森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験 - その2 栗山豊のこと」
アンディ自身の収集物の総称「タイム・カプセル」を彼のアートとした場合、この男はそれを極東アジアの島国でさらに拡張させていたのである。それは男の作品行為でもあった。アンディ・ウォーホルがメディアを媒介とした交信を作品としていた場合、これから書くことは日本のアーティストからの極私的返信だったと考えられる。
日本でのアンディ・ウォーホル受容史を語るうえでこの男のことははずせない。その男の名は、栗山豊。2月22日は彼の命日(ウォーホルと同日)である。栗山と会ったとき私は新聞記者をしていた。どこで出会ったのかは定かではないが確か1977年だったと思う。彼が自分のアート本「PORTRAITS - ONE HUNDRED PORTRAITS AND NAMES」を送付してきたか、この本をどこかで見て購入し、その本に書かれている電話番号に電話してお会いしたかである。というのも、私も前述の通り60年代からアンディ・ウォーホルを追跡してきたからだ。その本の1ページ目がウォーホルで始まり、似顔絵、写真、絵画を通して構成されている人脈図画がウォーホル式に並び、60'sの地下アートシーンの顔ぶれを交えて構成されていたので興味を持った。私見ではウォーホルもそうだが、60年代に重要な新たな芸術動向に気付いていた人々は実は地下アートシーンの人々だったと思っている。この流れは美術館的に、いまだ正確に歴史化し得ていない。私はかねがね不思議に思ってきたのだが、日本は60年代の長岡現代美術館周辺、もしくは具体、ネオダダ周辺から派生した60年代の動きをきちんと体系付けて捕捉し得ていない。
ウォーホル芸術の根幹には「インデックス性(イコン・インデックスといった記号論的な意味合いではなく文字通り索引・指標、転じて並列・整理のこと)」があり、私や栗山らはそこにはまったのかとも思う。アンディのアートにはポケモンカード集めのようにメディア上で情報をコレクションさせるようなメディア・ゲーム性が最初から仕組まれていた。私たちはその最初のプレーヤーだったのだ。
当時、栗山は吉祥寺に住んでいて、そこに案内された。それから2001年に街路で倒れ看取る人も無く逝ってしまうことになるまで、あるときは原宿・青山あたりの洒落たバーで、またはゴールデン街の安酒場でウォーホルと現代美術をめぐる談義がいつ終わるともなく果てしなく続いた。このような有り様そのものもウォーホル・エフェクトのひとつで、そこでは寝ても醒めても、夢の中までアート漬けになるのだった。ここまでくるとただのディレッタンティズムでは済まない何ものかなのであった。私のほうが新しい情報を彼が知るよりも先に話したとき、たとえばラッツ&スター(元シャネルズ)のジャケットをアンディがデザインしたことを知らなかったときなど、きまって栗山は機嫌が悪くなった。自分が日本一のウォーホル・ウォッチャーだと自負していたからである。
さて、77年、吉祥寺の部屋で私は彼に取材をした。「街頭似顔絵描き、ウォーホルに会う」といった記事だった。同年に栗山はニューヨークに飛び、表からの面会がままならなかった彼はまるでスクープ専門のジャーナリストのようにブロードウェイ860番地のスタジオ(この頃はもうファクトリーとは呼ばなくなっていた)前で連日昼夜張り込みをしてようやくご本尊、アンディ・ウォーホルに遭遇し、一瞬のシャッターチャンスをものにした。そのことを記事にしたのである。その瞬間、アンディは「おう」と一言いって足早に通り過ぎたという。68年に“SCUM"(Society for Cutting Up Men、全男性抹殺団の略)ヴァレリー・ソラナスによって至近距離から32口径自動小銃で撃たれていたのでシャッター音に少し驚いたのかもしれない。撮影された写真を見る限りそんな表情をしている。
栗山に関しては、彼が都知事選「Fever! Akiyama」(1979)のポスターを作った秋山祐徳太子らが指摘しているように、お祭りのたびに全国を回るフーテンの寅さんのような風来坊の街頭似顔絵描きを生業(なりわい)としていた。しかし、私が思うに、それは表向きの顔であって栗山は最初からシリアスな何らかのコンセプチュアル・アーティストだった。大阪市立美術館付属美術研究所から文化学院にいった栗山は現代美術がまだごく少数派のものだった時代より精通していた。彼がやろうとしていたのはアカデミックな芸術ではなくて、ジャック・ケルアックではないが文字通り路上からであり、底辺からであり、メッセージを草の根的に送り出すといった個人メディア的表現方法だったのではなかったか。それをアナログ・テレビ時代にやっていた。そのことを河原温はわかっていたので、「I got up」のメールアートを栗山に返していたのだと思う。実際、有名人の似顔絵を159人にのべ250回送る概念的なメールアート「絵画の現象学」(1971-1973)など栗山のプロジェクトはいくつかあったが、これはまたの機会に述べよう。
ウォーホル受容史に関していえば、初めて吉祥寺の安アパートを訪ねたとき以来、ウォーホル受容の資料を収集する手続きに関しては彼にまかせて、私はもっぱら芸術的潮流の受容に関して思考するようになっていった。アンディ・ウォーホルが日本にもたらした最大のものは「絵画・彫刻から情報環境へ」もしくは「絵画・彫刻から現象へ」という現代美術の大きなうねりそのものだったと思う。今日の映像や写真、あるいはインスタレーションへの流れはもちろんウォーホルひとりによってなされたのではないことは自明だ。しかし、日本においてはそうした大きな潮流の最初のシンボリックな位置づけとしてウォーホルが存在したわけで、このことは真摯に再検証される必要があるだろう。かくいう私も芸術のために今後さらに重要になるであろう情報環境というものを知るために構造主義的実践として一度自ら新聞記者になってみたのだった。
「かれがかれのアートだったんだ。かれのスタジオもかれのアートだった。イーディは、かれのアートの一部だったんです。ほかの大勢の連中もそうだった。かれと比べれば、わたしなどは、古風な芸術家でしたね。」( ロイ・リキテンスタイン「イーディ」 ジーン・スタイン、ジョージ・プリンプトン著 青山南他訳 筑摩書房刊 1989 P266 )
後年、体調を崩してから栗山に資料の行く先について相談されたことがあった。私は「現代版画センター(ときの忘れもの)」に預けたらどうかと助言した。栗山豊が蟻のようにせっせと生涯にわたり作成した膨大な資料と年表は1996年に東京都現代美術館で開催された大回顧展「アンディ・ウォーホル 1956~86:時代の鏡」図録を見るまでもなく、いまや日本におけるウォーホル受容史の中核を成す最重要なデータと化しているのだ。(敬称略)
(もりしたたいすけ)

