新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」
第1回 シャンティニケタンの大地と生活
ラビンドラナート・タゴールと岡倉天心、そして宮沢賢治のかつての活動を複合・融合できないかと考えている。融合とは、彼らが遺した何某かを掴み取り、自分の活動の端緒としてみたいということだ。皆およそ100年前の人間たちである。けれども彼らにはいささかの古臭さも感じない。感じない、ととりあえず思い込んでみることが肝要である。最近めっきりはまってしまった石川淳の『狂風記』で出てきたように、過去を掘って掘って掘り進めてみればバッと未来を掘り出すことができる、という妙な確信めいたものも感じてのことでもある。少なくとも彼らは、若輩の自分には未だ到達し得ない知見と活動の次元を持っていた。最近しばしばインド(と東北)を訪れることになってより一層彼らの活動の凄みを肌身で感じるのである。経済が上がり調子でかつ人口もいまや中国を抜きそうかというくらいに過密に発展するインドにおいてその都市の空気を感じるとともに、発展あるいは進展の根にある“Indian-ness”とは何なのだろうか。さらにはその根を育てるインドの大地とはどのようなものなのであろうか。そんな空想を一人、異邦者として思い巡らせている。
タゴールは1901年にコルカタからおよそ200km北の広野であったシャンティニケタンの地に一つの学校を創設した。それはたった6人の教師と5人ほどの学生からなるとても小さな学校であったという。このシャンティニケタンを拠点としてタゴールは自らの創作活動を続け、またインドの古典や伝統文化を強調し、主たる言語としてベンガル語を採用しつつも、日本や中国、そして中東文学にも触れる国際色豊かな教育環境を生み出し海外からの講師や学生も集まった。当時コルカタに存在した政府官僚育成のための教育機関のプログラムとはまるで異なる、規律で縛るのではなく自己の発意によって知識を得ていく、ある種「インフォーマル」な学校の創設であった。授業の多くが屋外で行われ、先生と学生らは木の下に円座して学びの場が作られた。タゴールは1921年に後継のVisva-Bharati大学を設立し、1世紀以上経った今も大学の構内では木の下に円座して学んでいる美しい光景をみることができる。そしてほぼ同時期の1922年に隣のシュリニケタンに農村復興機関(シュリニケタン協会)を設立した。農村の人々が経済的な自主独立を果たし、またかつてのインドがそうであったように文化的生活の復興の両立を目的として近郊農村での教育活動および農業技術発展の試みがなされた。地域性あるいは土着性への内的志向と、国境を問わず異なる文化圏へと知見を押し広げていくヴェクトルが交錯し、さらにはその重合する人間活動を豊潤な自然が包み込む、確かな意思に基づく理想的な実践、実験の場が生まれていたのだろうと思う。
シュリニケタンの青空教室(※1)
旧シュリニケタン農場(※2)
現在のVisva-Bharati University授業風景
そんな一世紀前の光景を想像してみようと私は2016年秋、シャンティニケタン周辺の農村を訪れた。シャンティニケタン周辺の幾つかの村は当然ながらタゴールが学校を作るはるか昔からその地にある集落である。ある部族集落の民家を訪問する。小さな庭にニワトリとヤギと牛を囲っている。入り口の門には小さな赤い印があった。神様を示しているらしい。民家は竹とPalmツリーという南国由来のヤシの木を骨組としている。Palmツリーは日本ではあまり馴染みの無い木であるが、表情は荒く硬い材なのでしばしばこの地域の基礎や、屋根の架構としても使われている。別の村Kheladanga(Kendangan) やSantalには何やら家の壁に様々な立体的オーナメント(壁画)が描かれてあった。また壁の足元は若干基壇状になり 黒色と赤色の別種の土で塗り分けられている。聞けばVisvaBharati Universityの芸術家が作品制作の手伝いとして村の人を雇い、村人は技術を習得し持ち帰り、独自に自分たちの村で実践をしているらしい。芸術と民俗の融合をここで見つけた、と強く感じた。タゴールが追い求めた生活の一端が、あるいはインド農村が歩むべき所謂近代化とは別種の径の可能性がここにあるのではないか。異邦孤高の我が境遇によって極論めいた確信をその時抱いたのである。
Keladanga村の民家の門
Santal村のはずれに位置していた民家の壁
村々を訪問したその日の夜、知人の紹介で彼の師であるRaj Kumar Konar氏の元を訪れた。彼はVisva-BharatiのSilpa-Sadana(インダストリアルデザイン)の教授であり、Santiniketanの良心的知性の持ち主であった。二時間ほど絶え間無く彼は喋り続けていたが、最も私にとって重要であったのは、インドの建築の始まりはTheater, Dramaであるとの指摘である。そしてタゴールもまたそうした空間感覚を持っていたのだという。建築は凍れる音楽であるという言葉をしばしば見かけることもあるが、Dramaという人間の身体が場所と、大地と共振するその姿に建築の始原を見出すその感覚が素晴らしいと思った。
また現代のシャンティニケタンの農村にはすでに本格的なクラフト・工芸文化は失われつつあるとの指摘もあった。商品経済がすでに浸透しそのための労働に成り代わりつつある、とも。Vernacularであればベンガル南部の奥地の村落を探したほうが良い。そこには家具の無い、土の文化があると。
彼の言っていることはかなりよく理解できる。
良くも悪くもタゴールが設立した大学は、土着の周辺村落に大きな影響を与えて現在にいたる。それは当然タゴールが意図したことでもある(Rural-development Dept.の設立など)。先述のように農民経済の回復と土着文化の精神性の復活こそがシャンティニケタンの地に学校を作った目的でもあった。その資質は100年の間に変容し、インド国内貨幣経済の普及によってその発展の方向性を変えざるを得なかったのだとも思う。
