磯崎新『栖十二』より第七信コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸]
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第七信はコンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸]です。
磯崎新「栖十二」第七信パッケージ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画21》
コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画22》
コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画23》
コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
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第七信・事務局連絡
一九九九年三月一〇日水戸市・水戸五軒町郵便局より発送
昨年の暮から御無沙汰してしまいました。第七信です。
磯崎さんは海外での仕事と旅が二重三重にかさなってしまい、その仕事と旅に、さらにひどい風邪がかさなり、とはいえ一方では版画の新作展(奈良・西田画廊、東京・スカイドア・アートプレイス青山、東京・ときの忘れもの)が無事オープン、数日前の夕刊にはフィレンツェ、ウフィツィ美術館エントランスの国際設計競技に磯崎新氏が最優秀賞、のニュースが報道されていました。
そんなあわただしい日々を縫って、銅版画とスケッチ、書簡が届けられました。私たちもお礼とお見舞いとお祝いと、あわただしい対応になりました。
今後は思わぬ出来事がなければ、後半のエッチングと書簡が楽しみになってきます。
予定外のことがもうひとつ。今回は当初の『栖』のリストになかった、コンスタンティン・メルニコフの自邸が登場しました。では残ったなかからひとつ、どれをはずすかということで磯崎さんも思案中ですが、その結果もまた楽しみです。古今東西の数ある住宅から一二を絞りこむ作業がさらにシビアになってきたわけですから。
メルニコフ邸は、前回にも触れた東京都現代美術館での「建築の二〇世紀」展において、アイリーン・グレイのE一〇二七と同じセクションに入っていました。第六部「最小と最大:一九二〇年代と一九三〇年代の大規模集合住宅と邸宅」においてです。この企画展は出品カタログがないので会場でメモしておいたのを見ると、ル・コルビュジェのヴィラ・ガルシュ、ヴィラ・サヴォア、ライトの落水荘、ミースのチューゲントハット邸、リートフェルトのシュレーダー邸、ロースのモラー邸、シンドラーの自邸、ノイトラのロヴェル邸、アールトのヴィラ・マイレア、集合住宅ではタウトのブリッツ・ジードルング、コルのエスプリ・ヌーボー館、ギンスブルグのドム・オルコムフィン、テラーニのノヴォコムン。そして堀口捨己の岡田邸がひっそりと加わっていました。それにまじって、メルニコフ邸は、小さいながらもカッチリとした模型が印象的でした。
ついでに、戦後という切り口においては、第二〇部「実験室としての住宅」がこれに対峙していたことをつけ加えておきます。こちらは一九四〇年代から九〇年代を一気に駆けぬけるような巾広さで、アマンショ・ウィリアムスの住宅、ミースのファンスワース邸、イームズ邸から始まり、ガフ、ラウトナー、ヴェンチューリ、マイヤー、菊竹清訓「スカイハウス」、磯崎新「九つのヴィッラ」、篠原一男「白の家」、安藤忠雄「住吉の長屋」、伊東豊雄「シルバーハット」、さらにはゲーリー、エリック・オーエン・モス、コレア、ミラーレス、モーフォシス、ドメニクまでの住宅を見通しているわけです。このような公式的見解(?)にのっとった古典的名作のセレクションと、磯崎さんの一見きわめて私的に思える『栖十二』のセレクションとの間の、重なりとズレを見てみることは、二〇世紀における住宅建築の役どころをいろいろと考える上で、多角的な視点を得られそうです。
メルコニフ邸については、二川幸夫さんのところで編集の仕事をしていたとき、この住宅を取材撮影してきた関谷正昭さんの話をききながら写真選別やレイアウトをしたこともあって私としては思い出深いのですが、モスクワのクリヴォアルバツキー通り(Krivoarbatskii Pereulok, Moscow)に建っているメルニコフ邸に向けて三脚を立て、カメラを据えたその時点で、たちまち警察がやってきて訊問を受けた。横にノボースチ通信社の社員が立ち会ってくれていたにもかかわらず、誰かが早速通報したらしい。今から二〇年前のことですが、この時は息子のヴィクトール・メルニコフが住んでいて、父の友人ミカイル・ギューセブが建設現場の総監督を引き受けてくれたとか、資材不足の当時ゆえに、廃れた建物から屑煉瓦を集めてきて内外壁の隙間の充填に役立てたとかいった思い出話をしています。コンスタンティンは社交好きで、家にはいつも建築家はもとより芸術家や役者の友人知人が訪ねてきて、音楽会や舞踏会を楽しんだといいます。幼少年時代の息子が生活していた邸宅と、その五〇年後に市民が見ている邸宅とのあいだには、すでにちぐはぐな印象がつきまといます。
磯崎さんが書かれているように、二本のシリンダーを「結びつけるのではなく、衝突を起こさせ」てつくったこの建築は、一階および二階の半分に食事、サービス、就寝の場がとられ、二階の残る片方は天井が二層分の高さの居間、三階は同じヴォリュームのアトリエ空間が、二階居間とスプリット・フロア状に相対している。居間の真上は屋上テラスです。
この住宅を、磯崎さんがモスクワ市内で捜し当てられなかったというエピソードを、冬のヴェネツィアの一部屋で手紙に書き記している。という第七信です。そのヴェネツィアはブロツキーの本に託されているために、すべては闇と霧と影(今回の新作版画がこの三つのモチーフでつくられています)のなかにしかない。そこで想起しているメルニコフ邸が実体ではなく、コンセプトとして浮かびあがってくる所以です。
これまでに六つの栖を語りながら、自分の建築に直接には結びつけることがなかった磯崎さんがはじめて、メルニコフほか、一九二〇年代のロシア・アバンギャルドの建築家の仕事と自分の建築との、影響関係ではない、何か本来的な通底に言及しているのは興味深い。「私が限りない愛着をもつ理由」と書きながら、決して私的な告白に終わっているわけではないことは、書簡を熟読するとよく分かってくる。建築の根本原則に触れています。私にとってはこの書簡は、今後も折りに触れ読み返すべきテキストになりそうです。
エッチングを前にして、
綿貫「この図柄は外観ですから、インターナル・スケープとしてはどうですかね」
磯崎「門を入れば、まあ内側だからね」
苦しい言い訳かどうかはとにかく、他は知らずこの邸宅なら、ある時代にはまるごとインターナル・スケープになってしまっていた。その時代状況も書簡に活写されています。(文責・植田)
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植田実さんの文章にあるように、前回第六信の発送が、1998年12月16日、第七信の発送は翌1999年3月10日でした。
順調にきていた『栖十二』プロジェクトですが、第六信から第七信まで約三ヶ月あいてしまいました。
しかし、体調不全や海外出張などの多忙をよそに、磯崎先生の原稿執筆、版画制作のペースは驚くばかりのハイペースで、何とこの間、『栖十二』とは全く別の新作版画群の制作が進行していました。
「なら100年会館」をモチーフにした<闇>のシリーズ、
「秋吉台国際芸術村」をモチーフにした<霧>のシリーズ、
そして「ティーム・ディズニー・ビルディング」をモチーフにした<影>のシリーズ、計12点の大型版画の連作です。
それらの発表展「磯崎新 新作版画展」が全国各地で開催されました。
奈良・西田画廊 1999年1月31日~2月28日
東京・スカイドア(版画) 1999年2月22日~3月6日
東京・ときの忘れもの(水彩) 1999年2月22日~3月6日
大阪・番画廊 1999年3月15日~3月20日
盛岡・MORIOKA第一画廊 1999年3月29日~4月9日
旭川・梅鳳堂 1999年4月28日~5月31日
久留米・筑後画廊 1999年7月2日~7月18日
仙台・ギャラリー青城 1999年7月28日~8月9日
今振り返ると、恐ろしいばかりの多忙な日々でしたが、作品が次々と生まれてくる現場に立ち会うことの嬉しさをかみしめていました。
「磯崎新 新作版画展」の奈良と東京の様子をお伝えしましょう。

