鈴木素直「瑛九・鈔」
第2回 瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
ここに一枚の写真がある。一九五四年の六月十九日、私は、浦和へ帰る瑛九さんを宮崎駅で見送った。その十日前、彼は「旅行がしたいのです。そして宮崎の友人たちに会ってよもやま話をしたいと思っています」と浦和からやって来ていた。そしてその翌々日「僕は昨晩、とても静かな町の自宅へ帰りつきました。今度の旅行で心機一転した心地です……」と兄の正臣氏へ手紙を送っている。
それからちょうど二十五年たったこの六月八日、私は瑛九への旅へ出た。
「現代美術の父」――東京・新宿の小田急百貨店のグランドギャラリーには、そう掲げてあった。東京で彼の芸術の全容が紹介されるのは初めてだし、文化庁後援というのも個人展としては珍しいことで、作品の選択と支持者の圧倒的な努力にふさわしいタイトルであった。
宮崎市から浦和市へ転居した一九五一年、彼は「デモクラート美術協会」を創立した。そこで強く影響を受けて育った靉嘔、池田満寿夫、早川良雄、細江英公や友人のオノザトトシノブらと瑛九の会が企画し、全国から油彩、フォトデッサン、エッチング、石版百七十八点が集められていた。

会場へ入ると、精魂を刻み込んだ、あの晩年の点描による抽象画の激しさが、実におだやかに、だが思いもしなかった別の語りかけで私を迎えてくれた。見なれたつもりの田園B(県立図書館蔵)やつばさ(県総合博物館蔵)の大作すら、まだだれも踏み込まなかった新しい世界のように輝く。もっと目をみはったのは、さきほどと同じ一九五四年八月、東京での初めての油絵展で見た作品だった。芽、駄々っ子、フェニックスなどにあふれるユーモラスな明るさと造形力! 二十五年前、私には全くなじめない作品で、そのいやらしさに圧倒され、暑い日差しの街へ押しだされたみじめな思いをよく覚えている。だが私だけではなかったらしい。今回の開催代表者である木水育男氏が「みんな身に覚えがあるよ」と当時の個展評を読んでくれた。「どのタブロオも緊密さを欠き、質量にとぼしく、ただけばけばしいのはどうしたわけか……」(美術批評十月号・東野芳明)と。
「ぼくの絵は現代を肯定している人ならだれでもわかる絵である。ぼくは平凡な作家だ」「ぼくは平凡な毎日が精神の上で大きなボウケンとスリルの世界です」(木水氏への手紙)と言った彼の誠実さと先駆者的活動が今わかる。
東京に比べるなら「とても静かな町の自宅へ帰りついた」私に、東京の友人たちから電話があった。「瑛九展みたよ。宮崎の光が輝いていた。本当の緑の影があった。あれを乗り越えなければ、私たちが!」その若やいだ響きが、一九五〇年二月、戦後初めての瑛九作品展を思い起こさせた。当時新制高校になったばかりの大宮、大淀両校でエスペラントを教えていた瑛九夫妻を。リヤカーで彼の百三点の作品を会場の教育会館へ運び並べた若者たちを。
貫き通した前衛精神と多彩な独創的作品が、今なお見る者をゆさぶりつづけている。この旅は老いへ向かっての旅ではなかったと思う。
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
~~~~
『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
~~~~
鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
~~~~
鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
~~~~
鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
~~~~
鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九「作品ーB(アート作品・青)」
1935年 油彩(ボード)
29.0×24.0cm(F3号)
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.19、

瑛九「逓信博物館 A」
1941年 油彩
46.0×61.1cm
*「瑛九作品集」(日本経済新聞社)42頁所載
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第2回 瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
ここに一枚の写真がある。一九五四年の六月十九日、私は、浦和へ帰る瑛九さんを宮崎駅で見送った。その十日前、彼は「旅行がしたいのです。そして宮崎の友人たちに会ってよもやま話をしたいと思っています」と浦和からやって来ていた。そしてその翌々日「僕は昨晩、とても静かな町の自宅へ帰りつきました。今度の旅行で心機一転した心地です……」と兄の正臣氏へ手紙を送っている。
それからちょうど二十五年たったこの六月八日、私は瑛九への旅へ出た。
「現代美術の父」――東京・新宿の小田急百貨店のグランドギャラリーには、そう掲げてあった。東京で彼の芸術の全容が紹介されるのは初めてだし、文化庁後援というのも個人展としては珍しいことで、作品の選択と支持者の圧倒的な努力にふさわしいタイトルであった。
宮崎市から浦和市へ転居した一九五一年、彼は「デモクラート美術協会」を創立した。そこで強く影響を受けて育った靉嘔、池田満寿夫、早川良雄、細江英公や友人のオノザトトシノブらと瑛九の会が企画し、全国から油彩、フォトデッサン、エッチング、石版百七十八点が集められていた。

会場へ入ると、精魂を刻み込んだ、あの晩年の点描による抽象画の激しさが、実におだやかに、だが思いもしなかった別の語りかけで私を迎えてくれた。見なれたつもりの田園B(県立図書館蔵)やつばさ(県総合博物館蔵)の大作すら、まだだれも踏み込まなかった新しい世界のように輝く。もっと目をみはったのは、さきほどと同じ一九五四年八月、東京での初めての油絵展で見た作品だった。芽、駄々っ子、フェニックスなどにあふれるユーモラスな明るさと造形力! 二十五年前、私には全くなじめない作品で、そのいやらしさに圧倒され、暑い日差しの街へ押しだされたみじめな思いをよく覚えている。だが私だけではなかったらしい。今回の開催代表者である木水育男氏が「みんな身に覚えがあるよ」と当時の個展評を読んでくれた。「どのタブロオも緊密さを欠き、質量にとぼしく、ただけばけばしいのはどうしたわけか……」(美術批評十月号・東野芳明)と。
「ぼくの絵は現代を肯定している人ならだれでもわかる絵である。ぼくは平凡な作家だ」「ぼくは平凡な毎日が精神の上で大きなボウケンとスリルの世界です」(木水氏への手紙)と言った彼の誠実さと先駆者的活動が今わかる。
東京に比べるなら「とても静かな町の自宅へ帰りついた」私に、東京の友人たちから電話があった。「瑛九展みたよ。宮崎の光が輝いていた。本当の緑の影があった。あれを乗り越えなければ、私たちが!」その若やいだ響きが、一九五〇年二月、戦後初めての瑛九作品展を思い起こさせた。当時新制高校になったばかりの大宮、大淀両校でエスペラントを教えていた瑛九夫妻を。リヤカーで彼の百三点の作品を会場の教育会館へ運び並べた若者たちを。
貫き通した前衛精神と多彩な独創的作品が、今なお見る者をゆさぶりつづけている。この旅は老いへ向かっての旅ではなかったと思う。
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
鈴木素直『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
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鈴木素直『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
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鈴木素直『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
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鈴木素直『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
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鈴木素直さん(左)鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九「作品ーB(アート作品・青)」
1935年 油彩(ボード)
29.0×24.0cm(F3号)
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.19、

瑛九「逓信博物館 A」
1941年 油彩
46.0×61.1cm
*「瑛九作品集」(日本経済新聞社)42頁所載
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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