石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─19
『ラ・コスト村の時計塔』
展覧会 MON SADE chapitre2
羊歯齋文庫特設会場
2023年12月2日(土)~2024年2月4日(日)

図1 戯曲『ユーフェミー・ド・ムランあるいはアルジェの包囲』サド肉筆原稿(1782-83) 「ヴァンセンヌ牢獄で執筆、その後、サドの子孫であるグザヴィエ・ド・サド伯爵が所蔵」
嵐電の北野線に「桜のトンネル」と呼ばれる区間がある。季節になると車窓を取り囲むピンク色に包まれ……、華やかな場面が好きな身には堪えられない。──と、なるけど、まだ春は遠い。この国では季節の移り変わりを「光」によって感じると聞いたのは、ずいぶん昔。低い角度の日差しを受けながら緩やかな勾配を昭和初期の車両が進んでいく。本稿を書き始めながら画像を白黒モードに変換した。色があっては旅に不釣り合い、精神の深層を目指し踏み出したのである。

図2 嵐電(京福電気鉄道)北野線 鳴滝~宇多野間
京都では、前回の「美術館でブラパチ」で報告したシュルレアリスム宣言発表100周年を記念する展覧会が市内中心部で催されたのと同じ時期に「日本」や「京都」を冠しない、シュルレアリスムの何たるかを示す特別な展示が、友人・知人のネットワークを介して広がっていた。アンドレ・ブルトンの献呈署名が入った『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』を含む展示は、前述の大規模展に置かれた美術館所蔵品とは異なる初出(仮綴、辛子色表紙)の状態を伝えて、わたしの心が踊る。──いけない、先走った。再開「美術館でブラパチ」第2回は、日本画家たちの旧宅が点在する衣笠地区に設けられた特別な空間、羊歯齋(ようしさい)文庫特設会場に皆様をお連れしたい。

図3 ラ・コスト村の小路、影を横切るのは……
1. マルキ・ド・サドへの鉄格子
主宰者はブルトンの宣言にある「サドは、サディスムにおいてシュルレアリストである」との指摘を体現した経緯、精神の状態を『MON SADE(私のサド)』第2章としてわたしたちに開陳してくれるという。展示は完全予約制、手がかりは携帯の画像に示された鉄格子越しに望むラ・コスト城と覚しき廃墟、雷鳴轟く舞台。紙モノのエフェメラ以上にエフェメラらしい危うさが、なんとも秘密めいてドキドキしてしまう。どんな人が用意した空間なんだろう、知りたいような怖いような、電車を降りて会場の部屋番号を押した。

図4 展覧会告知画像
暗幕をくぐり中に入ると鉄格子が目に飛び込む、牢獄に投げ込まれた囚われ人の心境。展示台に光が当たり特別なものが置かれている予感。打ちっぱなしのコンクリート壁に写真やデッサン、版画などが掛けられている。視覚だけでなく身体全体の反応を強要する空間、気楽なブラパチのアプローチでは、精神に支障をきたすのではと身構えてしまった。わたしが澁澤龍彦の日本語でサドを熱中して読んだのは二十歳前、若い記憶が石畳の間から滲み出してくる感覚に後ずさりしてしまった。でも、許されないのです、特別の場が与えられていると覚しき戯曲の肉筆草稿のケースに誘われた。そこには、18世紀後半に幽閉された貴族の筆跡、肉体の証が置かれている。

図5 展示室(鉄格子・正面)

図6 展示室(右)
縢り糸むき出しの紙片に丹精な書体が続く、不思議に白い紙片、知の作業がかってここにあったと目を近付ける(図1参照)。パリから京都に持ち込んだ稀代のコレクター氏が「匿名による秘密出版と公序良俗に極端に反しない小説や戯曲」について説明してくれた。サドは特に「投獄される前より戯曲には並々ならぬ熱意を抱いており、自作品の劇場での上演に奔走し、役者として自ら舞台に上がることもあった」という。──とすると、わたしヴァンセンヌ牢獄のサドの居室に紛れ込んでいるのかしら、わたしの方が幽霊なのかもしれない。

図7 サド肉筆書簡 下段: 夫人宛4通(1779年、1782年、1783年、1784年)、上段: 公証人ゴーフリディ宛(1798年)
続いて、サドが夫人に宛てた書簡のいくつかにも食い入った。ラ・コスト城で逮捕された1778年8月以降、ヴァンセンヌ、続いてバスティーユの獄に幽閉され、散歩も日に数回と制限され、眼病をわずらい始めたサド、夫人との面会もほとんど許されず、小さな紙片の小さな文字に、何が書かれているのか……。壁に掛けられた写真の人物、研究家のジルベール・レリーは「妻への嫉妬に荒れ狂った時期である」とし、「夫婦のあいだには、一種の共犯関係が成立していた」と指摘する。展示されている手紙と異なるが、この時期の一通に「お前はまだ六十歳にはほど遠いけれども、そのくらいの年齢になった気でいなければいけないよ。私たちは不幸によって、実際の年齢以上に老い込んでいることを忘れないでいてほしい」(ジルベール・レリー『サド侯爵』澁澤龍彦訳、筑摩書房、1970年、89頁)と書いている。どうです、気持ち伝わりますよね。

