森下泰輔「私の Andy Warhol 体験 - その1 60年代」
日本で最初にアンディ・ウォーホル作品が展示されたのは1965年、南画廊での「ワン・セント・ライフ展」だった。28作家の詩画集のなかのリトグラフ一点であったが私は見ていない。私がアンディ・ウォーホルの作品と出合ったのはビートルズが来日した1966年、十四の時だった。この年、京橋の国立近代美術館で「現代アメリカ絵画展」があったのだが、ラウシェンバーグ、ジョーンズに混じってまったく無名のウォーホルのキャンバス作品、キャンベル・スープ、ジャッキー、電気椅子などもきていた。当時はワーホールといっていた。蛍光色なども使用したその煌びやかな作品は、それまでのアートとはまるで違って見えた。その数ヵ月後、銀座・壱番館画廊で「アメリカンアート・ポスター展」があって、私はラウシェンバーグを買いにいったのだが、そこでウォーホルのリズ・テイラーの作品ポスターがあり、一目で魅了されてしまい、こちらを購入した。色使い、構成など単純だがきわめて新しかったのだ。「極彩色によって連結された虚無」と中学生の私は思った。前年の65年、カナダ・トロントの個展時に使用されたポスターであった。このときカナダの税関は彼のブリロ・ボックスを芸術作品とはみなさなかった。
この時期には彼の美術界での認知度はまだそれほど高くはなかった。それがなぜ、すでに美術館に入り、日本くんだりにまで来てポスター展をやる画廊もあったのかといえば、「ポップアート」というネーミングにあったと思う。50年代にポップアートという名称を使ったのはローレンス・アロウェイだったが、もともとはアメリカンポップに先行するブリティッシュポップの名称だった。ウォーホルに関してもポップアートの概念のほうが先行していたのだ。65年時点ではニューヨークでも彼のアートはすでに一定の認知をされていたものの、ある意味色物扱いだった。そしてすでに画家引退宣言をして、映画やマルチメディア芸術のほうにシフトしていたのだ。日本では彼の作品よりもサングラスで素顔を隠しているその一風変わったキャラクターのほうが先に喧伝されていた。そして、実験映画作家としてのアンディ・ウォーホルとして、まずメディアで紹介されていたのである。「映画評論」などが日本で彼が活字化された最初だった。
1967年、当時前衛芸術の殿堂だった草月会館ホールでウォーホルの映画「ヴィニール」が上映され見に行ったこともあった。この年はまたウォーホルがファクトリーの写真や風船などのオブジェを挿入したアートブック「ウォーホルズ・インデックス(ブック)」を刊行した年でもあり、この写真が飛び出す立体本が実は東京の図書印刷で刷られ製本されたもの。当時、新宿には画廊喫茶「風月堂」があって、ベトナム脱走兵やフーテンをはじめ、芸術家、文化人が集っていた。かつて瀧口修造、岡本太郎も訪れていたが、68年には風月堂の近くに「ジ・アップル」というビートルズの店をまねたサイケデリック・ショップができ、この店に大量の「インデックス」が並んでいたのでほぼリアルタイムでこのアートブックを認識している。この本にはハードカバーとソフトカバーがあって東京で見ることができたのは銀色の表紙のソフトカバー版だった。実際に67年まで拠点にしたシルヴァー・ファクトリーという銀のアルミホイルで覆われたスタジオといいウォーホルは銀色のイメージが強かったのだ。「銀色の生ける屍」というあだ名もあった。この年になると美術家としてのウォーホルの動向が遅ればせながら「美術手帖」にもちらほら掲載されるようになった。映像作家の金坂健二はいち早くニューヨークを訪れ、貴重な写真を多数撮影していた。またゴーゴークラブ「MUGEN」をディレクションした浜野安宏は開店したばかりの渋谷西武百貨店の地下でウォーホル的なファッション・イベントを展開。そこには複数のウォーホル作品複製が貼ってあった。だが10代の私には当時ユニットプロのリーダーで映像作家の宮井陸郎の動向が日本ではもっともウォーホルに近いように思われた。宮井は「映像芸術」(1968年2月最終号)に「三島由紀夫からウォーホルまで」を書き、環境芸術を主張してウォーホルのヴェルヴェット・アンダーグラウンドと組んだマルチメディア実験ショー「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル-EPI」(1966)のようなライト・ショーを銀座にあった「キラージョーズ」で展開していた。大きなバルーンにオプティカルなパターンを映写するサイケデリック・ショーだった。大阪にも浜野が「アストロメカニクール」をプロデュース、ストロボとライト・ショー、大音響のロックは68年には日本でも盛んになった。また、草月会館ではハプニング的な要素を詰め込んだ「Expose'68 なにかいってくれ、いま、さがす 」のようなイベントが行われ、こうしたもののすべてがウォーホルの新しいアートを連想させたのだが、実際60年代においてはウォーホルは実験映画やハプニング、サイケデリック・ショーのカリスマのように認識され、かしこまった美術というよりフレキシブルな何か得体の知れない新しい芸術動向の司祭といえた。その証拠に影響力はすでにすさまじかったのにもかかわらず、アンディ・ウォーホルの絵画作品、版画作品の個展は60年代を通じて一度も日本では開催されていなかったのである。(敬称略)
続く
(もりしたたいすけ)