けれども、だからこそ今、その地で取り組む必要があるのではないか。ある種の崩壊過程、大地の変容過程にこそ、現代の創作につながる筋道を見つけなければいけないのではないか。未だ幸い残存する辺境の未開文化を探し求めても仕方が無い。環境は時間とともに変わっていくとしても、どんなに叩きのめされても消えないものこそがその場所の"伝統"としてあるのだと考えたい。
Keladanga村のウシとヤギ(スケッチ)
※1,2=『ラビンドラナート・タゴール 生誕150周年記念号』Public Diplomacy Division Ministry of External Affairs Government of India。その他は筆者撮影。
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/
*画廊亭主敬白
路あるところでは私は私の道を見失う
大海には 青空には どんな道も通っていない
路は小鳥の翼の中、星の篝火の中、移りゆく季節の花の中に隠されている
そうして私は私の胸にたずねるーーお前の血は見えざる路の智慧をもっているかと。
タゴール詩集より(山室静訳)
まだ若い建築家による新しい連載のスタートです。
佐藤研吾さんを知ったのは建築家の石山修武先生のスタッフとしてですが、彼がインドに渡りワークショップを開催している話の中にヴィシュヴァ・バラティ大学の名が出てきて、思わずあたまが半世紀前に飛びました。
祖父篠原龍策が蔵書を売り払ってまで資金繰りに奔走し土浦の地に己の理想をかけた女学校を建てたのは昭和の初期でした。母も小学校の教師でした。どうもその血が騒いだらしい。詩集『ギーターンジャリ』によってアジア初のノーベル文学賞を受賞したタゴールに憧れ、小さな野外学校から出発したヴィシュヴァ・バラティ大学に留学したいと本気で考えたのでした。そんな夢はとっくに忘れていたのですが、佐藤さんの話で懐かしく思い出したのでした。
前回の佐藤さんのエッセイ<『異形建築巡礼』を注釈する>もあわせてお読みください。
●本日のお勧め作品は、石山修武です。
石山修武
「谷に残った者たちは安穏にくらした」
2017年
銅版
イメージサイズ: 60.7x44.8cm
シートサイズ: 74.3x53.5cm
Ed.3 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
~~~
近年、国内ばかりでなく海外での瑛九評価が高まっています。今月に入ってからもアメリカから二組のキューレターや画商が瑛九作品を見にわざわざときの忘れものにいらっしゃいます。
宮崎で生まれ育ち、浦和で亡くなった(死んだのは東京の病院で)瑛九は生涯ただの一度も日本を出たことはありません。
中学校すら出ていない(つまり小学校卒)瑛九はしかしエスペラント語を学び、海外の雑誌や画集を取り寄せ、海外の動向にも目を配り、思考は常に世界的な視野を失いませんでした。
その瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。
1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判(四つ切)15点、大判(全紙)25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送ります。
<僕も遂に米国から大きな申込みがやってきました。多分父上からそのことに就てはお聞き下さったでしょう。家内が父上へ手紙を書きましたから僕からは詳しく申上げません。
僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思ってゐます。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。・・・
(1953年3月9日 兄の杉田正臣宛 瑛九書簡より)>
欧米での作品発表に向けての瑛九の高揚した思いが伝わってきます。
しかし、残念なことに個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に僅か5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。

瑛九
「浴み」
1952年頃
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
26.5x21.6cm
*国際的な舞台での発表を夢見て、瑛九がニューヨークに送った作品です。
裏面
P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-44 Bathing, Photo Dessin, by Kyu Ei
THIS PHOTO IS SOLD WITH
ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
鉛筆で「浴み」とあり
瑛九の生前に果たされなかった夢は、私たちの時代で何とかして実現したい、そう思うこのごろです。
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催中です(11月22日~2017年2月12日)。野外応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
●<今月のお勧め作品>を更新しました。
◆新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