奈良・西田画廊にて「磯崎新 新作版画展」開催。オーナーの西田さんは1982年に『堀内正和・磯崎新展』で開廊したほどの磯崎ファンでもちろん『栖十二』の書簡受取人のお一人です。

竣工した磯崎新設計「なら100年会館」
奈良・西田画廊「磯崎新 新作版画展」オープニング。

1999年2月22日:東京・青山のスカイドアとときの忘れものの二会場で「磯崎新 新作版画発表展」を開催。スカイドアでのオープニングパーティ。中央に植田実さん。
左は芦原義信さん、右の椅子に座っているのは辻邦生さん。
左は奥井新一さん、『栖十二』書簡受取人・限定番号一番の方で、磯崎版画のほとんどを所蔵する大コレクターでした。
磯崎新先生(左)とギューちゃんこと篠原有司男さん。
磯崎新先生と岡本敏子さん、右は瀬木慎一さん。
左に磯崎アトリエの網谷淑子さん、40年にわたり磯崎先生の秘書を務め、版画プロジェクトの協力者でもありました。
左から二人目後ろ姿が植田実さん、六角鬼丈さん、宮脇愛子さん、槙さん、辻邦生さん。
左から宮脇愛子さん、辻邦生さん、谷口吉生さん、槙文彦さん。
書簡受取人はじめ、美術や建築をめぐる多くの人たちが集まりました。
亭主と石田了一さん(シルクスクリーンの刷り師)ご夫妻。
左から辻佐保子さん、磯崎新先生、藤江秀一さん(磯崎先生の右腕)。
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1999年3月8日遅れていた第七信の発送準備作業。壁面には前々日6日まで開催していた磯崎新展の水彩作品がまだ展示されたままでした。
翌3月9日、35通の『栖十二』第七信が完成。

磯崎新設計「水戸芸術館」のタワーの前で。

書簡受取人のお一人寺下さんは自分宛の書簡を含む35通を担いでたびたび無償労働してくださいました。感謝!。
1999年3月10日水戸五軒町郵便局より発送。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは、2011年12月16日[金]―12月29日[木]「磯崎新銅版画展 栖十二」を開催しています(会期中無休)。

磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げたオマージュとして、12軒の栖を選び、描いた銅版画連作〈栖十二〉全40点を出品、全て作家自身により手彩色が施されています。
この連作を企画した植田実さんによる編集註をお読みください。
参考資料として銅版原版や書簡形式で35人に郵送されたファーストエディションも展示しています。
住まい学大系第100巻『栖すみか十二』も頒布しています(2,600円)。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第七信はコンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸]です。
磯崎新「栖十二」第七信パッケージ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画21》コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画22》コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
磯崎新〈栖 十二〉第七信より《挿画23》コンスタンティン・メルニコフ[メルニコフ自邸] 1927年 モスクワ
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第七信・事務局連絡
一九九九年三月一〇日水戸市・水戸五軒町郵便局より発送
昨年の暮から御無沙汰してしまいました。第七信です。
磯崎さんは海外での仕事と旅が二重三重にかさなってしまい、その仕事と旅に、さらにひどい風邪がかさなり、とはいえ一方では版画の新作展(奈良・西田画廊、東京・スカイドア・アートプレイス青山、東京・ときの忘れもの)が無事オープン、数日前の夕刊にはフィレンツェ、ウフィツィ美術館エントランスの国際設計競技に磯崎新氏が最優秀賞、のニュースが報道されていました。
そんなあわただしい日々を縫って、銅版画とスケッチ、書簡が届けられました。私たちもお礼とお見舞いとお祝いと、あわただしい対応になりました。
今後は思わぬ出来事がなければ、後半のエッチングと書簡が楽しみになってきます。
予定外のことがもうひとつ。今回は当初の『栖』のリストになかった、コンスタンティン・メルニコフの自邸が登場しました。では残ったなかからひとつ、どれをはずすかということで磯崎さんも思案中ですが、その結果もまた楽しみです。古今東西の数ある住宅から一二を絞りこむ作業がさらにシビアになってきたわけですから。
メルニコフ邸は、前回にも触れた東京都現代美術館での「建築の二〇世紀」展において、アイリーン・グレイのE一〇二七と同じセクションに入っていました。第六部「最小と最大:一九二〇年代と一九三〇年代の大規模集合住宅と邸宅」においてです。この企画展は出品カタログがないので会場でメモしておいたのを見ると、ル・コルビュジェのヴィラ・ガルシュ、ヴィラ・サヴォア、ライトの落水荘、ミースのチューゲントハット邸、リートフェルトのシュレーダー邸、ロースのモラー邸、シンドラーの自邸、ノイトラのロヴェル邸、アールトのヴィラ・マイレア、集合住宅ではタウトのブリッツ・ジードルング、コルのエスプリ・ヌーボー館、ギンスブルグのドム・オルコムフィン、テラーニのノヴォコムン。そして堀口捨己の岡田邸がひっそりと加わっていました。それにまじって、メルニコフ邸は、小さいながらもカッチリとした模型が印象的でした。
ついでに、戦後という切り口においては、第二〇部「実験室としての住宅」がこれに対峙していたことをつけ加えておきます。こちらは一九四〇年代から九〇年代を一気に駆けぬけるような巾広さで、アマンショ・ウィリアムスの住宅、ミースのファンスワース邸、イームズ邸から始まり、ガフ、ラウトナー、ヴェンチューリ、マイヤー、菊竹清訓「スカイハウス」、磯崎新「九つのヴィッラ」、篠原一男「白の家」、安藤忠雄「住吉の長屋」、伊東豊雄「シルバーハット」、さらにはゲーリー、エリック・オーエン・モス、コレア、ミラーレス、モーフォシス、ドメニクまでの住宅を見通しているわけです。このような公式的見解(?)にのっとった古典的名作のセレクションと、磯崎さんの一見きわめて私的に思える『栖十二』のセレクションとの間の、重なりとズレを見てみることは、二〇世紀における住宅建築の役どころをいろいろと考える上で、多角的な視点を得られそうです。