図8 『恋の罪、壮烈悲惨物語』全4巻初版(マッセ書店、1800年) 後年の革装

図9 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(パリ愛書家クラブ、1904年)革装、『サド侯爵の作品』(キュリユー書店、1909年)、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』全3巻 (スタンダール商会、1931~35年) ジルベール・レリー旧蔵
展示空間は凹形で、右側のケースにサドの肉声に沿うものが置かれている。『恋の罪、壮烈悲惨物語』初版などを前にして目眩に襲われたけど、凡夫には手に取れないのが幸いであるように思う。拙宅に残るサド関連資料はマン・レイ絡みに限られている、澁澤訳の著作たちから卒業していた身の幸運(?)ではなかろうか。

図10 展示室(左) 正面にゴーティエ・ダ・ゴティ『人体構造解剖図集』(1759年)より一葉 銅版多色刷り手彩色
左側に展覧会のテキストが示されていることから、こちらが入り口であるのかもしれない。黒ベタ白抜きで凡そ2000字、サドの生涯から20世紀に入っての再評価、澁澤龍彦の役割やサド裁判の経過などに触れた後、戯曲作品についての日本での本格的紹介に寄与したい思いが綴られている。
2. マン・レイ油彩《マルキ・ド・サドの想像的肖像》
全文を引き写すのが、展覧会を紹介する最善の方法であることは、痛いほど分かっているが、今しばらく、わたしのレビューにお付き合いいただきたい。この空間に足を踏み入れた時、サドの霊力にやられ、ときの忘れもののブログで報告せねばと思ってしまったのである。サドがマン・レイの精神的な師匠であることも原因のひとつであるだろう。──重複するが、貴族階級の頽廃に言及した後、テキストの筆者は「妻への手紙の中での抗弁」と補足しつつ以下の引用を行っている。
「私は犯罪者でもなければ人殺しでもなく、ひとりのリベルタンにしか過ぎない」
山本悍右が自身をリベルタンと呼んでいたので、わたし困ってしまったのです。テキストによれば「ドナスィアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド」。カタカナ表記の人名に暗闇が被り、忘れたいことばかりが二十歳頃の個人史から顔を出している。展示は手前ケースの発禁扱いを強いられた続編を含む『悪徳の栄え』帯付き二冊と訳者澁澤の肉筆原稿、加えて三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』を起点に、サド没後の20世紀を東京からパリへと遡る。

図11 サド『悪徳の栄え』澁澤龍彦訳(正・続)初版 (現代思潮社、1959年)、三島由紀夫『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年) 署名入り他

図12 澁澤龍彦肉筆原稿『新マルキ・ド・サド選集第二巻 悪徳の栄え』(桃源社)収録あとがき(1965年)他
その前に赤い表紙の大判雑誌『オブリック』特別号の頁に寄り道したい(本稿のために市内の古書店で廉価版を拝見させていただいた)。そこにはマン・レイが描いた油彩《マルキ・ド・サドの想像的肖像》再制作の複製図版が掲載されている。わたしのサドへの関心はマン・レイがピエール・ブルジャッドに語った(『マン・レイとの対話』松田憲次郎・平出和子訳、銀紙書房/水声社、1995年、88~99頁) 研究家モーリス・エーヌへの言及にあり、マン・レイのアトリエがあったカンパーニュ・プルミエール通りの建物の住人でもあったシュルレアリストのエーヌが、15メートルに及ぶ巻紙(昔のトイレットペーパー)にサドが書き込んだ『ソドム百二十日』を手に入れ、写真を撮ってもらいにきたのだと云う。成人したサドの肖像画がないことを嘆くエーヌに「では私がひとつ描きましょう」と請負った画家は既にサドの著作を知っていたと思うが調査は詳細を極め、ラ・コストの城は言うに及ばず、「サドの検死を担当した法医学者の報告書も読んだ」うえで「エレガントで、かつらをつけた正真正銘の貴族」の肖像を描いた。わたしは東京(1983年)とウィーン(2018年)でこの油彩を観たけれど、バスティーユの古びた壁石で出来た身体、誇張された右目、炎に包まれた牢獄、印象に残る素晴らしい作品だった。なによりも、油彩の下部に書き加えたサドの遺言の一節「……余の墓の跡が地表から見えなくなるようにしてほしい。人々の心から余の記憶が消し去られることを願うが故に」が、2019年に破壊されたマン・レイのモンパルナス墓地の惨状を予見したようで、わたしウルウルするのです。図版に使われた油彩はマン・レイがカリフォルニアに幽閉(?)された1940年の仕事、革命の炎は認められず、預言者サドの眼が印象深い。何を思い描いたのかと画家の境遇に感情移入。これでは前に進めません。
表紙を示す書物と展覧会で対面した時、想像力が頁を捲る。ここでも、同じように念じながら何か特別の書き込みがあるだろうかと、確認をせずにはいられなかった。持ち主が「無造作にオリジナルの写真が挟んであるだけですよ」と答えてくれても、人の手の痕跡がどこかにあるのではと、やはり足を止めてしまうのだった。

