松本竣介研究ノート 第7回
画風は何故変わる~松本竣介の場合(下)
小松﨑拓男
松本竣介が第22回の二科展に『建物』を出品して初入選を果たしたのが1935年。それから画風が大きく変化するのは3年後の1938年、第25回の二科展に出品した『街』であった。現在、大川美術館に所蔵されるこの作品は松本竣介の代表作の一つでもある。
「街」
1938年8月
油彩・板
131.0×163.0cm
第25回二科展出品
(公財)大川美術館
こうした画風の変化について2012年に開催された「生誕100年 松本竣介展」の図録の中では、例えば
「この二科展への初入選後、竣介の画風に転機が訪れる。この頃、アメリカから一時帰国していた野田英夫(1908-1939)の作品が日本で展示されており、おそらく竣介はそれらを見たに違いない。野田英夫、あるいはジョージ・グロス(1893-1959)の作品は、少なからず竣介のなかに隠れていた線描家としての資質に響き、新たな線へと展開するきっかけになったと思われる。」(注1)
といった指摘や、あるいは
「1938年頃から郊外風景の派生とも思える都会風景を彼は制作し始める。これまでの彼の描く風景画には人の姿が見られなかったが、街を行き来する人々や建物の映像のように重なり合うモンタージュ技法によって描かれている。モンタージュ技法にはジョージ・グロスや野田英夫の影響が指摘されている。」(注2)
とある。
ルオーの影響と言われる太い輪郭線のある建物だけの風景から、都会風景と細い線描の人物が重なり合うように描かれる、モンタージュの技法を使った作風に変化しており、その画風の変化の解説としては、作品を見ている限りにおいては正しいのだろう。だが、もう少し詳細にこの変化の時期について考えてみるべきなのではないだろうか。というのもこの時期、松本竣介には大きな二つの出来事があった。
一つは松本禎子との結婚、そしてもう一つは雑誌『雜記帳』の編集発行である。前者については生活に大きな変化をもたらしたことは言うまでもないが、画風が変化するということに大きな影響を与えたのが後者の出来事だったように思われる。そのことを具体的に検証してみよう。
並々ならぬ情熱を持って『雜記帳』の創刊したのが、1936年10月のことであった。初入選からほぼ1年後のことである。そこから1937年12月号で『雜記帳』が終刊するまで、絵画の制作と同時に雑誌の編集発行に忙殺されていたことは想像に難くない。そして画風が変わるのが終刊の翌年1938年の二科展での出品画という経緯をたどる。
「ときの忘れもの」で開催された「『雜記帳』と松本竣介」展のカタログにも書いたことだが、この雑誌を創刊した時に力を入れていたのが挿画である。これはと思う画家に依頼し、ただの挿画ではなく、それ自体独立した鑑賞が可能な質を、持てる印刷技術を駆使して表現したいと宣言したほど力を入れた企画だった。そして自身も多くの挿絵を描いたことは周知のことである。
さてこの時松本竣介はどのような挿絵を描いていたのだろうか。
調べてみると多くの場合それは線描画である。印刷技術の制約上、ベタで幅広い墨線は、つぶれたりムラになったりして、下の線が消えるなど原画の味わいを再現するのが難しかったのではないだろうか。つまり、初入選時の骨太の黒い輪郭線を生かしたような表現を挿画の中に生かすのは簡単ではなかったということであり、むしろ骨太の線より、細く抑揚のない針金のような線で描かれた表現の方が、端的に松本竣介の描く建物や都会風景には適っていたのだった。
『雜記帳』
創刊号(復刻版)
p63
『雜記帳』
1936年12月号(復刻版)
p21
『雜記帳』
1937年1月号(復刻版)
p66
兄彬と共に発行していた雑誌『生命の藝術』でも線を主体にした表紙絵など描いてはいたが、自身の『雜記帳』編集の過程でより自覚的に線の魅力を認識していったと言えるのではないか。残念ながらこれを直接証拠立てる資料はないが、1937年の出品画『郊外』から、そしてそれに連なる1938年に発表された『街』での画風の変遷は、『雑記帳』の終刊と絵画制作への専心という時期に合致し、素描から油絵へと、すなわち挿画や素描によって改めて自身の絵画(線)の性格を自覚し、それらを制作に関する研究成果として作品へと結実させようとしたのだと考えると、その道筋は合理的でその間の制作の経緯を素直に語っているように思う。
「郊外」
1937年8月
