具体派Gコレクションの企画について
2013年2月 石山修武
Gコレクションと、ときの忘れものギャラリーを結びつけたのは、2002年に姿を消した毎日新聞記者、佐藤健であった。名物記者であり数々の業績を残した。ときの忘れものの主宰者、綿貫不二夫さんは元毎日新聞の経歴の持主だ。佐藤が自身の死を覚悟しての最後の旅、シルクロードへはわたくしも同行した。自業自得大明王の戒名の位牌を彼は鳴沙山の砂漠で自慢した。その戒名の実現に努力した僧侶が馬場昭道であった。僧侶の知合いにGコレクションのオーナーが居た。それで今度の具体派Gコレクション展が実現した。戒名の方はいかがなんでも明王の上に大をつけるのは問題であろうと大向こうから諭されて、プライベートな位牌だけが、今、佐藤の書庫であった酔庵にひっそりと在る。2013年春にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で具体派の大展覧会が開催されるが、わたくしが佐藤との縁やらもあり企画監修することになったこのGコレクション展は、その日本での小さくとも同時開催展になり得るように考えた。これも又、仏教的神道的儒教的混沌としたカオスのなかの縁、すなわち極細の蜘蛛の糸としか言えぬ人間関係により、具体派の芸術家たちとはお目にかかることができた。四角四面の重箱づくりの建築稼業のなかに大半は身を置くわたくしにとっては、皆さん、眼が点ならぬミクロコスモスになりっ放しの怪人ばかりであった。東京を拠点とした同時期の実験工房の山口勝弘先生には色々と教示を受けてきたが、彼等の律儀で合理性を帯びさせようとした創作方法とは真反対な、それこそ良く言えば自由、悪く言えば出鱈目振りは実にまぶしいばかりの輝きを持つようではあったが、あんまり良いと言いつのれば、わたくしの四角四面の職業柄おもわしくないことも起きそうで、ひた隠しにしてきた。
が、しかし、どうしてこんなに真っ当で自由で、それこそ芸術らしいのだろうとは思い続けてきたのである。
1970年の大阪万博の、お祭り広場と岡本太郎の太陽の塔の実現は、日本の現代美術にとってひとつの画期であった。このお祭り広場の主役であるべきであった民衆の祭りは影も形も、結局見せようとはしなかった。有り体に言えば磯崎新の最初の挫折であったのだが、磯崎は当時、大阪の具体の連中に対して、あの広場で暴れろとアジッたと聞く。よくよく調べてみたら、太郎の太陽の塔のモデルらしきの、磯崎の六体の百メートルほどの着せ替え人形ロボットのスケッチも残っている。国籍不明のカーニバルもどきがイメージされていた可能性がある。予算やら何やらの不自由もあり具体派の連中の具体祭りも、彼等本来の破天荒振りも充分表現されるに至らなかた。
歴史にもしもは禁句だけれど、芸術は特に現代芸術はそのもしもの本来は連続であろう。もしもあの六体の着せ替えカーニバルロボットがうごめき、もしも具体派の大カーニバル、白髪一雄の空中ブランコ群が実現していたらと、呵々大笑の白昼夢さえ出現する。
あまり大言壮語は小さなときの忘れものギャラリーには納まり切らぬであろうが、その白昼夢のカケラは少なくとも皆さんは感得されるだろう。3.11の津波、原発事故の後には何も無いとは言いたくないだろう。
ひとときならぬ異形の断片を楽しんでいただきたい。おそらくニューヨークでもWTC崩壊のキノコ雲の後の虚無に芸術の本来の可能性の在り方が示されてもいる。
(いしやま おさむ)
「具体 Gコレクションより」
会期=2013年3月15日[金]―3月30日[土](無休)
企画・監修=石山修武
出品:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高﨑元尚、鷲見康夫、他
*画廊亭主敬白
画廊亭主敬白ならぬ軽薄のきわみといわれても仕方ありませんが、明日3月15日より開催する「具体 Gコレクションより」の企画がもちあがったのはつい先日、昨年12月のことでした。
突如「松本竣介展」の会場にあらわれた石山修武先生の否も応もない「やれ」の一言で嵐のような日々が始まりました。
出品作品の選定、交渉、五月雨式にぽつりぽつりと送られてくる作品の撮影、出品リストの定まらぬ中でのカタログの編集、狭い画廊空間での展示プランの作成など、綱渡り状態で進行する中、見切り発車で珍しく雑誌にも広告を打ちました。
