瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―
第13回「松澤宥」
清家克久
「松澤宥」
図版1.
ψの函(ミクストメディア)
(制作年不詳)
サイズ:8×8×9cm
図版2.
同上(内部)
自筆サイン有
この作品についてのデータは不明だが、「一般財団法人松澤宥プサイ(ψ)の部屋」のホームページ上に同じものと思われる函が積まれた写真が掲載されているので参照されたい。函の上蓋にはψのマーク、裏には自筆のサインがある。函の中には短冊状の桃色の薄紙に松澤宥のコンセプトである記号数字が赤で印刷され、巻いた状態で入っている。販売されたものか関係者に配られたものか分からないが、このような作品がネットオークションに出ることは珍しい。何年前のことだったかデータも残っていないが、意外に注目されず1万5千円ほどで落札した記憶がある。
今から40年程前に遡るが、造形社から刊行された『Ψの函』(限定350部1983年7月刊)を持っていた。今は手放してしまったのが惜しまれるが、総括的な作品集として編まれたもので、黒い布装の夫婦函に一枚毎に印刷された72葉の作品が9葉ずつ八つのパートに分けた黒い帙に入れて収納されていた。(この仕様はデュシャンのメモ集『不定法で』通称ホワイト・ボックスに似ている。)その包装紙だったと思うが、誰によるものか青い文字で「荘子風ブループリント」と書かれていたのが気になり、その部分をちぎって保存していた。『Ψの函』の「言語による美術」というパートに同タイトルの方眼紙による作品(1972年)が収録されている。(「松澤宥作品集」なるせ美術座2019年2月刊より)
ブループリントという名称は瀧口修造の「荒川修作のブルー・プリント」(1979年)という文章で知っていたが、元来設計図に用いる青写真のことで、荒川修作はそれを初期の版画作品に転用しており、1972年頃には方眼紙を使った作品もある。偶然かも知れないが松澤は建築から美術を、荒川は美術から建築を志向していたことがブループリントの発想をもたらしたのだろう。しかし、相互の交流はなく共通するのは瀧口修造との関係である。
図版3.
荘子風ブループリントと書かれた紙片
(約11×26cm)
図版4.
「荘子風ブループリント」
(「松澤宥作品集」なるせ美術座
2019年2月刊より)
図版5.
荒川修作ブループリント
「The Diagram of Bottomless No.2」
1965年作
(「荒川修作全版画展」カタログ
北九州市立美術館1979年11月刊より)
昨年は松澤宥(1922―2006)の生誕100年にあたり、ネット上では「松澤宥 生誕100年記念サイト」が設けられ、地元の長野県立美術館では初の回顧展が開催された。
図版6.
「生誕100年松澤宥展」チラシ
(長野県立美術館2022年発行)
松澤宥の自筆年譜によると1953年に美術文化協会展と読売アンデパンダン展の出品作が初めて瀧口修造に評価されたと記している。(「松澤宥自筆年譜」(「機関13号」海鳥社1982年9月刊初出、「生誕100年松澤宥展」カタログ長野県立美術館2022年3月刊再録より)瀧口はその後も展評で松澤の作品に度々言及しているが、1963年9月に青木画廊の個展に寄せて「松沢宥に招かれて」を発表した。プサイの鳥になぞらえた二人の精神の交感や松澤芸術のコンセプトが詩的な文体で綴られ、松澤宥にとって重要かつ予言的な意味を持つテキストとなった。(以下、その全文)
私は松沢宥のプサイの座敷へ招かれたことも、ここ数年来たびたびのことである。招きながら、招かれる妙な関係ではあるのだが。
さきごろ諏訪湖畔のかれの現実の座敷に招かれ、そこで深い眠りをむさぼるに及んで、どこからともなくプサイの鳥が羽ばたきながら現われ、翼が私の肉体にかすかにふれるのをすら感じたのである。もろもろの欲念と仏性(仮称)との無限のコンビネーションのくもの巣のなかで、かの鳥(無数の唯だ一羽)が水面すれすれのところを飛ぶのを見たと思うのは、ついに人間のあさはかな錯覚であるにしても、なんと心爽やかなものではなかろうか。
松沢宥は、絵画を純粋に、まったく別のコミュニケーションの次元に組み入れようとして、心性の探検をこころみてから久しい。
かれがこんど最初にして唯一無二の展覧会を催すのに、ひとつの容器の喩えを借りなければならなかったのには、充分かつ有りあまる理由があってのことである。そしてその理由の上に、かれは久しく住んでいる。
どうやら絵画というものも、現代が強要した美学一色に塗りつぶされ、その上をむなしく耕しつづけるばかりで、その奇妙な表面を物質で窒息させつつあることも否定できないようである。私はむしろ、絵画を美術館の壁でなく、人跡稀な岩壁の上、星の飛び交う無言の暗号の下で、何とも知れぬ動物たちの咆哮を微かに聴きながら、滑稽きわまる建築の見えない壁にかかっていることを想像するか、もはや何も想像しない砂漠に転ろがっていることをこそ望むだろう。絵はもはや虚の存在であることを、松沢宥は思索し、計量し、証明しようとする。いや、実は絵はそのためのものですらないのである。絵画にたいして、かれは何のうらみをもっているわけではない。かれは風雅な交情をすら絵ともちつづけている。もう私などの多言を要しないとき。かれの数学的色念図ともいうべきものがすでに発言しはじめている。(『余白に書く』(みすず書房1966年5月刊収録:原文ママ)