図13 下段左から: ジャン・ブノワ『サド侯爵の遺言執行式』案内状(1959年)、アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』(シモン・クラ書店、1924年)初版 ブルトン献呈署名入り、アンドレ・ブルトン篇『黒いユーモア選集』(サジテール社、1940年)初版 ジルベール・レリー旧蔵。上段左から: 雑誌『オブリック』サド特集12-13号特装版(ボルドリー出版、1977年)アンリ・マッケローニによるオリジナル写真など挿入、『シュルレアリスム国際展E.R.O.S』普及版カタログ(ダニエル・コルディエ画廊、1959年)、機関誌『シュルレアリスム革命』8号(1926年)他
さて、エフェメラ好きの小生は奥側のケースに惹かれる。先に口走った『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』を筆頭に血の色が効果的に意識されている。乾いた血のルミノール反応にはブラックライトでの追跡が有効だけど、周到に用意された展示の効果が、知らぬまに図像解釈へと観る者を導く、招待状が投函される場面であるだろうし、陰部の写真が封入されているかもしれない。サインのあるものが絡みあい、関係者がサド侯爵の遺言状執行式に参列している場面が目に浮かぶ。住所からジョイス・マンスールのアパートがマルモッタン・モネ美術館の近くと分かるのですな。
3. 八丈島の玉石垣

図14 展示室(床)
床に貼り付いた『シュルレアリスム革命』の表紙やサドの書籍の中扉、繰り広げられる狂宴の場面にひざまずき侯爵に服従の印をひとつ、ふたつ。急死したエーヌの「忍耐強い研究とねばり強い情熱」を引き継いだのが先に写真が掛かっていると報告したジルベール・レリーだった。澁澤は「これまで私たちの知識の領域に入っていなかった多数の作品および資料を、最大の幸運に助けられつつ愛情と熱意をもって、私たちに手渡す用意をしているのだ」(前掲書『サド侯爵』342頁)と賛辞を送る。これは澁澤自身への自負につながると思える。羊歯齋文庫の主宰者への言葉としても引用できるだろう。ありがとう。感謝申し上げます。

図15 中央にジルベール・レリー写真(処:ラ・コスト城、1948年) 撮影者不詳

図16 展示室・正面壁 ハンス・ベルメール銅版画《サドに》(アトリエ ジョルジュ・ヴィザ、1961年)、伝サド侯爵夫人肉筆書簡サド宛(日付不明)他

図17 展示室・左壁面左から:金子國義、ピエール・モリニエ《セルフポートレイト》(1960年代)、デニス・ベロン『シュルレアリスム国際展E.R.O.S』会場写真(天井にマン・レイの油彩《処女》が認められる)、ジャン・ブノワ《ネクロフィリア》(1965年)、男性器解剖図(年代不詳)等。
2時間は経過しただろうか、怯えは喜びに変わっている。壁に掛けられた作品に合わせ身体をひねると、サドの気配に満たされた牢獄が外に向かって開かれているのに気付く。鉄格子の中から覗くと「貴方の方が幽閉されているのですよ」と諭される塩梅。主宰者は「鉄格子を自由の結界として設え」それを狙っていると、さらに説明を続けてくれた。
凡夫は置かれた物たちのオーラに反応したけど、主宰者は「京都であるから床飾りを意識し、段差の具合がラ・コスト城二階の『芝居上演の間』につながると感じたという(資料ファイルには1770年と記された間取図が挟まれている)」。そして、「やりたい事は、本を読んだ残像に満ちた空間の立ち上げ」。澁澤龍彦の世界が徹底されて開かれていたのである。ファンを自認する世の御仁たちの解釈なんぞは手ぬるい、これは40代に入ってから系統的に澁澤を読んだ主宰者の精神史に触れないと理解できない代物である。
生まれは八丈島と聞いた。異国的な風貌に土着性が加味された丈夫、饒舌なエネルギーがほとばしり、展示解説はとどまるを知らない。若い頃は数万人規模の観客動員を誇った展覧会の企画・会場構成を生業とし、ホワイトキューブ型展示と異なる独特のシュルレアリスム的空間を創り上げていた。澁澤への開眼もパリのある古書店が契機だったという。ここ10年は「シュルレアリスムに関する日仏間の文化交流の資料蒐集」の成果を中心に観賞者を絞った展示表現に隠遁者風の生活を捧げている。──と、先日、餃子と生ビールを楽しんだ新年会の席での話題を整理しておきたい。こちらも酔っ払っていたから、責任もてないけど(ハハ)。
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図18 展示室の住人
鉄格子の上に梟が止まっている。彼の獲物にわたしたちはなるのだろう、── 規模の大小は別として、生活の根幹を「夢想」においてしまった報いに怯える日々をわたしも送っていると自覚する。怖いですね。「何をたいそうに」と黄昏時の知性は酔っ払い同士の「シュルレアリスム論」を「ボロ着て奉公」とあざ笑う。そうであっても、前段の『MON SADE』第1章の経緯を尋ねずにはいられなかった。
島の景勝地、玉石垣に囲まれた古民家の一棟をサドの墓処に設える作業は、外壁墨液塗り、室内スケルトン、団栗の実を敷き詰め、祭壇に続く通路は白色で肉筆資料や貴重図書がケースに入れられている。この先に、今、京都で前にしている鉄格子がはめられ、厳かに、忘れるべき肉体の痕跡を置いたようである。おびただしい数の団栗の実は、展示に適すよう整えるのに三ヶ月を要したと聞く。
地元の友人の助けを借り設えた古民家の中で、サドの祥月命日を迎えたのは2014年、200年目の満月の夜10時。月明かりに恐ろしいほどのヤスデが集まり、サドが降臨したと実感。絶海孤島の流刑地故の「自由を奪われた中での表現行為」と石牢に閉じ込められたサドが通底する、ここに原点があったと主宰者。膨大な資金をつぎ込み東京からコンテナを仕立て設営する作業に駆り立てたものは南方の知の集積、海を渡った観者はわずか、実体験として語り告ぐ役割は設営側の数名に委ねられ、写真が残るのみ、だれも知らない。なんと素晴らしく、目眩に包まれる行為ではないか。第2章の会場で展示品の書誌的事項などに熱中している小生は、頭をがんとやられたわけである。二流のコレクターはつらい。