メルコニフ邸については、二川幸夫さんのところで編集の仕事をしていたとき、この住宅を取材撮影してきた関谷正昭さんの話をききながら写真選別やレイアウトをしたこともあって私としては思い出深いのですが、モスクワのクリヴォアルバツキー通り(Krivoarbatskii Pereulok, Moscow)に建っているメルニコフ邸に向けて三脚を立て、カメラを据えたその時点で、たちまち警察がやってきて訊問を受けた。横にノボースチ通信社の社員が立ち会ってくれていたにもかかわらず、誰かが早速通報したらしい。今から二〇年前のことですが、この時は息子のヴィクトール・メルニコフが住んでいて、父の友人ミカイル・ギューセブが建設現場の総監督を引き受けてくれたとか、資材不足の当時ゆえに、廃れた建物から屑煉瓦を集めてきて内外壁の隙間の充填に役立てたとかいった思い出話をしています。コンスタンティンは社交好きで、家にはいつも建築家はもとより芸術家や役者の友人知人が訪ねてきて、音楽会や舞踏会を楽しんだといいます。幼少年時代の息子が生活していた邸宅と、その五〇年後に市民が見ている邸宅とのあいだには、すでにちぐはぐな印象がつきまといます。
磯崎さんが書かれているように、二本のシリンダーを「結びつけるのではなく、衝突を起こさせ」てつくったこの建築は、一階および二階の半分に食事、サービス、就寝の場がとられ、二階の残る片方は天井が二層分の高さの居間、三階は同じヴォリュームのアトリエ空間が、二階居間とスプリット・フロア状に相対している。居間の真上は屋上テラスです。
この住宅を、磯崎さんがモスクワ市内で捜し当てられなかったというエピソードを、冬のヴェネツィアの一部屋で手紙に書き記している。という第七信です。そのヴェネツィアはブロツキーの本に託されているために、すべては闇と霧と影(今回の新作版画がこの三つのモチーフでつくられています)のなかにしかない。そこで想起しているメルニコフ邸が実体ではなく、コンセプトとして浮かびあがってくる所以です。
これまでに六つの栖を語りながら、自分の建築に直接には結びつけることがなかった磯崎さんがはじめて、メルニコフほか、一九二〇年代のロシア・アバンギャルドの建築家の仕事と自分の建築との、影響関係ではない、何か本来的な通底に言及しているのは興味深い。「私が限りない愛着をもつ理由」と書きながら、決して私的な告白に終わっているわけではないことは、書簡を熟読するとよく分かってくる。建築の根本原則に触れています。私にとってはこの書簡は、今後も折りに触れ読み返すべきテキストになりそうです。
エッチングを前にして、
綿貫「この図柄は外観ですから、インターナル・スケープとしてはどうですかね」
磯崎「門を入れば、まあ内側だからね」
苦しい言い訳かどうかはとにかく、他は知らずこの邸宅なら、ある時代にはまるごとインターナル・スケープになってしまっていた。その時代状況も書簡に活写されています。(文責・植田)
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植田実さんの文章にあるように、前回第六信の発送が、1998年12月16日、第七信の発送は翌1999年3月10日でした。
順調にきていた『栖十二』プロジェクトですが、第六信から第七信まで約三ヶ月あいてしまいました。
しかし、体調不全や海外出張などの多忙をよそに、磯崎先生の原稿執筆、版画制作のペースは驚くばかりのハイペースで、何とこの間、『栖十二』とは全く別の新作版画群の制作が進行していました。
「なら100年会館」をモチーフにした<闇>のシリーズ、
「秋吉台国際芸術村」をモチーフにした<霧>のシリーズ、
そして「ティーム・ディズニー・ビルディング」をモチーフにした<影>のシリーズ、計12点の大型版画の連作です。
それらの発表展「磯崎新 新作版画展」が全国各地で開催されました。
奈良・西田画廊 1999年1月31日~2月28日
東京・スカイドア(版画) 1999年2月22日~3月6日
東京・ときの忘れもの(水彩) 1999年2月22日~3月6日
大阪・番画廊 1999年3月15日~3月20日
盛岡・MORIOKA第一画廊 1999年3月29日~4月9日
旭川・梅鳳堂 1999年4月28日~5月31日
久留米・筑後画廊 1999年7月2日~7月18日
仙台・ギャラリー青城 1999年7月28日~8月9日
今振り返ると、恐ろしいばかりの多忙な日々でしたが、作品が次々と生まれてくる現場に立ち会うことの嬉しさをかみしめていました。
「磯崎新 新作版画展」の奈良と東京の様子をお伝えしましょう。