Andy Warhol's INDEX(BOOK) 1967 Random House発行 筆者蔵

Andy Warhol
Liz (F&S II. 7), 1964
Offset Color Lithograph on paper
23 1/8 x 23 1/8 inches
Edition of 300
Signed and Dated in ball-point pen
Printed by: Total Color, New York
Publisher: Leo Castelli Gallery, New York

「チェルシーガールズ」広告 1966 筆者蔵
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。
*画廊亭主敬白
2月1日から森美術館で世界巡回展の最後を飾る大規模なウォーホル展が開催されます。
亭主がアンディ・ウォーホル展を全国的規模で企画したのは30年ほど前の1983年でした。
ポップ・アートについても、アンディについてもほとんど知識の無かった亭主に手取り足取り教えてくれた「ウォーホルおたく」ともいうべき人たちがいました。
ウォーホルの話を持ち込んだ宮井陸郎さん、飛行機が苦手で海外には一度も行ったことがないくせに日本一ウォーホルに詳しいギャラリー360の根本寿幸さん、フーテンの寅さんのごとく全国の縁日を渡り歩きながらウォーホルに関する膨大精緻な資料ファイルを遺し路上で倒れ看取る人も無く逝ってしまった似顔絵描の栗山豊さん。この三人がいなければ、あの「ウォーホル全国展」は実現しませんでした。
あのとき、少年時代からウォーホルにどっぷり浸かった恐るべき「ウォーホルの子供たち」が次々と亭主の前に登場したのでした。
森下泰輔さんもその一人でした。
自らの<Andy Warhol体験>を6回の予定で綴っていただきます。
更新はウォーホル、そして栗山豊の亡くなった22日とします。ご愛読ください。
日本で最初にアンディ・ウォーホル作品が展示されたのは1965年、南画廊での「ワン・セント・ライフ展」だった。28作家の詩画集のなかのリトグラフ一点であったが私は見ていない。私がアンディ・ウォーホルの作品と出合ったのはビートルズが来日した1966年、十四の時だった。この年、京橋の国立近代美術館で「現代アメリカ絵画展」があったのだが、ラウシェンバーグ、ジョーンズに混じってまったく無名のウォーホルのキャンバス作品、キャンベル・スープ、ジャッキー、電気椅子などもきていた。当時はワーホールといっていた。蛍光色なども使用したその煌びやかな作品は、それまでのアートとはまるで違って見えた。その数ヵ月後、銀座・壱番館画廊で「アメリカンアート・ポスター展」があって、私はラウシェンバーグを買いにいったのだが、そこでウォーホルのリズ・テイラーの作品ポスターがあり、一目で魅了されてしまい、こちらを購入した。色使い、構成など単純だがきわめて新しかったのだ。「極彩色によって連結された虚無」と中学生の私は思った。前年の65年、カナダ・トロントの個展時に使用されたポスターであった。このときカナダの税関は彼のブリロ・ボックスを芸術作品とはみなさなかった。
この時期には彼の美術界での認知度はまだそれほど高くはなかった。それがなぜ、すでに美術館に入り、日本くんだりにまで来てポスター展をやる画廊もあったのかといえば、「ポップアート」というネーミングにあったと思う。50年代にポップアートという名称を使ったのはローレンス・アロウェイだったが、もともとはアメリカンポップに先行するブリティッシュポップの名称だった。ウォーホルに関してもポップアートの概念のほうが先行していたのだ。65年時点ではニューヨークでも彼のアートはすでに一定の認知をされていたものの、ある意味色物扱いだった。そしてすでに画家引退宣言をして、映画やマルチメディア芸術のほうにシフトしていたのだ。日本では彼の作品よりもサングラスで素顔を隠しているその一風変わったキャラクターのほうが先に喧伝されていた。そして、実験映画作家としてのアンディ・ウォーホルとして、まずメディアで紹介されていたのである。「映画評論」などが日本で彼が活字化された最初だった。
1967年、当時前衛芸術の殿堂だった草月会館ホールでウォーホルの映画「ヴィニール」が上映され見に行ったこともあった。この年はまたウォーホルがファクトリーの写真や風船などのオブジェを挿入したアートブック「ウォーホルズ・インデックス(ブック)」を刊行した年でもあり、この写真が飛び出す立体本が実は東京の図書印刷で刷られ製本されたもの。当時、新宿には画廊喫茶「風月堂」があって、ベトナム脱走兵やフーテンをはじめ、芸術家、文化人が集っていた。かつて瀧口修造、岡本太郎も訪れていたが、68年には風月堂の近くに「ジ・アップル」というビートルズの店をまねたサイケデリック・ショップができ、この店に大量の「インデックス」が並んでいたのでほぼリアルタイムでこのアートブックを認識している。この本にはハードカバーとソフトカバーがあって東京で見ることができたのは銀色の表紙のソフトカバー版だった。実際に67年まで拠点にしたシルヴァー・ファクトリーという銀のアルミホイルで覆われたスタジオといいウォーホルは銀色のイメージが強かったのだ。「銀色の生ける屍」というあだ名もあった。この年になると美術家としてのウォーホルの動向が遅ればせながら「美術手帖」にもちらほら掲載されるようになった。映像作家の金坂健二はいち早くニューヨークを訪れ、貴重な写真を多数撮影していた。またゴーゴークラブ「MUGEN」をディレクションした浜野安宏は開店したばかりの渋谷西武百貨店の地下でウォーホル的なファッション・イベントを展開。そこには複数のウォーホル作品複製が貼ってあった。だが10代の私には当時ユニットプロのリーダーで映像作家の宮井陸郎の動向が日本ではもっともウォーホルに近いように思われた。宮井は「映像芸術」(1968年2月最終号)に「三島由紀夫からウォーホルまで」を書き、環境芸術を主張してウォーホルのヴェルヴェット・アンダーグラウンドと組んだマルチメディア実験ショー「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル-EPI」(1966)のようなライト・ショーを銀座にあった「キラージョーズ」で展開していた。大きなバルーンにオプティカルなパターンを映写するサイケデリック・ショーだった。大阪にも浜野が「アストロメカニクール」をプロデュース、ストロボとライト・ショー、大音響のロックは68年には日本でも盛んになった。また、草月会館ではハプニング的な要素を詰め込んだ「Expose'68 なにかいってくれ、いま、さがす 」のようなイベントが行われ、こうしたもののすべてがウォーホルの新しいアートを連想させたのだが、実際60年代においてはウォーホルは実験映画やハプニング、サイケデリック・ショーのカリスマのように認識され、かしこまった美術というよりフレキシブルな何か得体の知れない新しい芸術動向の司祭といえた。その証拠に影響力はすでにすさまじかったのにもかかわらず、アンディ・ウォーホルの絵画作品、版画作品の個展は60年代を通じて一度も日本では開催されていなかったのである。(敬称略)
続く
(もりしたたいすけ)