第1回 シャンティニケタンの大地と生活
ラビンドラナート・タゴールと岡倉天心、そして宮沢賢治のかつての活動を複合・融合できないかと考えている。融合とは、彼らが遺した何某かを掴み取り、自分の活動の端緒としてみたいということだ。皆およそ100年前の人間たちである。けれども彼らにはいささかの古臭さも感じない。感じない、ととりあえず思い込んでみることが肝要である。最近めっきりはまってしまった石川淳の『狂風記』で出てきたように、過去を掘って掘って掘り進めてみればバッと未来を掘り出すことができる、という妙な確信めいたものも感じてのことでもある。少なくとも彼らは、若輩の自分には未だ到達し得ない知見と活動の次元を持っていた。最近しばしばインド(と東北)を訪れることになってより一層彼らの活動の凄みを肌身で感じるのである。経済が上がり調子でかつ人口もいまや中国を抜きそうかというくらいに過密に発展するインドにおいてその都市の空気を感じるとともに、発展あるいは進展の根にある“Indian-ness”とは何なのだろうか。さらにはその根を育てるインドの大地とはどのようなものなのであろうか。そんな空想を一人、異邦者として思い巡らせている。
タゴールは1901年にコルカタからおよそ200km北の広野であったシャンティニケタンの地に一つの学校を創設した。それはたった6人の教師と5人ほどの学生からなるとても小さな学校であったという。このシャンティニケタンを拠点としてタゴールは自らの創作活動を続け、またインドの古典や伝統文化を強調し、主たる言語としてベンガル語を採用しつつも、日本や中国、そして中東文学にも触れる国際色豊かな教育環境を生み出し海外からの講師や学生も集まった。当時コルカタに存在した政府官僚育成のための教育機関のプログラムとはまるで異なる、規律で縛るのではなく自己の発意によって知識を得ていく、ある種「インフォーマル」な学校の創設であった。授業の多くが屋外で行われ、先生と学生らは木の下に円座して学びの場が作られた。タゴールは1921年に後継のVisva-Bharati大学を設立し、1世紀以上経った今も大学の構内では木の下に円座して学んでいる美しい光景をみることができる。そしてほぼ同時期の1922年に隣のシュリニケタンに農村復興機関(シュリニケタン協会)を設立した。農村の人々が経済的な自主独立を果たし、またかつてのインドがそうであったように文化的生活の復興の両立を目的として近郊農村での教育活動および農業技術発展の試みがなされた。地域性あるいは土着性への内的志向と、国境を問わず異なる文化圏へと知見を押し広げていくヴェクトルが交錯し、さらにはその重合する人間活動を豊潤な自然が包み込む、確かな意思に基づく理想的な実践、実験の場が生まれていたのだろうと思う。
シュリニケタンの青空教室(※1)
旧シュリニケタン農場(※2)
現在のVisva-Bharati University授業風景そんな一世紀前の光景を想像してみようと私は2016年秋、シャンティニケタン周辺の農村を訪れた。シャンティニケタン周辺の幾つかの村は当然ながらタゴールが学校を作るはるか昔からその地にある集落である。ある部族集落の民家を訪問する。小さな庭にニワトリとヤギと牛を囲っている。入り口の門には小さな赤い印があった。神様を示しているらしい。民家は竹とPalmツリーという南国由来のヤシの木を骨組としている。Palmツリーは日本ではあまり馴染みの無い木であるが、表情は荒く硬い材なのでしばしばこの地域の基礎や、屋根の架構としても使われている。別の村Kheladanga(Kendangan) やSantalには何やら家の壁に様々な立体的オーナメント(壁画)が描かれてあった。また壁の足元は若干基壇状になり 黒色と赤色の別種の土で塗り分けられている。聞けばVisvaBharati Universityの芸術家が作品制作の手伝いとして村の人を雇い、村人は技術を習得し持ち帰り、独自に自分たちの村で実践をしているらしい。芸術と民俗の融合をここで見つけた、と強く感じた。タゴールが追い求めた生活の一端が、あるいはインド農村が歩むべき所謂近代化とは別種の径の可能性がここにあるのではないか。異邦孤高の我が境遇によって極論めいた確信をその時抱いたのである。
Keladanga村の民家の門
Santal村のはずれに位置していた民家の壁村々を訪問したその日の夜、知人の紹介で彼の師であるRaj Kumar Konar氏の元を訪れた。彼はVisva-BharatiのSilpa-Sadana(インダストリアルデザイン)の教授であり、Santiniketanの良心的知性の持ち主であった。二時間ほど絶え間無く彼は喋り続けていたが、最も私にとって重要であったのは、インドの建築の始まりはTheater, Dramaであるとの指摘である。そしてタゴールもまたそうした空間感覚を持っていたのだという。建築は凍れる音楽であるという言葉をしばしば見かけることもあるが、Dramaという人間の身体が場所と、大地と共振するその姿に建築の始原を見出すその感覚が素晴らしいと思った。
また現代のシャンティニケタンの農村にはすでに本格的なクラフト・工芸文化は失われつつあるとの指摘もあった。商品経済がすでに浸透しそのための労働に成り代わりつつある、とも。Vernacularであればベンガル南部の奥地の村落を探したほうが良い。そこには家具の無い、土の文化があると。
彼の言っていることはかなりよく理解できる。
良くも悪くもタゴールが設立した大学は、土着の周辺村落に大きな影響を与えて現在にいたる。それは当然タゴールが意図したことでもある(Rural-development Dept.の設立など)。先述のように農民経済の回復と土着文化の精神性の復活こそがシャンティニケタンの地に学校を作った目的でもあった。その資質は100年の間に変容し、インド国内貨幣経済の普及によってその発展の方向性を変えざるを得なかったのだとも思う。