奈良・西田画廊にて「磯崎新 新作版画展」開催。オーナーの西田さんは1982年に『堀内正和・磯崎新展』で開廊したほどの磯崎ファンでもちろん『栖十二』の書簡受取人のお一人です。
竣工した磯崎新設計「なら100年会館」
奈良・西田画廊「磯崎新 新作版画展」オープニング。
1999年2月22日:東京・青山のスカイドアとときの忘れものの二会場で「磯崎新 新作版画発表展」を開催。スカイドアでのオープニングパーティ。中央に植田実さん。
左は芦原義信さん、右の椅子に座っているのは辻邦生さん。
左は奥井新一さん、『栖十二』書簡受取人・限定番号一番の方で、磯崎版画のほとんどを所蔵する大コレクターでした。
磯崎新先生(左)とギューちゃんこと篠原有司男さん。
磯崎新先生と岡本敏子さん、右は瀬木慎一さん。
左に磯崎アトリエの網谷淑子さん、40年にわたり磯崎先生の秘書を務め、版画プロジェクトの協力者でもありました。
左から二人目後ろ姿が植田実さん、六角鬼丈さん、宮脇愛子さん、槙さん、辻邦生さん。
左から宮脇愛子さん、辻邦生さん、谷口吉生さん、槙文彦さん。
書簡受取人はじめ、美術や建築をめぐる多くの人たちが集まりました。
亭主と石田了一さん(シルクスクリーンの刷り師)ご夫妻。
左から辻佐保子さん、磯崎新先生、藤江秀一さん(磯崎先生の右腕)。ーーーーーーーーーーーーー

1999年3月8日遅れていた第七信の発送準備作業。壁面には前々日6日まで開催していた磯崎新展の水彩作品がまだ展示されたままでした。
翌3月9日、35通の『栖十二』第七信が完成。
磯崎新設計「水戸芸術館」のタワーの前で。

書簡受取人のお一人寺下さんは自分宛の書簡を含む35通を担いでたびたび無償労働してくださいました。感謝!。
1999年3月10日水戸五軒町郵便局より発送。こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは、2011年12月16日[金]―12月29日[木]「磯崎新銅版画展 栖十二」を開催しています(会期中無休)。

磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げたオマージュとして、12軒の栖を選び、描いた銅版画連作〈栖十二〉全40点を出品、全て作家自身により手彩色が施されています。
この連作を企画した植田実さんによる編集註をお読みください。
参考資料として銅版原版や書簡形式で35人に郵送されたファーストエディションも展示しています。
住まい学大系第100巻『栖すみか十二』も頒布しています(2,600円)。
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