図19 頭部断面骨格標本(年代不詳)
丈夫は団栗を拾い、蒔く行為そのものが重要な表現だったと語るが、遺言の葬儀に関する指示には「ひとたび墓穴の蓋を閉めたら、その上に樫の実を蒔き、ふたたび土をかぶせ、以前のごとく墓穴の場所が叢林に覆われ」(前掲書『サド侯爵』313頁)とある。マン・レイの油彩下段で省略された「……」の文言が、これなのである。マン・レイの墓石を団栗の実が覆う日も近い。
4. ラ・コスト村の時計塔
別室で珈琲を頂戴し、ラ・コスト城を訪問した折のビデオを拝見した。若い夫婦が互いに撮り合い村の小路を進む。古い石畳の丸い感触がこちらにも伝わる。先程、裏面に仕込んだ光源との兼ね合いで不思議な面を見せた廃城が、蔦に絡み動いている(ように見える)。1977年に訪れた澁澤龍彦の『滞欧日記』を映像で追体験する感覚、珍しく日記で自身を「オレ」と呼んだ彼は「時計は裏へまわると見える」と記した。「草を摘んだ」特別に感動的な一日だったようで、彼の写った背景を凡夫は追ってしまった。書物に残ったイメージの中を歩くとは、若い夫婦にとっても生涯に残る記念すべき日ではなかったか。わたしは村の時計塔を見上げ、ビデオの停止をお願いしながら、鐘は鳴り響いたのだろうかと、指し示す時間を記憶した。
さて、羊歯齋文庫での訪問は3時間を超えた。エーヌの許からノアイユ子爵夫妻に移ったサドの草稿『ソドム百二十日』の流転にまつわる古書業界の裏話をお聞きする。オークションに出品され10億円に近い値がつくとされたが、今では先買権がらみでフランスの国宝になったとか。現物を観ているから「これが欲しかった」と主宰者は笑っておられる。
八丈島に続き、20世紀のサドに関する文献資料をコンプリートしたこの人は、2017年に東京で「サドはサディスムにおいてシュルレアリストである」と題する展覧会を開催。さらに、京都で「私のサド」第2章を開催するよう迫ったのは、持ち帰った団栗たちの声。鉄格子のこちら側で出自への問いかけが続く……。
盆地の底冷えが石牢のように忍び込む部屋で一人眠る偉大なコレクター氏に去来する「夢」は、東南の島に繋がっていると思える。「人工物は朽ち果て、やがて自然に帰る」と、新しいブロジェクトを語るのだった

図20 展示室(鉄格子の鍵)
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図21 ラ・コスト村の時計塔、鐘つき塔。
今回のレビュー出稿は展覧会が終わったタイミングになってしまった。取材に協力いただきながら守れなかったのはわたしの遅筆が原因、お読みいただいた皆様に心よりお詫び申し上げる。
(いしはら てるお)
●本日のお勧め作品は、ジョナス・メカスとマン・レイです。
ジョナス・メカス「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」
1983年
シルクスクリーン
37.0×51.0cm
Ed.75 サインあり
マン・レイ「自画像」
1972年
リトグラフ
19.7×15.6cm
額装サイズ:57.5×43.5cm
Ed.100 (E.A.) サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。
映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー
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制作年:1963~2014年
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Blu-Ray→18,000円(税込)
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※2023年8月現在の価格となります。
商品の詳細については、2023年3月4日ブログをご参照ください。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
『ラ・コスト村の時計塔』
展覧会 MON SADE chapitre2
羊歯齋文庫特設会場
2023年12月2日(土)~2024年2月4日(日)

