今日は画廊はもちろん開いていますが(16日まで無休)、亭主は楽器片手に高崎へ。
高校生たちとの合同練習も今日、明日、そして本番前日の16日とあと3回しかない。
15日は「生誕100年記念 瑛九展」のオープニング出席のため、空路宮崎へ。
16日早朝、宮崎から帰京して、そのまま高崎へ。最後の練習に参加。
17日は高崎でTMOの第44回定期演奏会に出演。
遊んでばかりではありません。この間にしなけりゃならない仕事が山ほどある。
第一、稼がねばならぬ。
どうしてこんなに忙しいのか。
仕事の量も、雑用もそんなに増えていない、どころか数年前に比べれば格段に減っているはずなのにどうしたことか。
おそらく、気持ちに体がついていかないのだ。
先日60ン回目の誕生日を迎えたことをご報告しましたが、情けないことであります。
昨日は山田陽さんが昼過ぎから在廊され、ちょうど訪れた作家の永井桃子さんや井桁裕子さんとニューヨークや出品作品について話し込まれていました。
夕方には久しぶりに宮脇愛子先生がいらっしゃいました。
来年6月に計画している展覧会の打合せを行ない、8月の名古屋のアートフェアに出品する真鍮彫刻を納める桐箱に署名をしていただきました。
近く台湾に新たに竣工するビルの前庭に「うつろひ」彫刻が設置されるとのこと。
コンペを勝ち抜き、数年がかりで準備した作品で、その設置のために台北に行かれるとのことです。
80歳を超え、この闘志。亭主も愚痴ばかり言ってては駄目ですね。

さて、ご紹介しようと思いながら、ついつい遅くなってしまい、気づいたら明日が最終日となってしまいました。

コレクション展「こどもの情景-戦争とこどもたち」
会場:東京都写真美術館
会期:2011年5月14日 ( 土 ) ~ 7月10日 ( 日 )
こどもの情景

こどもの情景_裏

東京都写真美術館のコレクション展は、年間を通じたテーマを設定し、収蔵作品約2万6000点から選りすぐられた名品の数々で構成されています。
「こどもの情景-戦争とこどもたち」では、フォト・ジャーナリズムの全盛期であった戦中から戦後の時代を中心に、W.ユージン・スミス、ロバート・キャパ、土門拳、石川文洋をはじめとする国内外のドキュメンタリー写真家たちがこどもたちへ向けたまなざしをたどり、優れた写真作品が時代に生きる希望や共感を与えた姿を鮮やかに描き出します。
戦争をテーマにした写真には、写真成立の大前提である「撮影者」「被写体」「時間」「場所」という条件に加え、歴史的な情報や写真表現のあり方など、様々な要素が何層にも重なります。そうした複雑な情報を頭で考えるよりも先に、「こども」が放つ力強さは、見る者を無条件に作品の中へと導きます。生きる象徴としての「こども」という被写体の特徴が、「戦争」の中で際立って感じられる内容です。(同館、ホームページより引用)

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長倉洋海《生まれたばかりの赤ん坊を取り囲む難民の子供たち》1982年、東松照明《姉妹》1955年、熊谷元一《コッペパンをかじる》「小学一年生」より1953年、東松照明《水上小学校(1)》「水上小学校」より1956年、長野重一《東ベルリン・砲台の跡でロケット遊びをする子供》「ベルリン・東と西と」より1960年、石井幸之助《戦災孤児 九州君》1946年、影山光洋《小麦の収穫祝、家族の肖像》1946年らに混じり、ジョナス・メカスさんの「 写真を撮るウーナ、1977年<いまだ失わざる楽園>あるいは<ウーナ3歳の年>《静止した映画フィルム》より」が出品されています。

