磯崎新『栖十二』より第十一信ミース・ファン・デル・ローエ[レイクショア・ドライヴ]
昨日2011年の営業を終了し、夕方からは納会(忘年会)となりました。
展示してある磯崎新銅版画連作『栖十二』の企画者である植田実先生はじめ、来年個展を予定している大竹昭子さん、井桁裕子さん、尾形一郎・優さんなど作家や、顧客の皆さんにお集まりいただき賑やかに2011年を語りあいました。

13年前の企画意図を説明しながら『栖十二』を手に、連作誕生の思い出を語る植田実先生。
さてこの連作紹介も本日で11回目。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第十一信はミース・ファン・デル・ローエ[レイクショア・ドライヴ]です。
磯崎新〈栖 十二〉第十一信パッケージ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画35》
ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画36》
ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画37》
ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
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第十一信・事務局連絡
一九九九年八月三〇日千葉県・印西郵便局より発送
関東地方は溌剌とした入道雲と傲然たる雨が入れかわり立ちかわり、どこか過剰な夏ですが、皆様お元気でお過ごしのことと拝察します。『栖十二』第十一信をお送りします。第一信以来、ちょうど一年になりました。
茶室の次は集合住宅と、劇的な展開ですが、レイクショア・ドライブ・アパートメントは、磯崎さんの眼を通して見ると、集合「住宅」とはもはやいえない、もっと先のどこか恐ろしい世界につながっています。
書簡の冒頭で、六〇年代はじめに磯崎さんがマンハッタンを訪れたときのことが書かれています。その前に立ち寄ったサン・ジミニアーノが同じ塔の林立する町として知られていながら、両者の構造がまったく違うものであることが指摘されている。この旅行から帰ってすぐあと、つまり一九六四、五年にもニューヨークとサン・ジミニアーノについての文章がいくつか書かれています。とりわけ「虚像と記号のまちニューヨーク」(『建築文化』六四年一月号)は、やはりサン・ジミニアーノを引き合いにしながら、ニューヨークという都市の構造を一瞬にして見抜いてしまった凄味が迫ってきます。「スケールのすべてに量と構造が優先するのがアメリカの超高層のデザイン」であり、ヨーロッパの建築とはまったく異なる建築が発生してしまったアメリカという場所では、ゴシックやロマネスクのようなモチーフに依拠して人間のスケールや感触をとり戻そうとしても、それはただ「中世病」にとりつかれたにすぎない。ニューヨークでは建築だけでなく、道も「全く抽象的に割りきられた」として変質しているのだから、郊外の木造住宅群まで、ヨーロッパ的概念での住宅とは違って、ファサードの装飾的な表皮やペンキの色による差異をつくり出していながら、すべては同質であることが一瞥して分かる、というわけです。
「スカイスクレーパーの圧倒する空間とたたかうには、やはり、『中世病』などではおおいきれない。建築のイメージを立体的な都市そのものに置換したり、あたらしい都市の存在のイメージを観念として創出する。そのような行為をつうじてしか正面きったストラグルはおきそうにもない。マンハッタンはそういう建築の存在の次元をかえさせるような都市空間を無意識に生産しているのではないかと僕には思えるのだ」。この決定的な視点をもつにいたった磯崎さんは、まだ三〇代の初めでした。