図1 戯曲『ユーフェミー・ド・ムランあるいはアルジェの包囲』サド肉筆原稿(1782-83) 「ヴァンセンヌ牢獄で執筆、その後、サドの子孫であるグザヴィエ・ド・サド伯爵が所蔵」
嵐電の北野線に「桜のトンネル」と呼ばれる区間がある。季節になると車窓を取り囲むピンク色に包まれ……、華やかな場面が好きな身には堪えられない。──と、なるけど、まだ春は遠い。この国では季節の移り変わりを「光」によって感じると聞いたのは、ずいぶん昔。低い角度の日差しを受けながら緩やかな勾配を昭和初期の車両が進んでいく。本稿を書き始めながら画像を白黒モードに変換した。色があっては旅に不釣り合い、精神の深層を目指し踏み出したのである。

図2 嵐電(京福電気鉄道)北野線 鳴滝~宇多野間
京都では、前回の「美術館でブラパチ」で報告したシュルレアリスム宣言発表100周年を記念する展覧会が市内中心部で催されたのと同じ時期に「日本」や「京都」を冠しない、シュルレアリスムの何たるかを示す特別な展示が、友人・知人のネットワークを介して広がっていた。アンドレ・ブルトンの献呈署名が入った『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』を含む展示は、前述の大規模展に置かれた美術館所蔵品とは異なる初出(仮綴、辛子色表紙)の状態を伝えて、わたしの心が踊る。──いけない、先走った。再開「美術館でブラパチ」第2回は、日本画家たちの旧宅が点在する衣笠地区に設けられた特別な空間、羊歯齋(ようしさい)文庫特設会場に皆様をお連れしたい。

図3 ラ・コスト村の小路、影を横切るのは……
1. マルキ・ド・サドへの鉄格子
主宰者はブルトンの宣言にある「サドは、サディスムにおいてシュルレアリストである」との指摘を体現した経緯、精神の状態を『MON SADE(私のサド)』第2章としてわたしたちに開陳してくれるという。展示は完全予約制、手がかりは携帯の画像に示された鉄格子越しに望むラ・コスト城と覚しき廃墟、雷鳴轟く舞台。紙モノのエフェメラ以上にエフェメラらしい危うさが、なんとも秘密めいてドキドキしてしまう。どんな人が用意した空間なんだろう、知りたいような怖いような、電車を降りて会場の部屋番号を押した。

図4 展覧会告知画像
暗幕をくぐり中に入ると鉄格子が目に飛び込む、牢獄に投げ込まれた囚われ人の心境。展示台に光が当たり特別なものが置かれている予感。打ちっぱなしのコンクリート壁に写真やデッサン、版画などが掛けられている。視覚だけでなく身体全体の反応を強要する空間、気楽なブラパチのアプローチでは、精神に支障をきたすのではと身構えてしまった。わたしが澁澤龍彦の日本語でサドを熱中して読んだのは二十歳前、若い記憶が石畳の間から滲み出してくる感覚に後ずさりしてしまった。でも、許されないのです、特別の場が与えられていると覚しき戯曲の肉筆草稿のケースに誘われた。そこには、18世紀後半に幽閉された貴族の筆跡、肉体の証が置かれている。

図5 展示室(鉄格子・正面)

図6 展示室(右)
縢り糸むき出しの紙片に丹精な書体が続く、不思議に白い紙片、知の作業がかってここにあったと目を近付ける(図1参照)。パリから京都に持ち込んだ稀代のコレクター氏が「匿名による秘密出版と公序良俗に極端に反しない小説や戯曲」について説明してくれた。サドは特に「投獄される前より戯曲には並々ならぬ熱意を抱いており、自作品の劇場での上演に奔走し、役者として自ら舞台に上がることもあった」という。──とすると、わたしヴァンセンヌ牢獄のサドの居室に紛れ込んでいるのかしら、わたしの方が幽霊なのかもしれない。

図7 サド肉筆書簡 下段: 夫人宛4通(1779年、1782年、1783年、1784年)、上段: 公証人ゴーフリディ宛(1798年)
続いて、サドが夫人に宛てた書簡のいくつかにも食い入った。ラ・コスト城で逮捕された1778年8月以降、ヴァンセンヌ、続いてバスティーユの獄に幽閉され、散歩も日に数回と制限され、眼病をわずらい始めたサド、夫人との面会もほとんど許されず、小さな紙片の小さな文字に、何が書かれているのか……。壁に掛けられた写真の人物、研究家のジルベール・レリーは「妻への嫉妬に荒れ狂った時期である」とし、「夫婦のあいだには、一種の共犯関係が成立していた」と指摘する。展示されている手紙と異なるが、この時期の一通に「お前はまだ六十歳にはほど遠いけれども、そのくらいの年齢になった気でいなければいけないよ。私たちは不幸によって、実際の年齢以上に老い込んでいることを忘れないでいてほしい」(ジルベール・レリー『サド侯爵』澁澤龍彦訳、筑摩書房、1970年、89頁)と書いている。どうです、気持ち伝わりますよね。