栗山豊「PORTRAITS - ONE HUNDRED PORTRAITS AND NAMES」1974 本、オフセット印刷 筆者蔵

岡本太郎と栗山豊

新宿の彼のデスクにある栗山豊作品「河原温」1993 キャンバスにアクリル 606×500mm

栗山豊「Andy Warhol」1977 銀塩プリント

森下泰輔「White Out Painting Series シルヴィ・バルタンとビートルズ 1964年、パリ・オランピア劇場」 2014 キャンバスにアクリル、ピグメントインク、油彩、鉛筆
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
*画廊亭主敬白
2001年2月22日奇しくもウォーホルの命日に路上で倒れ看取る者もなく死んだ栗山豊のことは雑誌『STUDIO VOICE』に書いたことがあります。
上掲の森下さんの回想によれば、栗山の遺した膨大なウォーホル資料が亭主のもとに来たのは森下さんのアドバイスがあったようです(亭主は知りませんでした)。
秋山祐徳太子さんが著書『泡沫傑人列伝 知られざる超前衛』に<栗山豊氏の巻 路上のウォーホル ”世界を点々とする画家”>を書いていますが、秋山さんの許可を得てホームページに再録していますのでお読みください。
栗山から託された資料ファイルは2006年に一部を公開したことがありますが、再び若い人たちに見てもらえるような公開の機会を近々つくりたいと思っています。ご期待ください。
◆ジョナス・メカス新作映画「幸せな人生からの拾遺集」の特別上映会を2月28日(金)18時より開催しますが、既に定員に達したので、受付は終了しました。
◆ときの忘れものは2014年2月5日[水]―2月22日[土]「西村多美子写真展―憧景」を開催しています。
[ときの忘れもの]での展示は本日が最終日ですが西村さんは終日在廊の予定です。どうぞお出かけください。
出品リストはホームページに掲載しました。

本展は六本木の ZEN FOTO GALLERY との共同開催です(会期が異なりますので、ご注意ください)。
第1会場 ZEN FOTO GALLERY
「西村多美子写真展―しきしま」
会期:2014年2月5日[水]―3月1日[土]
※日・月・祝日休廊
第2会場[ときの忘れもの]での展示は本日が最終日です。
「西村多美子写真展―憧景」
会期:2014年2月5日[水]―2月22日[土]
※会期中無休
●『西村多美子写真展―憧景』の出品作品を順次ご紹介します。
出品番号19:

西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《標津付近、北海道》
(p.14-15)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.7×28.7cm
シートサイズ :25.0×30.5cm
サインあり
出品番号20:

西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《函館、北海道》
(p.124-125)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.7×29.0cm
シートサイズ :25.0×30.5cm
サインあり
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アンディ自身の収集物の総称「タイム・カプセル」を彼のアートとした場合、この男はそれを極東アジアの島国でさらに拡張させていたのである。それは男の作品行為でもあった。アンディ・ウォーホルがメディアを媒介とした交信を作品としていた場合、これから書くことは日本のアーティストからの極私的返信だったと考えられる。
日本でのアンディ・ウォーホル受容史を語るうえでこの男のことははずせない。その男の名は、栗山豊。2月22日は彼の命日(ウォーホルと同日)である。栗山と会ったとき私は新聞記者をしていた。どこで出会ったのかは定かではないが確か1977年だったと思う。彼が自分のアート本「PORTRAITS - ONE HUNDRED PORTRAITS AND NAMES」を送付してきたか、この本をどこかで見て購入し、その本に書かれている電話番号に電話してお会いしたかである。というのも、私も前述の通り60年代からアンディ・ウォーホルを追跡してきたからだ。その本の1ページ目がウォーホルで始まり、似顔絵、写真、絵画を通して構成されている人脈図画がウォーホル式に並び、60'sの地下アートシーンの顔ぶれを交えて構成されていたので興味を持った。私見ではウォーホルもそうだが、60年代に重要な新たな芸術動向に気付いていた人々は実は地下アートシーンの人々だったと思っている。この流れは美術館的に、いまだ正確に歴史化し得ていない。私はかねがね不思議に思ってきたのだが、日本は60年代の長岡現代美術館周辺、もしくは具体、ネオダダ周辺から派生した60年代の動きをきちんと体系付けて捕捉し得ていない。
ウォーホル芸術の根幹には「インデックス性(イコン・インデックスといった記号論的な意味合いではなく文字通り索引・指標、転じて並列・整理のこと)」があり、私や栗山らはそこにはまったのかとも思う。アンディのアートにはポケモンカード集めのようにメディア上で情報をコレクションさせるようなメディア・ゲーム性が最初から仕組まれていた。私たちはその最初のプレーヤーだったのだ。
当時、栗山は吉祥寺に住んでいて、そこに案内された。それから2001年に街路で倒れ看取る人も無く逝ってしまうことになるまで、あるときは原宿・青山あたりの洒落たバーで、またはゴールデン街の安酒場でウォーホルと現代美術をめぐる談義がいつ終わるともなく果てしなく続いた。このような有り様そのものもウォーホル・エフェクトのひとつで、そこでは寝ても醒めても、夢の中までアート漬けになるのだった。ここまでくるとただのディレッタンティズムでは済まない何ものかなのであった。私のほうが新しい情報を彼が知るよりも先に話したとき、たとえばラッツ&スター(元シャネルズ)のジャケットをアンディがデザインしたことを知らなかったときなど、きまって栗山は機嫌が悪くなった。自分が日本一のウォーホル・ウォッチャーだと自負していたからである。
さて、77年、吉祥寺の部屋で私は彼に取材をした。「街頭似顔絵描き、ウォーホルに会う」といった記事だった。同年に栗山はニューヨークに飛び、表からの面会がままならなかった彼はまるでスクープ専門のジャーナリストのようにブロードウェイ860番地のスタジオ(この頃はもうファクトリーとは呼ばなくなっていた)前で連日昼夜張り込みをしてようやくご本尊、アンディ・ウォーホルに遭遇し、一瞬のシャッターチャンスをものにした。そのことを記事にしたのである。その瞬間、アンディは「おう」と一言いって足早に通り過ぎたという。68年に“SCUM"(Society for Cutting Up Men、全男性抹殺団の略)ヴァレリー・ソラナスによって至近距離から32口径自動小銃で撃たれていたのでシャッター音に少し驚いたのかもしれない。撮影された写真を見る限りそんな表情をしている。
栗山に関しては、彼が都知事選「Fever! Akiyama」(1979)のポスターを作った秋山祐徳太子らが指摘しているように、お祭りのたびに全国を回るフーテンの寅さんのような風来坊の街頭似顔絵描きを生業(なりわい)としていた。しかし、私が思うに、それは表向きの顔であって栗山は最初からシリアスな何らかのコンセプチュアル・アーティストだった。大阪市立美術館付属美術研究所から文化学院にいった栗山は現代美術がまだごく少数派のものだった時代より精通していた。彼がやろうとしていたのはアカデミックな芸術ではなくて、ジャック・ケルアックではないが文字通り路上からであり、底辺からであり、メッセージを草の根的に送り出すといった個人メディア的表現方法だったのではなかったか。それをアナログ・テレビ時代にやっていた。そのことを河原温はわかっていたので、「I got up」のメールアートを栗山に返していたのだと思う。実際、有名人の似顔絵を159人にのべ250回送る概念的なメールアート「絵画の現象学」(1971-1973)など栗山のプロジェクトはいくつかあったが、これはまたの機会に述べよう。
ウォーホル受容史に関していえば、初めて吉祥寺の安アパートを訪ねたとき以来、ウォーホル受容の資料を収集する手続きに関しては彼にまかせて、私はもっぱら芸術的潮流の受容に関して思考するようになっていった。アンディ・ウォーホルが日本にもたらした最大のものは「絵画・彫刻から情報環境へ」もしくは「絵画・彫刻から現象へ」という現代美術の大きなうねりそのものだったと思う。今日の映像や写真、あるいはインスタレーションへの流れはもちろんウォーホルひとりによってなされたのではないことは自明だ。しかし、日本においてはそうした大きな潮流の最初のシンボリックな位置づけとしてウォーホルが存在したわけで、このことは真摯に再検証される必要があるだろう。かくいう私も芸術のために今後さらに重要になるであろう情報環境というものを知るために構造主義的実践として一度自ら新聞記者になってみたのだった。
「かれがかれのアートだったんだ。かれのスタジオもかれのアートだった。イーディは、かれのアートの一部だったんです。ほかの大勢の連中もそうだった。かれと比べれば、わたしなどは、古風な芸術家でしたね。」( ロイ・リキテンスタイン「イーディ」 ジーン・スタイン、ジョージ・プリンプトン著 青山南他訳 筑摩書房刊 1989 P266 )
後年、体調を崩してから栗山に資料の行く先について相談されたことがあった。私は「現代版画センター(ときの忘れもの)」に預けたらどうかと助言した。栗山豊が蟻のようにせっせと生涯にわたり作成した膨大な資料と年表は1996年に東京都現代美術館で開催された大回顧展「アンディ・ウォーホル 1956~86:時代の鏡」図録を見るまでもなく、いまや日本におけるウォーホル受容史の中核を成す最重要なデータと化しているのだ。(敬称略)
(もりしたたいすけ)

