戸田穣「ピラネージ展に寄せて」第2回
ピラネージの青春時代、そしてその原版の行方
ピラネージの生涯については、作家生前の1779年にロドヴィコ・ビアンコーニのまとめた伝記があるが信憑性において留保のつくもので、それよりも1800年前後にフランスの建築家ジャック=ギヨーム・ルグラン(1753-1807)によって執筆された伝記こそが今日にまでピラネージの人物像を伝える源泉となっている。ここでは、そこに至るまでの時間を少しを遡りたい。ルグランという建築家は18世紀後半のアンシャン・レジーム末期から革命期にかけてたいへんおもしろい動きをした建築家なのだが、ピラネージとの関係では、ルグランの師であり、また義父でもあったシャルル=ルイ・クレリッソ(1721-1820)の名前を忘れるわけにはいかない。建築家ジェルマン・ボフランのもとで建築を学び、アカデミーのローマ大賞を受賞して1749年にローマに留学。当時ピラネージは、ローマのフランス・アカデミーの向かいに工房を開いており、フランスからの若き建築家・芸術家たちと交流し、彼らに影響を与えた。クレリッソもそうした若者のひとりだった。
また18世紀イギリスを代表する建築家ロバート・アダム(1728-1792)も1755年にローマに到着。クレリッソを通じてピラネージの知己を得て、二人に兄事してローマの古代遺跡とあたらしい古典主義を吸収した。3人はよく古代遺跡の調査旅行にもでかけたという。ピラネージの描く暗く重い版画のイメージからはほど遠い、伊仏英三人の建築家たちによる爽やかな青年時代の情景が想像される。アダムはパトロンとしてピラネージの出版事業を後援もした。その成果が『カンプス・マルティウス』(1762)であり、アダムへの献辞が記されている。
長くローマに居座ったクレリッソも1760年代後半にはフランスに帰国し、その経験と類稀なデッサンの力量とで、若い建築家、とくにローマに訪れたことのない建築家にとってのよいメンターとなった。1788年には『フランスの古代遺物』第1巻「ニームのモニュメント」を出版。南仏の都市ニームに残る1世紀の古代ローマ神殿メゾン・カレを中心とした版画集であった。当時、フランスに滞在し、のちにアメリカの第3代大統領になるトーマス・ジェファーソン(1743-1826)は、クレリッソの監修をえてメゾン・カレをモデルにバージニア州議会議事堂を設計したと伝えられている。
大要そのような次第であり、1778年ピラネージ没後、その原版は息子フランチェスコ(1758頃-1810)に相続された。フランチェスコは父の技術を継承するだけでなく、一時スウェーデン王国のために働き、また当時ローマのフランス大使を務めていたジョゼフ・ボナパルト(ナポレオンの兄)とも親交を結ぶなど政治的にも活躍した人物だ。弟ピエトロもまた共和国の理念に共感していた。ナポレオン軍が席巻してイタリア半島を混乱におとしいれるなか、兄弟は父の原版とともにフランスに亡命することを決意する。
ピラネージの息子たちの亡命をフランス共和国は歓迎し、彼らが携えた2000を超える原版のパリまでの旅路は、当時の定期刊行物にもつぶさに報告され、その到着が待たれた。1799年ブリュメール18日のクーデタによって第一統領となっていたナポレオンも彼らを後援して、兄弟はパリにピラネージ兄弟印刷所を設立。父の全集出版を念願した兄弟は、亡き父の友人クレリッソの娘婿であり、建築家・建築史家として活躍していたルグランに、その序文として伝記執筆を依頼することとなった。
しかし全集出版が果たされることはなく、1807年にはルグランが逝去、弟ピエトロもローマに帰国。そして1810年にはフランチェスコが大きな負債を抱えたまま亡くなってしまう。その清算のためピラネージの銅版一式は、フランスを代表する出版者の一族であるフィルマン・ディド(1764-1836)(欧文フォントDidotの名で知られる)の手に渡り、1830年代にようやくピラネージ全集が出版された。フランスではすでに高まっていたピラネージへの関心が、この出版によってさらに盛り上がっただろうことは想像に難くない。全集出版後、この原版はローマに返還され、いまではローマ国立銅版画博物館の所蔵となっている。
ルグランのテクストは一世紀近く草稿のままフランス国立図書館に残されていたが、二十世紀のはじめに美術史家アンリ・フォシヨン(1881-1943)が、これを再発見して『ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ』(1918)を出版する。そうして1920年代のシュルレアリストをはじめとした人々の再評価が続いていくこととなるのだ。
日本にもいくつかのピラネージのオリジナルがもたらされている。そのうちの一つである、東京大学総合図書館所蔵の亀井文庫『ピラネージ版画集』はフィルマン・ディド版であり、全29巻の画像データベースを公開している。これは旧津和野藩主亀井家当主、伯爵亀井茲明(1861-1896)が、1886年から1891年までヨーロッパに留学した際に収集した貴重書を中心としたコレクションの中のひとつ。ピラネージ生前のオリジナルも国内には存在し『牢獄』について言えば、国立西洋美術館に『牢獄』第1版および第2版が、静岡県立美術館、町田市立国際版画美術館に第2版が所蔵されている。