松澤宥の自筆年譜1963年には、「8月13日に瀧口修造先生が青木外司氏の案内で来訪される。9月9日から21日まで青木画廊で開催することになった〈ψによる松沢宥個展〉のためであった。先生は私が生まれたり”オブジェを消せ”という啓示の声を聞いた裏座敷の隣の仏壇の間に一泊され(中略)私は命名者である先生をプサイの座敷に案内しようとすると「いや、またこの次の機会に」と言われて上がられなかった。そして遂にそれは実現されずじまいになった。」と記している。そして、『コレクション瀧口修造』第4巻(みすず書房1993年10月刊)の月報に寄せた「ああニルああ荒野における瀧口修造先生との七つ目の密儀」と題する文章で当時を振り返り、「松沢宥に招かれて」の一文を一つ目の密儀として取り上げ、「それは私にとって真に啓示の耳語であった。」と告白している。「オブジェを消せ」という啓示を受けたのはその翌年の1964年6月のことである。
松澤宥は1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、その卒業謝恩会の席上で「私は鉄とコンクリートの固さを信じない。魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい。」と挨拶して周囲を驚かしたという。また、詩人としても活動しており19歳の頃から詩作を始め、1949年にはガリ版刷りの詩集を少部数刊行し北園克衛に認められて「VOU」のメンバーにもなっている。(「松澤宥自筆年譜」参照)なお、1941年から1954年にかけて発表された詩篇からリストアップした「松澤宥選詩集」(書肆山田2013年10月刊)が刊行されている。これらのことが言語による美術いわゆる「観念美術」が誕生する下地にあったとする解釈も当然だが、瀧口修造の影響も大きかったと思われる。
図版7.
「松澤宥選詩集」表紙
(書肆山田2013年10月刊)
瀧口修造は「プサイの部屋」の命名者でありながら、松澤の創造の現場であり発信基地であるその密室に入ろうとしなかったのは何故だろう。それは誰よりも松澤宥の芸術を理解していたからであり、ほとんどの人はそれを目前にして見たい誘惑に負けてしまうのではあるまいか。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は毎月23日の更新です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
*画廊亭主敬白
4年前の今日、ジョナス・メカスさんがニューヨークのご自宅で亡くなられました。享年96。
お元気ならば100歳となります(Jonas Mekas 1922年12月24日 - 2019年1月23日)。
ジョナス・メカス Jonas MEKAS
《セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて》
1983年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
37.0×51.0cm
Ed.75 Signed
*ジョナス・メカス展実行委員会と現代版画センターの共同エディション
(ジョナス・メカス映画美術館建設賛助エディション)
昨年から世界各地で生誕100年の記念イベントが企画されており、韓国光州ではメカスさんとナム・ジュン・パイクの展覧会が開催されています。
メカスさんの若い友人井戸沼紀美さんが現地に向かっていますので、近日中にレポートをお届けいたします。
これから一年、展覧会、上映会、講演会などの情報をお伝えしてまいります。
メカスさんが亡くなられた2019年に、ブログで追悼特集を組みました。そのいくつかをご紹介します。
追悼 ジョナス・メカス~井戸沼紀美「メカスさんに会った時のこと」
2014/09/09 NYのメカスさん宅にてメカスさんを井戸沼紀美さんがインタビューした動画です。
追悼 ジョナス・メカス~井戸沼紀美「東京と京都で Sleepless Nights Stories 上映会」
追悼 ジョナス・メカス~佐伯誠「その人のこと、少しだけ_追憶のジョナス・メカス」
追悼 ジョナス・メカス~1983年のインタビュー(再録)
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●関根伸夫展カタログ刊行しました
『関根伸夫展―旅する人』カタログ
発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