案の定、広告に使った作品は不出品(トホホ・・・)。ハラハラドキドキの三ヶ月でしたが、石山研究室あげの応援もあり、短期間のうちに展覧会が実現にこぎつけられたのは幾多の修羅場を潜り抜けてきた建築家・石山修武先生の腕力あってのことでした。
気弱な亭主ではとっくに頓挫していたでしょう。

展示の打合せをする左から亭主、石山先生、展示担当の浜田さん
二転三転の出品リストはまさに「直しても直しても混沌」。

石山修武
「登っても登っても混沌」
2004年
銅版・手彩色
28.0×22.0cm
Ed.5(Ⅰ/Ⅴ~Ⅴ/Ⅴ)
石山先生がなぜ、場末の貧乏画廊に「具体展」の開催を持ちかけたのか今もって不明ですが、開催にいたる石山先生の思考の跡は膨大な「世田谷村日記」を読んでいただくしかありません。
上掲の石山先生の文中にある佐藤健さんは亭主の毎日新聞時代の二、三期先輩の花形記者でした。社での付き合いはほとんどなく、毎夜社員の溜り場になっていた飯田橋の地獄の「憂陀」という酒場での飲み仲間というか、健さんはほとんどカウンターの中の人でした。金森さん、関さんというこの酒場のオーナーについては先日伊豆の長八美術館の項で書きましたが、野間宏さん、粟津潔さん、石山修武さん、杉浦康平さん、鶴見良行さんらが常連で、まだ勤務医時代の高橋龍太郎さんともここで知り合いました。
亭主は行きのタクシー代だけを握り締めてスタッフを連れ夜な夜なこの店に通い、朝まで過ごし始発で戻るという地獄の日々を過ごし、ツケを溜めに溜め、遂に200万円を越したときはさすがに双方あきれかえって笑うほかありませんでした。
とはいえ、借金は借金、これをチャラにする方法はないかと亭主は悪知恵を働かせ・・・・(以後は発禁)。
かくして「憂陀」は亭主を筆頭にツケばかりの客で黒字倒産寸前となりましたが、起死回生、カウンター10席の小さな店から数十人は入る大きな店に大転回します。
内装を担当したのが、立原道造の友人、武基雄先生の事務所でした。
立原道造の最後の恋人「薔薇色の少女」、水戸部アサイさんは石本建築事務所の同僚でしたが、1938年(昭和13)4月の夕暮れ、武さんと三人で資生堂パーラーでシャーベットを食べたのが初デートでした。
因みに後年、石本事務所に入り桐生の大川美術館の設計を担当したのが松本竣介の遺児・莞さんです。
なんだか佐藤健さんを巡る思い出を書き出すと、次から次へと敬愛する人々の縁が繫がってくる・・・・
話しがまた横道にそれちゃいました。
明日からの具体展、どうぞお運びください。
※3月16日(土)17時より、石山修武さんと河﨑晃一さんによるギャラリートークも開催します。
具体を最もよく知る人として河﨑晃一さんほどの適任者はおりますまい。
NYグッゲンハイムで開催中の具体展の映像をたくさん持参して、上映してくださるとか。
最新の「世界が注目した具体情報」にご期待ください。
ただし、既にギャラリートークの定員はいっぱいになりました。
トーク終了後19時からの石山先生、河﨑晃一さんを囲んでの懇親会にはどなたでも参加できますので、どうぞお出かけください。
■河﨑晃一
造型作家、美術館学芸員。
1952年兵庫県芦屋市生まれ。甲南大学経済学部卒業。卒業後、染色家中野光雄氏に師事、80年から毎年植物染料で染めた布によるオブジェを発表。87年第4回吉原治良賞美術コンクール展優秀賞、第18回現代日本美術展大原美術館賞受賞。
『画・論長谷川三郎』の編集、甲南学園長谷川三郎ギャラリーや芦屋市立美術博物館の開設に携わり「小出楢重と芦屋展」「吉原治良展」「具体展」「阪神間モダニズム展」「震災と表現展」などを企画した。93年にはベネチアビエンナーレ「東洋への道」の具体の野外展再現、99年パリジュドポムの「具体展」など海外での具体の紹介に協力。06年よりは兵庫県立美術館に勤務されました。
グッゲンハイムで始まった具体展。作品は元永定正先生の《作品(水)》。
◆『具体 Gコレクションより』展図録
『具体 Gコレクションより』展図録
2013年 16ページ 25.6x18.1cm
執筆:石山修武 図版15点
略歴:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高﨑元尚、鷲見康夫
価格:800円(税込)
※送料別途250円
※お申し込みはコチラから。
2013年2月 石山修武
