私の人形制作第71回 井桁裕子
Reality of a doll and a sculpture -About sculptor Kotaro TAKAMURA-


それが「人形」であるということ・2

人形のリアルな表現は、リアリティではなくむしろ違和感へと向かう。
というよりは、リアルさゆえに、本物とのずれが強く意識されてしまうということなのでしょう。
彫刻はどうなのでしょうか。
彫刻は単一の素材で表現され、作業の跡をそのまま残したりします。
素材をいろいろ使うという方面の努力は彫刻にはほとんどなく、そこが人形と彫刻の分かれ目のような気がします。

日本女子大で教えていらっしゃる藤木直実先生に、私の今の制作についてお話したところ「肖像彫刻ですごく時間がかかった一例」として日本女子大の創立者・成瀬仁蔵校長の肖像について興味深い話を聞かせてくださいました。
それは桜楓会(同窓会)から、当時まだ青年だった高村光太郎に依頼されたものでした。
しかしその制作は1919(大正8)年から1933(昭和8)年、依頼の時から数えて14年間に及びます。
これには高村が成瀬先生のご存命の間にわずか2度しか会えなかったこともありますが、亡くなられて一層慕われ尊敬されるこの方の偉大な姿をどう現すか、悩み続けた様子が伺われます。
ついにできあがった胸像を母校に贈ったときの桜楓会機関誌「家庭週報」の記事には、高村の苦労を伝えて「十余年間、このアトリエの中に胸像を護持して検討を続けられ」たとあり、「この永遠の芸術から永遠の生命を呼吸できるように思います」と像を讃えて生き生きと喜びが書かれています。

01「女性ジャーナルの先駆け」日本女子大学校・桜風会 機関誌「家庭週報」年表 より


一方、高村光太郎の言葉には、さらに深い実感がこもっています。
以下がその言葉です。

 おわびとお礼と(1933年・週報1175号)   高村光太郎
最初三四年の間の二三の作は成瀬校長の印象再現に傾き、いわば「或る日の校長」というような現象表現に力をそそぎ、(中略)最後の二三年になってようやく人格の総合表現と彫刻的取り扱いとに或る融合を見出し(中略)もうこの肖像は「或る日の印象」ではありません。それ故特定の年齢もそこになく、特殊の表情もありません。ただ一個の魂が彫刻的表現をもってそこに存在しているに過ぎません。生命の有無はただ作品のみが証となるでしょう。


特定の年齢も表情もない、ただ一個の魂。
生き続ける人間の意識は、常に連続して記憶の堆積となり続けます。
そのすべての印象を一つの造形に集約しようとするなら、造形は揺れ動くものにならざるを得ないのです。

私の今の制作の場合はモデルの森田さんの姿を写真撮影し、それを律儀に再現する方法で制作しています。
高村光太郎のように言えば「一個の魂」ではなく「或る日の森田さん」が作れたら、私はそれでいいのです。
なので、写真で無作為に切り取られた一瞬を凝視することになります。
ところが、実を言うとモデルの森田さんの身体は何枚かの写真を撮るわずかの時間の中でさえ同じではありません。
片脚で立つバランスが少しずつ変わり、腕を置く位置が変わり、呼吸によって胸や腹部の形も変化します。
写真ごとに違う形が記録され、その矛盾をとらえきれず形がわからなくなります。
まして数ヶ月の間があると、筋肉と骨格の見え方が実際に変化してしまいます。
レントゲン写真のぼやけた画像を見つめても、たいしたことは読み取れません。
医師でさえ彼女の骨格がどうなっているのか判っていないということですから、私が判らないのも無理はありません。
また普通なら、脚や腕は左右で同じにすれば良いのですが、森田さんの場合はそうはいきません。
顔もどこを向いているのが「正面を向いている」ことになるのか判りにくかったりします。
こうしてみると、私はデジカメという文明の利器を使って便利にやっているはずなのに、結局、刻々と変化する像を探して苦労をしているわけです。
魂の表現を模索しているわけでもないのに、こんな不器用なことで良いのでしょうか。

「或る日の森田さん」が目的であれば、手段を間違えているのではないか、と私のみならずこれを読んでいる人々も思うかもしれません。
70年代のスーパーリアリズムのムーブメントの頃、人体をまるごと型取りする技術でスーパーリアルマネキンが作られ、一世を風靡したことがありました。
現代は、3Dスキャニング・プリンターの技術が発達しています。
瞬時に全方向からの立体データを取り込むようなことがもしできれば、森田さんの身体も正確な複製を作ることができるでしょう。
そういう科学技術があるのに、頼りない眼と手で作るのは意味が無いと、誰もが考えるはずです。
もちろん私もそういうことを知らないわけではないのですが、この世にどんな高度な技術があっても、私に好きに使わせてくれるわけではありません。
などと言うと、つまりそれは金銭的な問題なのか、と人々は思うでしょう。
村上隆氏の著書の中に「金があれば外注ができる、自分のかけがえのない時間が節約できる、だから金はあったほうがいい」というようなごく合理的なことが書いてあったのを読んだ記憶があります。
このような常識的な思考は説得力があり、私もおおいに納得しました。
それはまさに私のこのような場合を指していると、人々は考えるに違いありません。
しかしもちろん、常識によって結論の出るものが必ずしも芸術ではないと思う人も居るかもしれません。

私もよく判らないのですが、この場合は、正確さを求めつつ、しかし決して本物からの複製であってはいけないに違いないのです。
私の下手な技術力や勝手なファンタジーのフィルターを通した造形であればこそ、謎は謎のままに、静かに遠いものに触れる事が可能かもしれない。
手で作る事には合理性以外のいろいろな意味があります。
一瞬をとどめようとするにせよ、魂の表現を模索するにせよ、それは何かを問うための旅であって、問いも答えも他者にとっては謎なのです。
そして旅というのはもともと、価値の決めにくいものです。
(次号へ続く)

(いげたひろこ)

●今日のお勧め作品は、井桁裕子です。
20150520_igeta_40_syukusai井桁裕子
「祝祭」
2011年
桐塑、油彩
15.0x34.0xH31.0cm
サインあり


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