第13回「松澤宥」
清家克久
「松澤宥」
図版1.ψの函(ミクストメディア)
(制作年不詳)
サイズ:8×8×9cm
図版2.同上(内部)
自筆サイン有
この作品についてのデータは不明だが、「一般財団法人松澤宥プサイ(ψ)の部屋」のホームページ上に同じものと思われる函が積まれた写真が掲載されているので参照されたい。函の上蓋にはψのマーク、裏には自筆のサインがある。函の中には短冊状の桃色の薄紙に松澤宥のコンセプトである記号数字が赤で印刷され、巻いた状態で入っている。販売されたものか関係者に配られたものか分からないが、このような作品がネットオークションに出ることは珍しい。何年前のことだったかデータも残っていないが、意外に注目されず1万5千円ほどで落札した記憶がある。
今から40年程前に遡るが、造形社から刊行された『Ψの函』(限定350部1983年7月刊)を持っていた。今は手放してしまったのが惜しまれるが、総括的な作品集として編まれたもので、黒い布装の夫婦函に一枚毎に印刷された72葉の作品が9葉ずつ八つのパートに分けた黒い帙に入れて収納されていた。(この仕様はデュシャンのメモ集『不定法で』通称ホワイト・ボックスに似ている。)その包装紙だったと思うが、誰によるものか青い文字で「荘子風ブループリント」と書かれていたのが気になり、その部分をちぎって保存していた。『Ψの函』の「言語による美術」というパートに同タイトルの方眼紙による作品(1972年)が収録されている。(「松澤宥作品集」なるせ美術座2019年2月刊より)
ブループリントという名称は瀧口修造の「荒川修作のブルー・プリント」(1979年)という文章で知っていたが、元来設計図に用いる青写真のことで、荒川修作はそれを初期の版画作品に転用しており、1972年頃には方眼紙を使った作品もある。偶然かも知れないが松澤は建築から美術を、荒川は美術から建築を志向していたことがブループリントの発想をもたらしたのだろう。しかし、相互の交流はなく共通するのは瀧口修造との関係である。
図版3.荘子風ブループリントと書かれた紙片
(約11×26cm)
図版4.「荘子風ブループリント」
(「松澤宥作品集」なるせ美術座
2019年2月刊より)
図版5.荒川修作ブループリント
「The Diagram of Bottomless No.2」
1965年作
(「荒川修作全版画展」カタログ
北九州市立美術館1979年11月刊より)
☆
昨年は松澤宥(1922―2006)の生誕100年にあたり、ネット上では「松澤宥 生誕100年記念サイト」が設けられ、地元の長野県立美術館では初の回顧展が開催された。
図版6.「生誕100年松澤宥展」チラシ
(長野県立美術館2022年発行)
松澤宥の自筆年譜によると1953年に美術文化協会展と読売アンデパンダン展の出品作が初めて瀧口修造に評価されたと記している。(「松澤宥自筆年譜」(「機関13号」海鳥社1982年9月刊初出、「生誕100年松澤宥展」カタログ長野県立美術館2022年3月刊再録より)瀧口はその後も展評で松澤の作品に度々言及しているが、1963年9月に青木画廊の個展に寄せて「松沢宥に招かれて」を発表した。プサイの鳥になぞらえた二人の精神の交感や松澤芸術のコンセプトが詩的な文体で綴られ、松澤宥にとって重要かつ予言的な意味を持つテキストとなった。(以下、その全文)
松沢宥に招かれて
私は松沢宥のプサイの座敷へ招かれたことも、ここ数年来たびたびのことである。招きながら、招かれる妙な関係ではあるのだが。
さきごろ諏訪湖畔のかれの現実の座敷に招かれ、そこで深い眠りをむさぼるに及んで、どこからともなくプサイの鳥が羽ばたきながら現われ、翼が私の肉体にかすかにふれるのをすら感じたのである。もろもろの欲念と仏性(仮称)との無限のコンビネーションのくもの巣のなかで、かの鳥(無数の唯だ一羽)が水面すれすれのところを飛ぶのを見たと思うのは、ついに人間のあさはかな錯覚であるにしても、なんと心爽やかなものではなかろうか。
松沢宥は、絵画を純粋に、まったく別のコミュニケーションの次元に組み入れようとして、心性の探検をこころみてから久しい。
かれがこんど最初にして唯一無二の展覧会を催すのに、ひとつの容器の喩えを借りなければならなかったのには、充分かつ有りあまる理由があってのことである。そしてその理由の上に、かれは久しく住んでいる。
どうやら絵画というものも、現代が強要した美学一色に塗りつぶされ、その上をむなしく耕しつづけるばかりで、その奇妙な表面を物質で窒息させつつあることも否定できないようである。私はむしろ、絵画を美術館の壁でなく、人跡稀な岩壁の上、星の飛び交う無言の暗号の下で、何とも知れぬ動物たちの咆哮を微かに聴きながら、滑稽きわまる建築の見えない壁にかかっていることを想像するか、もはや何も想像しない砂漠に転ろがっていることをこそ望むだろう。絵はもはや虚の存在であることを、松沢宥は思索し、計量し、証明しようとする。いや、実は絵はそのためのものですらないのである。絵画にたいして、かれは何のうらみをもっているわけではない。かれは風雅な交情をすら絵ともちつづけている。もう私などの多言を要しないとき。かれの数学的色念図ともいうべきものがすでに発言しはじめている。(『余白に書く』(みすず書房1966年5月刊収録:原文ママ)