ジョナス・メカスさんは、ときの忘れものが開廊以来(遡れば1983年以来)最も大切にしている作家ですが、つい最近もみすず書房から『メカスの難民日記』(飯村昭子訳)が刊行されたばかりです。
その出版記念もかねて、久しぶりにジョナス・メカス展をこの秋に計画しています。
ご存知のようにメカスさんは、故郷リトアニアをソ連、ドイツに相次いで占領され、強制収容所そして難民キャンプを転々とする生活を経て1949年、アメリカに亡命します。
リトアニアでは詩人そして新聞や文学雑誌の編集に携わっていましたが、渡米後、言葉も通じないブルックリンで機械工や清掃員などの仕事をする傍ら、一台の16ミリ・カメラを手にします。そして、自分の住む場所やリトアニア系移民の日々の生活を日記のように撮り始めます。その後は、詩人として、そして戦後アメリカのインディペンデント映画や実験映画をリードした映像作家として映画を志す若い人々に大きな影響を与えています。
メカスさんは、日常的な記録の断片を集積し、再構成する独特のスタイル「日記映画」の創始者であり、独特の言葉の響きをもつナレーションや、選択された音楽の効果、それらが相まって醸し出されるメランコリックでノスタルジックなニュアンスに富む映像は、他にはない魅力を放っています。
映像に写し出される人々は、メカスさんの家族や友人達ですが、観客にとっても、かけがえのない肉親なのではないかと思わせます。粗い粒子の画面のなかで、笑ったり踊ったりする人々はとても愛しく、彼等を愛してしまうことを止められません。郷愁、愛情、魂、どんな言葉を使っても観客が感じてしまう心の動きを伝えることは不可能に思えます。胸を切り裂き、何かを感じて脈打つ心臓を、ここに差し出してみせるしかないのかもしれません。
2005年メカス展リトアニア大使館員
2005年10月、ときの忘れものにて
メカスさんと一緒に写っているのはリトアニア大使館の文化担当官とそのお嬢さん。

メカスさんの映像作品、またそれを素材にした版画作品や写真作品には「子供たち」がたくさん登場します。
ウーナ・メカス5歳(シルク)ジョナス・メカス
ウーナ・メカス5才
猫とホリス(母)の前でヴァイオリンの稽古 1979

1983年 シルクスクリーン
53.0×37.5cm Ed.75
サインあり

メカス「京子」シルクジョナス・メカス
京子の7才の誕生日(オノ・ヨーコの愛娘)1970
1983年 シルクスクリーン
36.5×24.0cm Ed.75
サインあり

ウーナ・メカスはメカスさんのお嬢さんです。
京子というのはオノ・ヨーコさんのお嬢さんですが、子供のときにオノさんの前夫に連れ去られたまま行方不明になってしまった。
そういう背景を知らなくても画面から哀しみのようなものが漂ってくるのが不思議です。

1983年、亭主が依頼した版画作品(上掲の2点はそのときのエディション)がきっかけで、メカスさんは自ら撮影した16mmフィルムから、3コマ程度の部分を抜粋し、写真として焼きつけるシリーズを「静止した映画フィルム」と名づけ、次々と写真の連作を発表します。

中でも「this side of paradise」シリーズの元になった映像は、1960年代末から70年代始め、ジョン・F・ケネディの未亡人であったジャッキー・ケネディに請われ、子息のジョン・ジュニアやキャロラインといとこたちに映画を教えていた時期に撮影されたフィルムです。
悲劇的な父親の死から程ない頃、父親のいない暮らしに慣れるまでの、心の準備が少しでも楽にできるよう、子供たちが何かすることをみつけてやりたいと考えたジャッキーが、子供たちに美術史を教えていたピーター・ビアードを通じて、メカスに頼みました。アンディ・ウォーホルから借り受けたモントークの古い家で、ジャッキーとその妹家族、子供達、メカス、週末にはウォーホルやビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々の、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。

大統領夫人がポップアートの作家の別荘を借り、実験映画のアーティストたちを家庭教師に頼み、子供達とひと夏をモントークで過ごす。ある家族の日常に記録ですが、それがそのまま60~70年代のアメリカを象徴する映像となっている。

「それは友と共に、生きて今ここにあることの幸せと歓びを、いくたびもくりかえし感ずることのできた夏の日々。楽園の小さなかけらにも譬えられる日々だった。」   
                   ジョナス・メカス


映画と写真の中間領域に位置するような、この興味深い試みは、湧き出る水のように豊かなイメージを語りかけてくれます。

メカス「パラダイス」より01ジョナス・メカス
「this side of paradise」より01
2000年
Type-Cプリント
30.0×20.0cm
Ed.10 サインあり

メカス「パラダイス」より02ジョナス・メカス
「this side of paradise」より02
2000年
Type-Cプリント
30.0×20.0cm
Ed.10 サインあり

メカス「パラダイス」より03ジョナス・メカス
「this side of paradise」より03
2000年
Type-Cプリント
30.0×20.0cm
Ed.10 サインあり

ジョナス・メカスさんの作品はいつでも画廊でご覧になれます。
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