図8 『恋の罪、壮烈悲惨物語』全4巻初版(マッセ書店、1800年) 後年の革装

図9 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(パリ愛書家クラブ、1904年)革装、『サド侯爵の作品』(キュリユー書店、1909年)、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』全3巻 (スタンダール商会、1931~35年) ジルベール・レリー旧蔵
展示空間は凹形で、右側のケースにサドの肉声に沿うものが置かれている。『恋の罪、壮烈悲惨物語』初版などを前にして目眩に襲われたけど、凡夫には手に取れないのが幸いであるように思う。拙宅に残るサド関連資料はマン・レイ絡みに限られている、澁澤訳の著作たちから卒業していた身の幸運(?)ではなかろうか。

図10 展示室(左) 正面にゴーティエ・ダ・ゴティ『人体構造解剖図集』(1759年)より一葉 銅版多色刷り手彩色
左側に展覧会のテキストが示されていることから、こちらが入り口であるのかもしれない。黒ベタ白抜きで凡そ2000字、サドの生涯から20世紀に入っての再評価、澁澤龍彦の役割やサド裁判の経過などに触れた後、戯曲作品についての日本での本格的紹介に寄与したい思いが綴られている。
2. マン・レイ油彩《マルキ・ド・サドの想像的肖像》
全文を引き写すのが、展覧会を紹介する最善の方法であることは、痛いほど分かっているが、今しばらく、わたしのレビューにお付き合いいただきたい。この空間に足を踏み入れた時、サドの霊力にやられ、ときの忘れもののブログで報告せねばと思ってしまったのである。サドがマン・レイの精神的な師匠であることも原因のひとつであるだろう。──重複するが、貴族階級の頽廃に言及した後、テキストの筆者は「妻への手紙の中での抗弁」と補足しつつ以下の引用を行っている。
「私は犯罪者でもなければ人殺しでもなく、ひとりのリベルタンにしか過ぎない」
山本悍右が自身をリベルタンと呼んでいたので、わたし困ってしまったのです。テキストによれば「ドナスィアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド」。カタカナ表記の人名に暗闇が被り、忘れたいことばかりが二十歳頃の個人史から顔を出している。展示は手前ケースの発禁扱いを強いられた続編を含む『悪徳の栄え』帯付き二冊と訳者澁澤の肉筆原稿、加えて三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』を起点に、サド没後の20世紀を東京からパリへと遡る。

図11 サド『悪徳の栄え』澁澤龍彦訳(正・続)初版 (現代思潮社、1959年)、三島由紀夫『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年) 署名入り他

図12 澁澤龍彦肉筆原稿『新マルキ・ド・サド選集第二巻 悪徳の栄え』(桃源社)収録あとがき(1965年)他
その前に赤い表紙の大判雑誌『オブリック』特別号の頁に寄り道したい(本稿のために市内の古書店で廉価版を拝見させていただいた)。そこにはマン・レイが描いた油彩《マルキ・ド・サドの想像的肖像》再制作の複製図版が掲載されている。わたしのサドへの関心はマン・レイがピエール・ブルジャッドに語った(『マン・レイとの対話』松田憲次郎・平出和子訳、銀紙書房/水声社、1995年、88~99頁) 研究家モーリス・エーヌへの言及にあり、マン・レイのアトリエがあったカンパーニュ・プルミエール通りの建物の住人でもあったシュルレアリストのエーヌが、15メートルに及ぶ巻紙(昔のトイレットペーパー)にサドが書き込んだ『ソドム百二十日』を手に入れ、写真を撮ってもらいにきたのだと云う。成人したサドの肖像画がないことを嘆くエーヌに「では私がひとつ描きましょう」と請負った画家は既にサドの著作を知っていたと思うが調査は詳細を極め、ラ・コストの城は言うに及ばず、「サドの検死を担当した法医学者の報告書も読んだ」うえで「エレガントで、かつらをつけた正真正銘の貴族」の肖像を描いた。わたしは東京(1983年)とウィーン(2018年)でこの油彩を観たけれど、バスティーユの古びた壁石で出来た身体、誇張された右目、炎に包まれた牢獄、印象に残る素晴らしい作品だった。なによりも、油彩の下部に書き加えたサドの遺言の一節「……余の墓の跡が地表から見えなくなるようにしてほしい。人々の心から余の記憶が消し去られることを願うが故に」が、2019年に破壊されたマン・レイのモンパルナス墓地の惨状を予見したようで、わたしウルウルするのです。図版に使われた油彩はマン・レイがカリフォルニアに幽閉(?)された1940年の仕事、革命の炎は認められず、預言者サドの眼が印象深い。何を思い描いたのかと画家の境遇に感情移入。これでは前に進めません。
表紙を示す書物と展覧会で対面した時、想像力が頁を捲る。ここでも、同じように念じながら何か特別の書き込みがあるだろうかと、確認をせずにはいられなかった。持ち主が「無造作にオリジナルの写真が挟んであるだけですよ」と答えてくれても、人の手の痕跡がどこかにあるのではと、やはり足を止めてしまうのだった。

