にインク
イメージサイズ:9.5×6.8cm
シートサイズ:13.5×9.5cm
印サインあり


matsumoto-41No.9《顔(3)
1947年頃
紙にインク
イメージサイズ:11.5×8.2cm
シートサイズ:13.5×9.8cm
印サインあり


matsumoto-42No.10《顔(4)
1947年頃
紙にインク
イメージサイズ:10.5×7.5cm
シートサイズ:13.8×9.8cm
印サインあり


matsumoto-43No.11《作品
紙にペン
イメージサイズ:19.8×14.5cm
シートサイズ:26.0×18.2cm


matsumoto-44_1No.12《作品
紙にペン
イメージサイズ:19.8×14.5cm
シートサイズ:26.0×18.2cm

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生誕110年 松本竣介展」は本日最終日です。
会期=2022年5月10日(火)~5月28日(土)※日・月・祝日休廊
生誕110年 松本竣介展DM表生誕110年 松本竣介展DM裏

『生誕110年 松本竣介展』カタログ
松本竣介展図録三校_表紙2022年 
ときの忘れもの刊
エッセイ:中野孝次 
テキスト:大谷省吾(東京国立近代美術館)
図版:12点
編集・デザイン:柴田卓
B5判 34頁
価格:1,100円(税込) ※送料250円
5月20日のブログで松本竣介の作品集、展覧会図録を特別頒布しています。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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