けれども、だからこそ今、その地で取り組む必要があるのではないか。ある種の崩壊過程、大地の変容過程にこそ、現代の創作につながる筋道を見つけなければいけないのではないか。未だ幸い残存する辺境の未開文化を探し求めても仕方が無い。環境は時間とともに変わっていくとしても、どんなに叩きのめされても消えないものこそがその場所の"伝統"としてあるのだと考えたい。
Keladanga村のウシとヤギ(スケッチ)※1,2=『ラビンドラナート・タゴール 生誕150周年記念号』Public Diplomacy Division Ministry of External Affairs Government of India。その他は筆者撮影。
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/
*画廊亭主敬白
路あるところでは私は私の道を見失う
大海には 青空には どんな道も通っていない
路は小鳥の翼の中、星の篝火の中、移りゆく季節の花の中に隠されている
そうして私は私の胸にたずねるーーお前の血は見えざる路の智慧をもっているかと。
タゴール詩集より(山室静訳)
まだ若い建築家による新しい連載のスタートです。
佐藤研吾さんを知ったのは建築家の石山修武先生のスタッフとしてですが、彼がインドに渡りワークショップを開催している話の中にヴィシュヴァ・バラティ大学の名が出てきて、思わずあたまが半世紀前に飛びました。
祖父篠原龍策が蔵書を売り払ってまで資金繰りに奔走し土浦の地に己の理想をかけた女学校を建てたのは昭和の初期でした。母も小学校の教師でした。どうもその血が騒いだらしい。詩集『ギーターンジャリ』によってアジア初のノーベル文学賞を受賞したタゴールに憧れ、小さな野外学校から出発したヴィシュヴァ・バラティ大学に留学したいと本気で考えたのでした。そんな夢はとっくに忘れていたのですが、佐藤さんの話で懐かしく思い出したのでした。
前回の佐藤さんのエッセイ<『異形建築巡礼』を注釈する>もあわせてお読みください。
●本日のお勧め作品は、石山修武です。
石山修武「谷に残った者たちは安穏にくらした」
2017年
銅版
イメージサイズ: 60.7x44.8cm
シートサイズ: 74.3x53.5cm
Ed.3 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
~~~
近年、国内ばかりでなく海外での瑛九評価が高まっています。今月に入ってからもアメリカから二組のキューレターや画商が瑛九作品を見にわざわざときの忘れものにいらっしゃいます。
宮崎で生まれ育ち、浦和で亡くなった(死んだのは東京の病院で)瑛九は生涯ただの一度も日本を出たことはありません。
中学校すら出ていない(つまり小学校卒)瑛九はしかしエスペラント語を学び、海外の雑誌や画集を取り寄せ、海外の動向にも目を配り、思考は常に世界的な視野を失いませんでした。
その瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。
1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判(四つ切)15点、大判(全紙)25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送ります。
<僕も遂に米国から大きな申込みがやってきました。多分父上からそのことに就てはお聞き下さったでしょう。家内が父上へ手紙を書きましたから僕からは詳しく申上げません。
僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思ってゐます。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。・・・
(1953年3月9日 兄の杉田正臣宛 瑛九書簡より)>
欧米での作品発表に向けての瑛九の高揚した思いが伝わってきます。
しかし、残念なことに個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に僅か5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。

瑛九
「浴み」
1952年頃
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
26.5x21.6cm
*国際的な舞台での発表を夢見て、瑛九がニューヨークに送った作品です。
裏面P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-44 Bathing, Photo Dessin, by Kyu Ei
THIS PHOTO IS SOLD WITH
ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
鉛筆で「浴み」とあり
瑛九の生前に果たされなかった夢は、私たちの時代で何とかして実現したい、そう思うこのごろです。
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催中です(11月22日~2017年2月12日)。野外応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
●<今月のお勧め作品>を更新しました。
◆新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
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