小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第11回

小正月01

 小正月というものを意識しなくなって久しい。子供の頃は確実にそれを意識していたというのに・・・・。
 雪と寒さに閉じ込められ季節の数少ない楽しみだった。小学校には小正月休みというものがあって、1月15日を中心に3、4日ほど休みになった。きっと、その存在がもっとも大きかったのだろうが、そのあいだに子供が主役の行事がつまっていた。

 15日の晩にどんど焼が行われる。その行事は全国的に行われているものだが、北関東から甲信越にかけて特に盛んな印象がある。あるいは、ほかの地方について私が知らないだけなのもしれない。
 私の地元でも古くから行われてきた。地区のはずれの雪で埋まった田んぼの真ん中に正月に使ったしめ飾り、松、だるま、書き初めの書き損じたものなどを高く積む。トラック数台分ほどの量だろうか。先端は屋根ほどの高さまでなる。
 それらを各家から集めるのが子供達の役目で、一台のリヤカーを数人でひいた。道路はどこも雪がカチカチに凍っているから坂道は危険でもあった。
 あつめたそれらを、とにかくできるだけ高く積み上げる。きまって先端にだるまを乗せる。まだ低学年の頃に6年生が自作した弓と破魔矢を使って、先端のだるまを射るのを目撃したことがある。見事に貫通して驚いた。
 山積みにする準備は明るいうちに終えるが、日が暮れ出す頃に再びでかける。そのときの胸の高鳴りはいまでも忘れることはない。空になったリヤカーには太鼓を乗せる。それを叩きながら地区の端から端まで、声を合わせて囃し立てるのだ。
「どんど焼きに来ておくれ!は~やくしないと灰になる!どんど焼きに来ておくれ!は~やくしないと灰になる!」
 どの家も雪をかぶってひっそりとしている。背後の山は黒々としていて、あたかも死んでいるかのようだ。果たして家のなかに人がいるのだろうか。心配になるほどだが、自分たちの声がきっと、こたつの脇の誰かに届いていることを信じて、声を張り上げる。
 振り向くと、下級生が我慢しきれなかったというふうに家から道路に飛び出してきて、じっとこっちを見ていたりする。そんな姿を目にすると自然と頬が緩む。無言のうちに通じ合っている気持ちになるからだ。
 さらに大人の姿のちらほらと現れ始める。大人もまたこのときをじっと待ってことに気がつく。すると自分たちのことが誇らしい気持ちになる。地区の役になっているという実感からだろうか。
 誰の手にも同じものが握られている。重そうに両手でもっていたり、肩にかけている姿もある。おめえ玉(まゆ玉)だ。柳の枝の先にいくつもつけられている。食紅で赤や緑といった毒々しい色に染められている。もちろん、ただの白もある。上新粉で作られた団子だ。一般的には蚕のまゆを模したものといわれているが、私の地元ではあまりその形をしていない。先端は丸いのだが、枝側はすっと細まっている。
 柳の枝は正月がすぎた頃に父が近くの河原へ行き、ナタで切ってきたものだ。父曰く「柳は火にくべても燃えにくいから」とのことだ。
 おめえ玉を作るのは母の役目で、出来上がったそれを柳の枝につけていくのを私は時々手伝った。完成したそれは、しばらく部屋の鴨居などにひっかけておく。乾燥させるためではなく、単純に飾って眺めるためだと思う。
 太鼓の音と自分の叫び声がきっかけとなり、それぞれの家からおめえ玉を持ち出す瞬間が来た。それがいまだ。そう思うと自然と胸が高まった。

600小林紀晴
「Winter 09」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。
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本日の瑛九情報!
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瑛九の会は、1965年結成、機関誌『眠りの理由』を創刊号(1966年4月20日)から第14号(1979年6月8日)まで刊行し、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介します。
先ずは発起人の一人で福井の頒布会を組織して晩年の瑛九を支援した木水育男さんです。
1981年6001981年3月1日_ギャラリー方寸_瑛九その夢の方へ_13.jpg
1981年3月1日
東京渋谷のギャラリー方寸にて
瑛九その夢の方へ」展オープニングで挨拶する木水育男さん(右)
正面に展示されているのが現在は東京国立近代美術館所蔵の「青の中の丸」

木水育男さんは1919年(大正8)9月8日福井県鯖江に生まれ、福井師範学校を卒業後、教師となります。1940年(昭和15)応召、終戦まで北支、南方に歴戦。1945年(昭和20)12月南方より復員、国民学校教師に復職し、1980年(昭和55)福井県武生南小学校校長を退職するまで教師として子ども達に接します。その間、北川民次、土岡秀太郎、久保貞次郎、瑛九らと出会うことによって新しい美術教育に情熱を傾けました。1951年(昭和26)創造美育協会(創美)設立に参加し、その活動を通じて泉茂、靉嘔ら多くの作家達と親交し、支援を続けました。1997年(平成9)6月3日死去、享年77。
没後2011年、故郷の鯖江で「瑛九との軌跡 木水育男(奥右衞門)を巡る人々」展が開催されました。

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『瑛九からの手紙』
2000年9月8日発行、発行人:木水クニオ、 発行:瑛九美術館
29.6×21.0cm 209頁
20170114183744_00005 のコピー
『木水育男追悼集ー木水さんとわたしー』
1999年2月20日刊
編集・発行:「木水育男追悼集」出版発起人会
20.5×15.0cm 354頁

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RIMG0740瑛九水彩鉛筆1956年600瑛九
「ターゲット」
1956年 水彩、鉛筆
23.3×19.8cm
サイン、年記あり

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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。