油彩・板
96.6×130.0cm
第24回二科展出品
宮城県美術館
したがって、1937年に発表された『郊外』という作品は、画風の変遷の過渡的な作品としての意味合いを持ち、これまでよりも重要な作品に位置付けられるかもしれない。事実、この作品の素描が、そのままに『雑記帳』の中の挿画として使われていることは注目してよいだろう。
『雜記帳』
1937年8月号(復刻版)
p88
言い換えれば、松本竣介は『雑記帳』の編集発行を通じ、細い線描の魅力をより自覚し、新たな表現、骨太の構造的な輪郭線から、抑揚のない細い黒い線の魅力を、油絵へと適用していったのだと考えられるということである。
さらに、これまで指摘されているようにゲオルク・グロス(ジョージ・グロスのドイツ語名Georg Grosz)や野田英夫の影響があったことは言うまでもない。ただ、彼らだけの影響で画風が変化したのではない。線をどのように生かしていくのかということを、『雑記帳』の挿画を描くこと、さらに1937年の『郊外』という作品の中で試みる時間がなければ、恐らくは代表作の一つである『街』のあのスタイルは、この時期に生まれてはいなかったのではなかろうか。
注1:長門佐季「都会:黒い線」『生誕100年松本竣介展図録』NHKプラネット東北、NHKプロモーション 2012年 p.26
注2:加藤俊明「松本竣介の生涯と作品-素描作品を交えながら」『同上』p.272
(こまつざき たくお)
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《人物(W)》
紙にペン、水彩
イメージサイズ: 22.0x16.0cm
シートサイズ:26.8x18.2cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●「松本竣介と『雜記帳』」展図録のご案内
2019年 ときの忘れもの刊
B5判 44ページ
テキスト:小松崎拓男
収録作家:松本竣介、恩地孝四郎、福沢一郎、海老原喜之助、難波田龍起、鶴岡政男、桂ゆき
価格:1,100円(税込)
梱包送料:250円
*メールにてお申し込みください。
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画風は何故変わる~松本竣介の場合(下)
小松﨑拓男
松本竣介が第22回の二科展に『建物』を出品して初入選を果たしたのが1935年。それから画風が大きく変化するのは3年後の1938年、第25回の二科展に出品した『街』であった。現在、大川美術館に所蔵されるこの作品は松本竣介の代表作の一つでもある。
「街」1938年8月
油彩・板
131.0×163.0cm
第25回二科展出品
(公財)大川美術館
こうした画風の変化について2012年に開催された「生誕100年 松本竣介展」の図録の中では、例えば
「この二科展への初入選後、竣介の画風に転機が訪れる。この頃、アメリカから一時帰国していた野田英夫(1908-1939)の作品が日本で展示されており、おそらく竣介はそれらを見たに違いない。野田英夫、あるいはジョージ・グロス(1893-1959)の作品は、少なからず竣介のなかに隠れていた線描家としての資質に響き、新たな線へと展開するきっかけになったと思われる。」(注1)
といった指摘や、あるいは
「1938年頃から郊外風景の派生とも思える都会風景を彼は制作し始める。これまでの彼の描く風景画には人の姿が見られなかったが、街を行き来する人々や建物の映像のように重なり合うモンタージュ技法によって描かれている。モンタージュ技法にはジョージ・グロスや野田英夫の影響が指摘されている。」(注2)
とある。
ルオーの影響と言われる太い輪郭線のある建物だけの風景から、都会風景と細い線描の人物が重なり合うように描かれる、モンタージュの技法を使った作風に変化しており、その画風の変化の解説としては、作品を見ている限りにおいては正しいのだろう。だが、もう少し詳細にこの変化の時期について考えてみるべきなのではないだろうか。というのもこの時期、松本竣介には大きな二つの出来事があった。
一つは松本禎子との結婚、そしてもう一つは雑誌『雜記帳』の編集発行である。前者については生活に大きな変化をもたらしたことは言うまでもないが、画風が変化するということに大きな影響を与えたのが後者の出来事だったように思われる。そのことを具体的に検証してみよう。