Gコレクションと、ときの忘れものギャラリーを結びつけたのは、2002年に姿を消した毎日新聞記者、佐藤健であった。名物記者であり数々の業績を残した。ときの忘れものの主宰者、綿貫不二夫さんは元毎日新聞の経歴の持主だ。佐藤が自身の死を覚悟しての最後の旅、シルクロードへはわたくしも同行した。自業自得大明王の戒名の位牌を彼は鳴沙山の砂漠で自慢した。その戒名の実現に努力した僧侶が馬場昭道であった。僧侶の知合いにGコレクションのオーナーが居た。それで今度の具体派Gコレクション展が実現した。戒名の方はいかがなんでも明王の上に大をつけるのは問題であろうと大向こうから諭されて、プライベートな位牌だけが、今、佐藤の書庫であった酔庵にひっそりと在る。2013年春にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で具体派の大展覧会が開催されるが、わたくしが佐藤との縁やらもあり企画監修することになったこのGコレクション展は、その日本での小さくとも同時開催展になり得るように考えた。これも又、仏教的神道的儒教的混沌としたカオスのなかの縁、すなわち極細の蜘蛛の糸としか言えぬ人間関係により、具体派の芸術家たちとはお目にかかることができた。四角四面の重箱づくりの建築稼業のなかに大半は身を置くわたくしにとっては、皆さん、眼が点ならぬミクロコスモスになりっ放しの怪人ばかりであった。東京を拠点とした同時期の実験工房の山口勝弘先生には色々と教示を受けてきたが、彼等の律儀で合理性を帯びさせようとした創作方法とは真反対な、それこそ良く言えば自由、悪く言えば出鱈目振りは実にまぶしいばかりの輝きを持つようではあったが、あんまり良いと言いつのれば、わたくしの四角四面の職業柄おもわしくないことも起きそうで、ひた隠しにしてきた。
が、しかし、どうしてこんなに真っ当で自由で、それこそ芸術らしいのだろうとは思い続けてきたのである。
1970年の大阪万博の、お祭り広場と岡本太郎の太陽の塔の実現は、日本の現代美術にとってひとつの画期であった。このお祭り広場の主役であるべきであった民衆の祭りは影も形も、結局見せようとはしなかった。有り体に言えば磯崎新の最初の挫折であったのだが、磯崎は当時、大阪の具体の連中に対して、あの広場で暴れろとアジッたと聞く。よくよく調べてみたら、太郎の太陽の塔のモデルらしきの、磯崎の六体の百メートルほどの着せ替え人形ロボットのスケッチも残っている。国籍不明のカーニバルもどきがイメージされていた可能性がある。予算やら何やらの不自由もあり具体派の連中の具体祭りも、彼等本来の破天荒振りも充分表現されるに至らなかた。
歴史にもしもは禁句だけれど、芸術は特に現代芸術はそのもしもの本来は連続であろう。もしもあの六体の着せ替えカーニバルロボットがうごめき、もしも具体派の大カーニバル、白髪一雄の空中ブランコ群が実現していたらと、呵々大笑の白昼夢さえ出現する。
あまり大言壮語は小さなときの忘れものギャラリーには納まり切らぬであろうが、その白昼夢のカケラは少なくとも皆さんは感得されるだろう。3.11の津波、原発事故の後には何も無いとは言いたくないだろう。
ひとときならぬ異形の断片を楽しんでいただきたい。おそらくニューヨークでもWTC崩壊のキノコ雲の後の虚無に芸術の本来の可能性の在り方が示されてもいる。
(いしやま おさむ)
「具体 Gコレクションより」
会期=2013年3月15日[金]―3月30日[土](無休)企画・監修=石山修武
出品:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高﨑元尚、鷲見康夫、他
*画廊亭主敬白
画廊亭主敬白ならぬ軽薄のきわみといわれても仕方ありませんが、明日3月15日より開催する「具体 Gコレクションより」の企画がもちあがったのはつい先日、昨年12月のことでした。
突如「松本竣介展」の会場にあらわれた石山修武先生の否も応もない「やれ」の一言で嵐のような日々が始まりました。
出品作品の選定、交渉、五月雨式にぽつりぽつりと送られてくる作品の撮影、出品リストの定まらぬ中でのカタログの編集、狭い画廊空間での展示プランの作成など、綱渡り状態で進行する中、見切り発車で珍しく雑誌にも広告を打ちました。