翌年、『SD』六五年八月号の特集「ニューヨークの再発見」では、磯崎さんは「立体格子」というタイトルで図版構成を手がけています。ソウル・スタインベルグのマンガやモンドリアンの絵画とダブって、構造体が組み上がった時点での超高層ビルの工事現場の写真がある。それは日本の超高層ビルなどとはまるで違う、すぐにでも建築の枠を断ち切ってしまう無限の「立体格子」のようにみえるのでした。
さらに『Space Modulater』六五年八月号の「座標と薄明と幻視」では、金曜日の夕暮のパーク・アベニュの、人気のなくなったビルに照明がつけられ、内外を通して「すべてが均質な光景」になり、重量の消失した物質が無限に連続していく、つまり立体格子という観念が幻覚のように目のあたりに見える瞬間をつぶさに観察しています。しかもそうした光景を生んだマンハッタンの歴史的起源に溯ることから始めて、代表的な超高層をひとつひとつ分析し、シカゴとの関係、その他ワシントンDCからロスアンゼルスまでを見渡しながらアメリカの新しい都市空間の徴候を検証するという、じつに綿密な考察まで、磯崎さんはなし遂げていました。
その後も磯崎さんは折にふれ、この問題に言及しています。とりわけその立体格子の原基ともいえるミース・ファン・デル・ローエのレイクショア・ドライブ、また同じミースでも異なる局面をもつシーグラム・ビルやファンスワース邸については、六四年以前から現在まで、強い関心に裏づけられた発言がとても印象的でした。しかし今回の第十一信は、「栖」という因子によって、その構図がさらに拡がり、深められています。その視座からミースを語る作品として、ファンスワース邸ではなくレイクショア・ドライブが選ばれたのは当然でしょうし、そこから私たちが連想してしまう『二〇〇一年宇宙の旅』もちゃんと登場しています。
私も四、五年前レイクショア・ドライブの一住戸を訪ねたことがありました。住み手はミースの信奉者で、このアパートメントの鉄骨が組み上がった段階の光景に魅せられ、入居したのでした。そのインテリアは、ミースの建築を硬質なモノとして実感せざるをえないように、つまり付け足したものはほとんど何もない状態になっていました。この人たちの住まいもやはりミースであり、タイガーマンのそれもまさにミースでありうるという、そこにもわがミースの比類のない建築を感じてしまった次第です。この一画がまるごと見えるミシガン湖の少し離れた岸辺から遠望すると、このアパートメントの両側や背後にはジョン・ハンコック・センターをはじめ、巨大なビルが取り囲み、押し包んでいます。それでもレイクショア・ドライブは他と画然としている。磯崎さんの言葉を借りれば「無限連続」へと踏み出しているからなのでしょうか。(文責・植田)
追伸 前回第十信(遠州の孤篷庵忘筌)は、ようやく『栖』の現場から郵送することができました。書簡受取人のひとり奈良の西田考作さんを誘って磯崎さん設計の京都コンサートホールを見学、ちょうど小ホールで開かれていたピアノ演奏会に潜りこみ最終奏者の一曲を聴いてから、大徳寺孤篷庵に向かい(残念ながら忘筌は公開されておらず、拝観は入り口付近だけでしたが)、往時を偲び、炎暑の京都を楽しみつつ京都中央郵便局から投函しました。
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紐をかける前のパッケージ