建築は不動の人工物であり、時を超えてその時代の文明を伝えるモニュメントだと考えられている。一方でピラネージの建築家としての影響力の広さは ―― 実務の設計・建設活動はごく限られていたにもかかわらず ―― 、版画という紙上の複製芸術のなすところであり、またその影響力の持続は彼の想像力が託された「版」という物質的な存在の持続性に他ならない。建物が崩れるように、版も摩耗してしまうとしても、紙上に展開された建築家のイメージは残り続けるだろう。
(とだ じょう)

〈牢獄〉シリーズより《牢獄IX.巨大な車輪》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄X.張り出した井桁の上の囚人たち》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XI.貝殻装飾のあるアーチ》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XII.木挽き台》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XIII.井戸》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XIV.ゴシック式アーチ》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XV.燈火のある迫持台》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XVI.鎖のある迫持台》
■戸田 穣(とだじょう)
1976年大阪府生まれ。2000年東京大学教養学部教養学科第二卒業。2009年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。専門はフランス近世近代建築史、日本近現代建築史。金沢工業大学環境・建築学部建築デザイン学科准教授を経て、現在は昭和女子大学 環境デザイン学部 環境デザイン学科 専任講師。
◆「幻想の建築 ピラネージ展」
会期:2023年8月4日(金)~8月12日(土)*日曜・月曜・祝日休廊
18世紀イタリアの建築家・版画家ジャン=バティスタ・ピラネージ(1720-1778)の《牢獄》シリーズ全16点(1761年ピラネージの原作、1961年Bracons-Duplessisによる復刻)を展示します。
本展については建築史家の戸田穣先生に第1回「ピラネージ『牢獄』1961年版」について、第2回「ピラネージの青春時代、そしてその原版の行方」についてご寄稿いただきました。
出品作品の詳細、価格については7月27日ブログをお読みください。
ピラネージの青春時代、そしてその原版の行方
ピラネージの生涯については、作家生前の1779年にロドヴィコ・ビアンコーニのまとめた伝記があるが信憑性において留保のつくもので、それよりも1800年前後にフランスの建築家ジャック=ギヨーム・ルグラン(1753-1807)によって執筆された伝記こそが今日にまでピラネージの人物像を伝える源泉となっている。ここでは、そこに至るまでの時間を少しを遡りたい。ルグランという建築家は18世紀後半のアンシャン・レジーム末期から革命期にかけてたいへんおもしろい動きをした建築家なのだが、ピラネージとの関係では、ルグランの師であり、また義父でもあったシャルル=ルイ・クレリッソ(1721-1820)の名前を忘れるわけにはいかない。建築家ジェルマン・ボフランのもとで建築を学び、アカデミーのローマ大賞を受賞して1749年にローマに留学。当時ピラネージは、ローマのフランス・アカデミーの向かいに工房を開いており、フランスからの若き建築家・芸術家たちと交流し、彼らに影響を与えた。クレリッソもそうした若者のひとりだった。
また18世紀イギリスを代表する建築家ロバート・アダム(1728-1792)も1755年にローマに到着。クレリッソを通じてピラネージの知己を得て、二人に兄事してローマの古代遺跡とあたらしい古典主義を吸収した。3人はよく古代遺跡の調査旅行にもでかけたという。ピラネージの描く暗く重い版画のイメージからはほど遠い、伊仏英三人の建築家たちによる爽やかな青年時代の情景が想像される。アダムはパトロンとしてピラネージの出版事業を後援もした。その成果が『カンプス・マルティウス』(1762)であり、アダムへの献辞が記されている。
長くローマに居座ったクレリッソも1760年代後半にはフランスに帰国し、その経験と類稀なデッサンの力量とで、若い建築家、とくにローマに訪れたことのない建築家にとってのよいメンターとなった。1788年には『フランスの古代遺物』第1巻「ニームのモニュメント」を出版。南仏の都市ニームに残る1世紀の古代ローマ神殿メゾン・カレを中心とした版画集であった。当時、フランスに滞在し、のちにアメリカの第3代大統領になるトーマス・ジェファーソン(1743-1826)は、クレリッソの監修をえてメゾン・カレをモデルにバージニア州議会議事堂を設計したと伝えられている。
大要そのような次第であり、1778年ピラネージ没後、その原版は息子フランチェスコ(1758頃-1810)に相続された。フランチェスコは父の技術を継承するだけでなく、一時スウェーデン王国のために働き、また当時ローマのフランス大使を務めていたジョゼフ・ボナパルト(ナポレオンの兄)とも親交を結ぶなど政治的にも活躍した人物だ。弟ピエトロもまた共和国の理念に共感していた。ナポレオン軍が席巻してイタリア半島を混乱におとしいれるなか、兄弟は父の原版とともにフランスに亡命することを決意する。