栗山豊「PORTRAITS - ONE HUNDRED PORTRAITS AND NAMES」1974 本、オフセット印刷 筆者蔵

岡本太郎と栗山豊

新宿の彼のデスクにある栗山豊作品「河原温」1993 キャンバスにアクリル 606×500mm

栗山豊「Andy Warhol」1977 銀塩プリント

森下泰輔「White Out Painting Series シルヴィ・バルタンとビートルズ 1964年、パリ・オランピア劇場」 2014 キャンバスにアクリル、ピグメントインク、油彩、鉛筆
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
*画廊亭主敬白
2001年2月22日奇しくもウォーホルの命日に路上で倒れ看取る者もなく死んだ栗山豊のことは雑誌『STUDIO VOICE』に書いたことがあります。
上掲の森下さんの回想によれば、栗山の遺した膨大なウォーホル資料が亭主のもとに来たのは森下さんのアドバイスがあったようです(亭主は知りませんでした)。
秋山祐徳太子さんが著書『泡沫傑人列伝 知られざる超前衛』に<栗山豊氏の巻 路上のウォーホル ”世界を点々とする画家”>を書いていますが、秋山さんの許可を得てホームページに再録していますのでお読みください。
栗山から託された資料ファイルは2006年に一部を公開したことがありますが、再び若い人たちに見てもらえるような公開の機会を近々つくりたいと思っています。ご期待ください。
◆ジョナス・メカス新作映画「幸せな人生からの拾遺集」の特別上映会を2月28日(金)18時より開催しますが、既に定員に達したので、受付は終了しました。
◆ときの忘れものは2014年2月5日[水]―2月22日[土]「西村多美子写真展―憧景」を開催しています。
[ときの忘れもの]での展示は本日が最終日ですが西村さんは終日在廊の予定です。どうぞお出かけください。
出品リストはホームページに掲載しました。

本展は六本木の ZEN FOTO GALLERY との共同開催です(会期が異なりますので、ご注意ください)。
第1会場 ZEN FOTO GALLERY
「西村多美子写真展―しきしま」
会期:2014年2月5日[水]―3月1日[土]
※日・月・祝日休廊
第2会場[ときの忘れもの]での展示は本日が最終日です。
「西村多美子写真展―憧景」
会期:2014年2月5日[水]―2月22日[土]
※会期中無休
●『西村多美子写真展―憧景』の出品作品を順次ご紹介します。
出品番号19:

西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《標津付近、北海道》
(p.14-15)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.7×28.7cm
シートサイズ :25.0×30.5cm
サインあり
出品番号20:

西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《函館、北海道》
(p.124-125)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.7×29.0cm
シートサイズ :25.0×30.5cm
サインあり
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