図13 下段左から: ジャン・ブノワ『サド侯爵の遺言執行式』案内状(1959年)、アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』(シモン・クラ書店、1924年)初版 ブルトン献呈署名入り、アンドレ・ブルトン篇『黒いユーモア選集』(サジテール社、1940年)初版 ジルベール・レリー旧蔵。上段左から: 雑誌『オブリック』サド特集12-13号特装版(ボルドリー出版、1977年)アンリ・マッケローニによるオリジナル写真など挿入、『シュルレアリスム国際展E.R.O.S』普及版カタログ(ダニエル・コルディエ画廊、1959年)、機関誌『シュルレアリスム革命』8号(1926年)他
さて、エフェメラ好きの小生は奥側のケースに惹かれる。先に口走った『シュルレアリスム宣言、溶ける魚』を筆頭に血の色が効果的に意識されている。乾いた血のルミノール反応にはブラックライトでの追跡が有効だけど、周到に用意された展示の効果が、知らぬまに図像解釈へと観る者を導く、招待状が投函される場面であるだろうし、陰部の写真が封入されているかもしれない。サインのあるものが絡みあい、関係者がサド侯爵の遺言状執行式に参列している場面が目に浮かぶ。住所からジョイス・マンスールのアパートがマルモッタン・モネ美術館の近くと分かるのですな。
3. 八丈島の玉石垣

図14 展示室(床)
床に貼り付いた『シュルレアリスム革命』の表紙やサドの書籍の中扉、繰り広げられる狂宴の場面にひざまずき侯爵に服従の印をひとつ、ふたつ。急死したエーヌの「忍耐強い研究とねばり強い情熱」を引き継いだのが先に写真が掛かっていると報告したジルベール・レリーだった。澁澤は「これまで私たちの知識の領域に入っていなかった多数の作品および資料を、最大の幸運に助けられつつ愛情と熱意をもって、私たちに手渡す用意をしているのだ」(前掲書『サド侯爵』342頁)と賛辞を送る。これは澁澤自身への自負につながると思える。羊歯齋文庫の主宰者への言葉としても引用できるだろう。ありがとう。感謝申し上げます。

図15 中央にジルベール・レリー写真(処:ラ・コスト城、1948年) 撮影者不詳

図16 展示室・正面壁 ハンス・ベルメール銅版画《サドに》(アトリエ ジョルジュ・ヴィザ、1961年)、伝サド侯爵夫人肉筆書簡サド宛(日付不明)他

図17 展示室・左壁面左から:金子國義、ピエール・モリニエ《セルフポートレイト》(1960年代)、デニス・ベロン『シュルレアリスム国際展E.R.O.S』会場写真(天井にマン・レイの油彩《処女》が認められる)、ジャン・ブノワ《ネクロフィリア》(1965年)、男性器解剖図(年代不詳)等。
2時間は経過しただろうか、怯えは喜びに変わっている。壁に掛けられた作品に合わせ身体をひねると、サドの気配に満たされた牢獄が外に向かって開かれているのに気付く。鉄格子の中から覗くと「貴方の方が幽閉されているのですよ」と諭される塩梅。主宰者は「鉄格子を自由の結界として設え」それを狙っていると、さらに説明を続けてくれた。
凡夫は置かれた物たちのオーラに反応したけど、主宰者は「京都であるから床飾りを意識し、段差の具合がラ・コスト城二階の『芝居上演の間』につながると感じたという(資料ファイルには1770年と記された間取図が挟まれている)」。そして、「やりたい事は、本を読んだ残像に満ちた空間の立ち上げ」。澁澤龍彦の世界が徹底されて開かれていたのである。ファンを自認する世の御仁たちの解釈なんぞは手ぬるい、これは40代に入ってから系統的に澁澤を読んだ主宰者の精神史に触れないと理解できない代物である。
生まれは八丈島と聞いた。異国的な風貌に土着性が加味された丈夫、饒舌なエネルギーがほとばしり、展示解説はとどまるを知らない。若い頃は数万人規模の観客動員を誇った展覧会の企画・会場構成を生業とし、ホワイトキューブ型展示と異なる独特のシュルレアリスム的空間を創り上げていた。澁澤への開眼もパリのある古書店が契機だったという。ここ10年は「シュルレアリスムに関する日仏間の文化交流の資料蒐集」の成果を中心に観賞者を絞った展示表現に隠遁者風の生活を捧げている。──と、先日、餃子と生ビールを楽しんだ新年会の席での話題を整理しておきたい。こちらも酔っ払っていたから、責任もてないけど(ハハ)。
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図18 展示室の住人
鉄格子の上に梟が止まっている。彼の獲物にわたしたちはなるのだろう、── 規模の大小は別として、生活の根幹を「夢想」においてしまった報いに怯える日々をわたしも送っていると自覚する。怖いですね。「何をたいそうに」と黄昏時の知性は酔っ払い同士の「シュルレアリスム論」を「ボロ着て奉公」とあざ笑う。そうであっても、前段の『MON SADE』第1章の経緯を尋ねずにはいられなかった。
島の景勝地、玉石垣に囲まれた古民家の一棟をサドの墓処に設える作業は、外壁墨液塗り、室内スケルトン、団栗の実を敷き詰め、祭壇に続く通路は白色で肉筆資料や貴重図書がケースに入れられている。この先に、今、京都で前にしている鉄格子がはめられ、厳かに、忘れるべき肉体の痕跡を置いたようである。おびただしい数の団栗の実は、展示に適すよう整えるのに三ヶ月を要したと聞く。
地元の友人の助けを借り設えた古民家の中で、サドの祥月命日を迎えたのは2014年、200年目の満月の夜10時。月明かりに恐ろしいほどのヤスデが集まり、サドが降臨したと実感。絶海孤島の流刑地故の「自由を奪われた中での表現行為」と石牢に閉じ込められたサドが通底する、ここに原点があったと主宰者。膨大な資金をつぎ込み東京からコンテナを仕立て設営する作業に駆り立てたものは南方の知の集積、海を渡った観者はわずか、実体験として語り告ぐ役割は設営側の数名に委ねられ、写真が残るのみ、だれも知らない。なんと素晴らしく、目眩に包まれる行為ではないか。第2章の会場で展示品の書誌的事項などに熱中している小生は、頭をがんとやられたわけである。二流のコレクターはつらい。