並々ならぬ情熱を持って『雜記帳』の創刊したのが、1936年10月のことであった。初入選からほぼ1年後のことである。そこから1937年12月号で『雜記帳』が終刊するまで、絵画の制作と同時に雑誌の編集発行に忙殺されていたことは想像に難くない。そして画風が変わるのが終刊の翌年1938年の二科展での出品画という経緯をたどる。
「ときの忘れもの」で開催された「『雜記帳』と松本竣介」展のカタログにも書いたことだが、この雑誌を創刊した時に力を入れていたのが挿画である。これはと思う画家に依頼し、ただの挿画ではなく、それ自体独立した鑑賞が可能な質を、持てる印刷技術を駆使して表現したいと宣言したほど力を入れた企画だった。そして自身も多くの挿絵を描いたことは周知のことである。
さてこの時松本竣介はどのような挿絵を描いていたのだろうか。
調べてみると多くの場合それは線描画である。印刷技術の制約上、ベタで幅広い墨線は、つぶれたりムラになったりして、下の線が消えるなど原画の味わいを再現するのが難しかったのではないだろうか。つまり、初入選時の骨太の黒い輪郭線を生かしたような表現を挿画の中に生かすのは簡単ではなかったということであり、むしろ骨太の線より、細く抑揚のない針金のような線で描かれた表現の方が、端的に松本竣介の描く建物や都会風景には適っていたのだった。
『雜記帳』創刊号(復刻版)
p63
『雜記帳』1936年12月号(復刻版)
p21
『雜記帳』1937年1月号(復刻版)
p66
兄彬と共に発行していた雑誌『生命の藝術』でも線を主体にした表紙絵など描いてはいたが、自身の『雜記帳』編集の過程でより自覚的に線の魅力を認識していったと言えるのではないか。残念ながらこれを直接証拠立てる資料はないが、1937年の出品画『郊外』から、そしてそれに連なる1938年に発表された『街』での画風の変遷は、『雑記帳』の終刊と絵画制作への専心という時期に合致し、素描から油絵へと、すなわち挿画や素描によって改めて自身の絵画(線)の性格を自覚し、それらを制作に関する研究成果として作品へと結実させようとしたのだと考えると、その道筋は合理的でその間の制作の経緯を素直に語っているように思う。
「郊外」1937年8月
油彩・板
96.6×130.0cm
第24回二科展出品
宮城県美術館
したがって、1937年に発表された『郊外』という作品は、画風の変遷の過渡的な作品としての意味合いを持ち、これまでよりも重要な作品に位置付けられるかもしれない。事実、この作品の素描が、そのままに『雑記帳』の中の挿画として使われていることは注目してよいだろう。
『雜記帳』1937年8月号(復刻版)
p88
言い換えれば、松本竣介は『雑記帳』の編集発行を通じ、細い線描の魅力をより自覚し、新たな表現、骨太の構造的な輪郭線から、抑揚のない細い黒い線の魅力を、油絵へと適用していったのだと考えられるということである。
さらに、これまで指摘されているようにゲオルク・グロス(ジョージ・グロスのドイツ語名Georg Grosz)や野田英夫の影響があったことは言うまでもない。ただ、彼らだけの影響で画風が変化したのではない。線をどのように生かしていくのかということを、『雑記帳』の挿画を描くこと、さらに1937年の『郊外』という作品の中で試みる時間がなければ、恐らくは代表作の一つである『街』のあのスタイルは、この時期に生まれてはいなかったのではなかろうか。
注1:長門佐季「都会:黒い線」『生誕100年松本竣介展図録』NHKプラネット東北、NHKプロモーション 2012年 p.26
注2:加藤俊明「松本竣介の生涯と作品-素描作品を交えながら」『同上』p.272
(こまつざき たくお)
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO《人物(W)》
紙にペン、水彩
イメージサイズ: 22.0x16.0cm
シートサイズ:26.8x18.2cm
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2019年 ときの忘れもの刊B5判 44ページ
テキスト:小松崎拓男
収録作家:松本竣介、恩地孝四郎、福沢一郎、海老原喜之助、難波田龍起、鶴岡政男、桂ゆき
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