第十一信パッケージ中面の青焼き

パッケージには一通づつ異なる記念切手を貼る

第十一信35通を並べ恒例の記念撮影

今回の投函イベントは当時日本で一番小さな大学と言われていた千葉県印西市にある東京基督教大学を尋ねることでした。
この大学付属のチャペルが磯崎新設計によるものだとは、磯崎新ファンでも知る人は少ないでしょう。磯崎新先生にはもうひとつ教会建築があります。

何事かといぶかる大学事務室に頼み込んで「栖十二」を担いでチャペルに入れていただきました。
モンローチェアーやマッキントッシュのハイバックチェアを連想します。

今回も書簡受取人の寺下さんに車を運転していただき無償奉仕していただきました。

1999年8月30日千葉県印西郵便局から〈栖 十二〉第十一信35通を発送。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
昨日2011年の営業を終了し、夕方からは納会(忘年会)となりました。
展示してある磯崎新銅版画連作『栖十二』の企画者である植田実先生はじめ、来年個展を予定している大竹昭子さん、井桁裕子さん、尾形一郎・優さんなど作家や、顧客の皆さんにお集まりいただき賑やかに2011年を語りあいました。
13年前の企画意図を説明しながら『栖十二』を手に、連作誕生の思い出を語る植田実先生。
さてこの連作紹介も本日で11回目。
磯崎新が古今東西の建築家12人に捧げた銅版画連作〈栖十二〉の全40点は1998年夏から翌1999年9月にかけての僅か1年間に制作されました。
予め予約購読者を募り、書簡形式の連刊画文集『栖 十二』―十二章のエッセイと十二点の銅版画―を十二の場所から、十二の日付のある書簡として限定35人に郵送するという、住まいの図書館出版局の植田実編集長のたくみな企画(アイデア)が磯崎先生の制作へのモチベーションを高めたことは間違いありません。
このとき書き下ろした十二章のエッセイは、1999年に住まい学大系第100巻『栖すみか十二』として出版されました。
その経緯は先日のブログをお読みいただくとして、1998~1999年の制作と頒布の同時進行のドキュメントを、各作品と事務局からの毎月(号)の「お便り」を再録することで皆様にご紹介しています。
第十一信はミース・ファン・デル・ローエ[レイクショア・ドライヴ]です。
磯崎新〈栖 十二〉第十一信パッケージ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画35》ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画36》ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
磯崎新〈栖 十二〉第十一信より《挿画37》ミース・ファン・デル・ローエ
[レイクショア・ドライヴ] 1948-51年 シカゴ
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第十一信・事務局連絡
一九九九年八月三〇日千葉県・印西郵便局より発送
関東地方は溌剌とした入道雲と傲然たる雨が入れかわり立ちかわり、どこか過剰な夏ですが、皆様お元気でお過ごしのことと拝察します。『栖十二』第十一信をお送りします。第一信以来、ちょうど一年になりました。
茶室の次は集合住宅と、劇的な展開ですが、レイクショア・ドライブ・アパートメントは、磯崎さんの眼を通して見ると、集合「住宅」とはもはやいえない、もっと先のどこか恐ろしい世界につながっています。
書簡の冒頭で、六〇年代はじめに磯崎さんがマンハッタンを訪れたときのことが書かれています。その前に立ち寄ったサン・ジミニアーノが同じ塔の林立する町として知られていながら、両者の構造がまったく違うものであることが指摘されている。この旅行から帰ってすぐあと、つまり一九六四、五年にもニューヨークとサン・ジミニアーノについての文章がいくつか書かれています。とりわけ「虚像と記号のまちニューヨーク」(『建築文化』六四年一月号)は、やはりサン・ジミニアーノを引き合いにしながら、ニューヨークという都市の構造を一瞬にして見抜いてしまった凄味が迫ってきます。「スケールのすべてに量と構造が優先するのがアメリカの超高層のデザイン」であり、ヨーロッパの建築とはまったく異なる建築が発生してしまったアメリカという場所では、ゴシックやロマネスクのようなモチーフに依拠して人間のスケールや感触をとり戻そうとしても、それはただ「中世病」にとりつかれたにすぎない。ニューヨークでは建築だけでなく、道も「全く抽象的に割りきられた」として変質しているのだから、郊外の木造住宅群まで、ヨーロッパ的概念での住宅とは違って、ファサードの装飾的な表皮やペンキの色による差異をつくり出していながら、すべては同質であることが一瞥して分かる、というわけです。