図19 頭部断面骨格標本(年代不詳)
丈夫は団栗を拾い、蒔く行為そのものが重要な表現だったと語るが、遺言の葬儀に関する指示には「ひとたび墓穴の蓋を閉めたら、その上に樫の実を蒔き、ふたたび土をかぶせ、以前のごとく墓穴の場所が叢林に覆われ」(前掲書『サド侯爵』313頁)とある。マン・レイの油彩下段で省略された「……」の文言が、これなのである。マン・レイの墓石を団栗の実が覆う日も近い。
4. ラ・コスト村の時計塔
別室で珈琲を頂戴し、ラ・コスト城を訪問した折のビデオを拝見した。若い夫婦が互いに撮り合い村の小路を進む。古い石畳の丸い感触がこちらにも伝わる。先程、裏面に仕込んだ光源との兼ね合いで不思議な面を見せた廃城が、蔦に絡み動いている(ように見える)。1977年に訪れた澁澤龍彦の『滞欧日記』を映像で追体験する感覚、珍しく日記で自身を「オレ」と呼んだ彼は「時計は裏へまわると見える」と記した。「草を摘んだ」特別に感動的な一日だったようで、彼の写った背景を凡夫は追ってしまった。書物に残ったイメージの中を歩くとは、若い夫婦にとっても生涯に残る記念すべき日ではなかったか。わたしは村の時計塔を見上げ、ビデオの停止をお願いしながら、鐘は鳴り響いたのだろうかと、指し示す時間を記憶した。
さて、羊歯齋文庫での訪問は3時間を超えた。エーヌの許からノアイユ子爵夫妻に移ったサドの草稿『ソドム百二十日』の流転にまつわる古書業界の裏話をお聞きする。オークションに出品され10億円に近い値がつくとされたが、今では先買権がらみでフランスの国宝になったとか。現物を観ているから「これが欲しかった」と主宰者は笑っておられる。
八丈島に続き、20世紀のサドに関する文献資料をコンプリートしたこの人は、2017年に東京で「サドはサディスムにおいてシュルレアリストである」と題する展覧会を開催。さらに、京都で「私のサド」第2章を開催するよう迫ったのは、持ち帰った団栗たちの声。鉄格子のこちら側で出自への問いかけが続く……。
盆地の底冷えが石牢のように忍び込む部屋で一人眠る偉大なコレクター氏に去来する「夢」は、東南の島に繋がっていると思える。「人工物は朽ち果て、やがて自然に帰る」と、新しいブロジェクトを語るのだった

図20 展示室(鉄格子の鍵)
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図21 ラ・コスト村の時計塔、鐘つき塔。
今回のレビュー出稿は展覧会が終わったタイミングになってしまった。取材に協力いただきながら守れなかったのはわたしの遅筆が原因、お読みいただいた皆様に心よりお詫び申し上げる。
(いしはら てるお)
●本日のお勧め作品は、ジョナス・メカスとマン・レイです。
ジョナス・メカス「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」1983年
シルクスクリーン
37.0×51.0cm
Ed.75 サインあり
マン・レイ「自画像」1972年
リトグラフ
19.7×15.6cm
額装サイズ:57.5×43.5cm
Ed.100 (E.A.) サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。
映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
制作年:1963~2014年
合計再生時間:1,262分
価格:
Blu-Ray→18,000円(税込)
DVD →15,000円(税込)
※2023年8月現在の価格となります。
商品の詳細については、2023年3月4日ブログをご参照ください。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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