案の定、広告に使った作品は不出品(トホホ・・・)。ハラハラドキドキの三ヶ月でしたが、石山研究室あげの応援もあり、短期間のうちに展覧会が実現にこぎつけられたのは幾多の修羅場を潜り抜けてきた建築家・石山修武先生の腕力あってのことでした。
気弱な亭主ではとっくに頓挫していたでしょう。

展示の打合せをする左から亭主、石山先生、展示担当の浜田さん
二転三転の出品リストはまさに「直しても直しても混沌」。

石山修武
「登っても登っても混沌」
2004年
銅版・手彩色
28.0×22.0cm
Ed.5(Ⅰ/Ⅴ~Ⅴ/Ⅴ)
石山先生がなぜ、場末の貧乏画廊に「具体展」の開催を持ちかけたのか今もって不明ですが、開催にいたる石山先生の思考の跡は膨大な「世田谷村日記」を読んでいただくしかありません。
上掲の石山先生の文中にある佐藤健さんは亭主の毎日新聞時代の二、三期先輩の花形記者でした。社での付き合いはほとんどなく、毎夜社員の溜り場になっていた飯田橋の地獄の「憂陀」という酒場での飲み仲間というか、健さんはほとんどカウンターの中の人でした。金森さん、関さんというこの酒場のオーナーについては先日伊豆の長八美術館の項で書きましたが、野間宏さん、粟津潔さん、石山修武さん、杉浦康平さん、鶴見良行さんらが常連で、まだ勤務医時代の高橋龍太郎さんともここで知り合いました。
亭主は行きのタクシー代だけを握り締めてスタッフを連れ夜な夜なこの店に通い、朝まで過ごし始発で戻るという地獄の日々を過ごし、ツケを溜めに溜め、遂に200万円を越したときはさすがに双方あきれかえって笑うほかありませんでした。
とはいえ、借金は借金、これをチャラにする方法はないかと亭主は悪知恵を働かせ・・・・(以後は発禁)。
かくして「憂陀」は亭主を筆頭にツケばかりの客で黒字倒産寸前となりましたが、起死回生、カウンター10席の小さな店から数十人は入る大きな店に大転回します。
内装を担当したのが、立原道造の友人、武基雄先生の事務所でした。
立原道造の最後の恋人「薔薇色の少女」、水戸部アサイさんは石本建築事務所の同僚でしたが、1938年(昭和13)4月の夕暮れ、武さんと三人で資生堂パーラーでシャーベットを食べたのが初デートでした。
因みに後年、石本事務所に入り桐生の大川美術館の設計を担当したのが松本竣介の遺児・莞さんです。
なんだか佐藤健さんを巡る思い出を書き出すと、次から次へと敬愛する人々の縁が繫がってくる・・・・
話しがまた横道にそれちゃいました。
明日からの具体展、どうぞお運びください。
※3月16日(土)17時より、石山修武さんと河﨑晃一さんによるギャラリートークも開催します。
具体を最もよく知る人として河﨑晃一さんほどの適任者はおりますまい。
NYグッゲンハイムで開催中の具体展の映像をたくさん持参して、上映してくださるとか。
最新の「世界が注目した具体情報」にご期待ください。
ただし、既にギャラリートークの定員はいっぱいになりました。
トーク終了後19時からの石山先生、河﨑晃一さんを囲んでの懇親会にはどなたでも参加できますので、どうぞお出かけください。
■河﨑晃一
造型作家、美術館学芸員。
1952年兵庫県芦屋市生まれ。甲南大学経済学部卒業。卒業後、染色家中野光雄氏に師事、80年から毎年植物染料で染めた布によるオブジェを発表。87年第4回吉原治良賞美術コンクール展優秀賞、第18回現代日本美術展大原美術館賞受賞。
『画・論長谷川三郎』の編集、甲南学園長谷川三郎ギャラリーや芦屋市立美術博物館の開設に携わり「小出楢重と芦屋展」「吉原治良展」「具体展」「阪神間モダニズム展」「震災と表現展」などを企画した。93年にはベネチアビエンナーレ「東洋への道」の具体の野外展再現、99年パリジュドポムの「具体展」など海外での具体の紹介に協力。06年よりは兵庫県立美術館に勤務されました。
グッゲンハイムで始まった具体展。作品は元永定正先生の《作品(水)》。◆『具体 Gコレクションより』展図録
『具体 Gコレクションより』展図録2013年 16ページ 25.6x18.1cm
執筆:石山修武 図版15点
略歴:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高﨑元尚、鷲見康夫
価格:800円(税込)
※送料別途250円
※お申し込みはコチラから。
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