松澤宥の自筆年譜1963年には、「8月13日に瀧口修造先生が青木外司氏の案内で来訪される。9月9日から21日まで青木画廊で開催することになった〈ψによる松沢宥個展〉のためであった。先生は私が生まれたり”オブジェを消せ”という啓示の声を聞いた裏座敷の隣の仏壇の間に一泊され(中略)私は命名者である先生をプサイの座敷に案内しようとすると「いや、またこの次の機会に」と言われて上がられなかった。そして遂にそれは実現されずじまいになった。」と記している。そして、『コレクション瀧口修造』第4巻(みすず書房1993年10月刊)の月報に寄せた「ああニルああ荒野における瀧口修造先生との七つ目の密儀」と題する文章で当時を振り返り、「松沢宥に招かれて」の一文を一つ目の密儀として取り上げ、「それは私にとって真に啓示の耳語であった。」と告白している。「オブジェを消せ」という啓示を受けたのはその翌年の1964年6月のことである。
松澤宥は1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、その卒業謝恩会の席上で「私は鉄とコンクリートの固さを信じない。魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい。」と挨拶して周囲を驚かしたという。また、詩人としても活動しており19歳の頃から詩作を始め、1949年にはガリ版刷りの詩集を少部数刊行し北園克衛に認められて「VOU」のメンバーにもなっている。(「松澤宥自筆年譜」参照)なお、1941年から1954年にかけて発表された詩篇からリストアップした「松澤宥選詩集」(書肆山田2013年10月刊)が刊行されている。これらのことが言語による美術いわゆる「観念美術」が誕生する下地にあったとする解釈も当然だが、瀧口修造の影響も大きかったと思われる。
図版7.「松澤宥選詩集」表紙
(書肆山田2013年10月刊)
瀧口修造は「プサイの部屋」の命名者でありながら、松澤の創造の現場であり発信基地であるその密室に入ろうとしなかったのは何故だろう。それは誰よりも松澤宥の芸術を理解していたからであり、ほとんどの人はそれを目前にして見たい誘惑に負けてしまうのではあるまいか。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は毎月23日の更新です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
*画廊亭主敬白
4年前の今日、ジョナス・メカスさんがニューヨークのご自宅で亡くなられました。享年96。
お元気ならば100歳となります(Jonas Mekas 1922年12月24日 - 2019年1月23日)。
ジョナス・メカス Jonas MEKAS《セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて》
1983年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
37.0×51.0cm
Ed.75 Signed
*ジョナス・メカス展実行委員会と現代版画センターの共同エディション
(ジョナス・メカス映画美術館建設賛助エディション)
昨年から世界各地で生誕100年の記念イベントが企画されており、韓国光州ではメカスさんとナム・ジュン・パイクの展覧会が開催されています。
メカスさんの若い友人井戸沼紀美さんが現地に向かっていますので、近日中にレポートをお届けいたします。
これから一年、展覧会、上映会、講演会などの情報をお伝えしてまいります。
メカスさんが亡くなられた2019年に、ブログで追悼特集を組みました。そのいくつかをご紹介します。
追悼 ジョナス・メカス~井戸沼紀美「メカスさんに会った時のこと」
2014/09/09 NYのメカスさん宅にてメカスさんを井戸沼紀美さんがインタビューした動画です。
追悼 ジョナス・メカス~井戸沼紀美「東京と京都で Sleepless Nights Stories 上映会」
追悼 ジョナス・メカス~佐伯誠「その人のこと、少しだけ_追憶のジョナス・メカス」
追悼 ジョナス・メカス~1983年のインタビュー(再録)
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●関根伸夫展カタログ刊行しました
『関根伸夫展―旅する人』カタログ発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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