「スカイスクレーパーの圧倒する空間とたたかうには、やはり、『中世病』などではおおいきれない。建築のイメージを立体的な都市そのものに置換したり、あたらしい都市の存在のイメージを観念として創出する。そのような行為をつうじてしか正面きったストラグルはおきそうにもない。マンハッタンはそういう建築の存在の次元をかえさせるような都市空間を無意識に生産しているのではないかと僕には思えるのだ」。この決定的な視点をもつにいたった磯崎さんは、まだ三〇代の初めでした。
翌年、『SD』六五年八月号の特集「ニューヨークの再発見」では、磯崎さんは「立体格子」というタイトルで図版構成を手がけています。ソウル・スタインベルグのマンガやモンドリアンの絵画とダブって、構造体が組み上がった時点での超高層ビルの工事現場の写真がある。それは日本の超高層ビルなどとはまるで違う、すぐにでも建築の枠を断ち切ってしまう無限の「立体格子」のようにみえるのでした。
さらに『Space Modulater』六五年八月号の「座標と薄明と幻視」では、金曜日の夕暮のパーク・アベニュの、人気のなくなったビルに照明がつけられ、内外を通して「すべてが均質な光景」になり、重量の消失した物質が無限に連続していく、つまり立体格子という観念が幻覚のように目のあたりに見える瞬間をつぶさに観察しています。しかもそうした光景を生んだマンハッタンの歴史的起源に溯ることから始めて、代表的な超高層をひとつひとつ分析し、シカゴとの関係、その他ワシントンDCからロスアンゼルスまでを見渡しながらアメリカの新しい都市空間の徴候を検証するという、じつに綿密な考察まで、磯崎さんはなし遂げていました。
その後も磯崎さんは折にふれ、この問題に言及しています。とりわけその立体格子の原基ともいえるミース・ファン・デル・ローエのレイクショア・ドライブ、また同じミースでも異なる局面をもつシーグラム・ビルやファンスワース邸については、六四年以前から現在まで、強い関心に裏づけられた発言がとても印象的でした。しかし今回の第十一信は、「栖」という因子によって、その構図がさらに拡がり、深められています。その視座からミースを語る作品として、ファンスワース邸ではなくレイクショア・ドライブが選ばれたのは当然でしょうし、そこから私たちが連想してしまう『二〇〇一年宇宙の旅』もちゃんと登場しています。
私も四、五年前レイクショア・ドライブの一住戸を訪ねたことがありました。住み手はミースの信奉者で、このアパートメントの鉄骨が組み上がった段階の光景に魅せられ、入居したのでした。そのインテリアは、ミースの建築を硬質なモノとして実感せざるをえないように、つまり付け足したものはほとんど何もない状態になっていました。この人たちの住まいもやはりミースであり、タイガーマンのそれもまさにミースでありうるという、そこにもわがミースの比類のない建築を感じてしまった次第です。この一画がまるごと見えるミシガン湖の少し離れた岸辺から遠望すると、このアパートメントの両側や背後にはジョン・ハンコック・センターをはじめ、巨大なビルが取り囲み、押し包んでいます。それでもレイクショア・ドライブは他と画然としている。磯崎さんの言葉を借りれば「無限連続」へと踏み出しているからなのでしょうか。(文責・植田)
追伸 前回第十信(遠州の孤篷庵忘筌)は、ようやく『栖』の現場から郵送することができました。書簡受取人のひとり奈良の西田考作さんを誘って磯崎さん設計の京都コンサートホールを見学、ちょうど小ホールで開かれていたピアノ演奏会に潜りこみ最終奏者の一曲を聴いてから、大徳寺孤篷庵に向かい(残念ながら忘筌は公開されておらず、拝観は入り口付近だけでしたが)、往時を偲び、炎暑の京都を楽しみつつ京都中央郵便局から投函しました。
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紐をかける前のパッケージ

第十一信パッケージ中面の青焼き

パッケージには一通づつ異なる記念切手を貼る

第十一信35通を並べ恒例の記念撮影

今回の投函イベントは当時日本で一番小さな大学と言われていた千葉県印西市にある東京基督教大学を尋ねることでした。
この大学付属のチャペルが磯崎新設計によるものだとは、磯崎新ファンでも知る人は少ないでしょう。磯崎新先生にはもうひとつ教会建築があります。

何事かといぶかる大学事務室に頼み込んで「栖十二」を担いでチャペルに入れていただきました。
モンローチェアーやマッキントッシュのハイバックチェアを連想します。

今回も書簡受取人の寺下さんに車を運転していただき無償奉仕していただきました。

1999年8月30日千葉県印西郵便局から〈栖 十二〉第十一信35通を発送。
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