ピラネージの息子たちの亡命をフランス共和国は歓迎し、彼らが携えた2000を超える原版のパリまでの旅路は、当時の定期刊行物にもつぶさに報告され、その到着が待たれた。1799年ブリュメール18日のクーデタによって第一統領となっていたナポレオンも彼らを後援して、兄弟はパリにピラネージ兄弟印刷所を設立。父の全集出版を念願した兄弟は、亡き父の友人クレリッソの娘婿であり、建築家・建築史家として活躍していたルグランに、その序文として伝記執筆を依頼することとなった。
しかし全集出版が果たされることはなく、1807年にはルグランが逝去、弟ピエトロもローマに帰国。そして1810年にはフランチェスコが大きな負債を抱えたまま亡くなってしまう。その清算のためピラネージの銅版一式は、フランスを代表する出版者の一族であるフィルマン・ディド(1764-1836)(欧文フォントDidotの名で知られる)の手に渡り、1830年代にようやくピラネージ全集が出版された。フランスではすでに高まっていたピラネージへの関心が、この出版によってさらに盛り上がっただろうことは想像に難くない。全集出版後、この原版はローマに返還され、いまではローマ国立銅版画博物館の所蔵となっている。
ルグランのテクストは一世紀近く草稿のままフランス国立図書館に残されていたが、二十世紀のはじめに美術史家アンリ・フォシヨン(1881-1943)が、これを再発見して『ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ』(1918)を出版する。そうして1920年代のシュルレアリストをはじめとした人々の再評価が続いていくこととなるのだ。
日本にもいくつかのピラネージのオリジナルがもたらされている。そのうちの一つである、東京大学総合図書館所蔵の亀井文庫『ピラネージ版画集』はフィルマン・ディド版であり、全29巻の画像データベースを公開している。これは旧津和野藩主亀井家当主、伯爵亀井茲明(1861-1896)が、1886年から1891年までヨーロッパに留学した際に収集した貴重書を中心としたコレクションの中のひとつ。ピラネージ生前のオリジナルも国内には存在し『牢獄』について言えば、国立西洋美術館に『牢獄』第1版および第2版が、静岡県立美術館、町田市立国際版画美術館に第2版が所蔵されている。
建築は不動の人工物であり、時を超えてその時代の文明を伝えるモニュメントだと考えられている。一方でピラネージの建築家としての影響力の広さは ―― 実務の設計・建設活動はごく限られていたにもかかわらず ―― 、版画という紙上の複製芸術のなすところであり、またその影響力の持続は彼の想像力が託された「版」という物質的な存在の持続性に他ならない。建物が崩れるように、版も摩耗してしまうとしても、紙上に展開された建築家のイメージは残り続けるだろう。
(とだ じょう)

〈牢獄〉シリーズより《牢獄IX.巨大な車輪》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄X.張り出した井桁の上の囚人たち》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XI.貝殻装飾のあるアーチ》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XII.木挽き台》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XIII.井戸》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XIV.ゴシック式アーチ》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XV.燈火のある迫持台》

〈牢獄〉シリーズより《牢獄XVI.鎖のある迫持台》
■戸田 穣(とだじょう)
1976年大阪府生まれ。2000年東京大学教養学部教養学科第二卒業。2009年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。専門はフランス近世近代建築史、日本近現代建築史。金沢工業大学環境・建築学部建築デザイン学科准教授を経て、現在は昭和女子大学 環境デザイン学部 環境デザイン学科 専任講師。
◆「幻想の建築 ピラネージ展」
会期:2023年8月4日(金)~8月12日(土)*日曜・月曜・祝日休廊
18世紀イタリアの建築家・版画家ジャン=バティスタ・ピラネージ(1720-1778)の《牢獄》シリーズ全16点(1761年ピラネージの原作、1961年Bracons-Duplessisによる復刻)を展示します。本展については建築史家の戸田穣先生に第1回「ピラネージ『牢獄』1961年版」について、第2回「ピラネージの青春時代、そしてその原版の行方」についてご寄稿いただきました。
出品作品の詳細、価格については7月27日ブログをお読みください。
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