Andy Warhol's INDEX(BOOK) 1967 Random House発行 筆者蔵

Andy Warhol
Liz (F&S II. 7), 1964
Offset Color Lithograph on paper
23 1/8 x 23 1/8 inches
Edition of 300
Signed and Dated in ball-point pen
Printed by: Total Color, New York
Publisher: Leo Castelli Gallery, New York

「チェルシーガールズ」広告 1966 筆者蔵
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。
*画廊亭主敬白
2月1日から森美術館で世界巡回展の最後を飾る大規模なウォーホル展が開催されます。
亭主がアンディ・ウォーホル展を全国的規模で企画したのは30年ほど前の1983年でした。
ポップ・アートについても、アンディについてもほとんど知識の無かった亭主に手取り足取り教えてくれた「ウォーホルおたく」ともいうべき人たちがいました。
ウォーホルの話を持ち込んだ宮井陸郎さん、飛行機が苦手で海外には一度も行ったことがないくせに日本一ウォーホルに詳しいギャラリー360の根本寿幸さん、フーテンの寅さんのごとく全国の縁日を渡り歩きながらウォーホルに関する膨大精緻な資料ファイルを遺し路上で倒れ看取る人も無く逝ってしまった似顔絵描の栗山豊さん。この三人がいなければ、あの「ウォーホル全国展」は実現しませんでした。
あのとき、少年時代からウォーホルにどっぷり浸かった恐るべき「ウォーホルの子供たち」が次々と亭主の前に登場したのでした。
森下泰輔さんもその一人でした。
自らの<Andy Warhol体験>を6回の予定で綴っていただきます。
更新はウォーホル、そして栗山豊の亡くなった22日とします。ご愛読ください。
コメント