杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第8回
1990 ギャラリーホワイトアート
カシュウ吹き付けのたびに水研ぎ研磨して平滑にしてから、さらに吹きつけるという、ウレタン塗装とまったく同じやりかたで厚みを重ねていく作業をした。
はたしてウレタンと同じようなツヤが出せるかどうか。組成が漆と似ている。カシュウ吹きつけ専用シンナーを使ってみたら、結果は、筆刷毛で塗っていたときの乾燥の悪さ縮み現象とは雲泥の差があり、翌日には次の研ぎ塗り作業が可能なまでに乾燥していてどんどん仕事を進めることができた。水研ぎの当たりは、ウレタンより幾分柔らかいせいか、ペーパーで楽に手作業ができた。カシュウの難をあえて挙げれば、和色なので、黒はともかく赤系の色数が限られていることである。つや出し効果に大変すぐれている。
1992 J2ギャラリー
赤坂の宮脇愛子さん宅で丸山きよ子さんとお茶していたときに、「行きつけの美容師の仲村くんが銀座に画廊を開いたのだけれど、展覧会をしてもらえないかな」ということで、その年は信頼する岡田昌宏さんを紹介して翌年開催することにした。リシツキーの《雲の鐙》よろしく、上辺がぐっと水平に飛び出て空間に突き出すシリーズだった。壁にはこれと呼応すべく、同寸の細長い白い矩形体が2本設置され、飛翔感を強めた。
この形は1987年のギャラリー+1におけるほぼ同寸の黒い鏡面壁体を継承しているが、今回のこれは上辺部分10cmに平行して切り込みが入り、反りとむくりが反転するトポロジカルillusionが施されている。正方形にL字を引っ付けたようなこの形、アトリエ隅に転がっていた60×90cmの端材だったが、シルエットが面白かったのでこれを底板にして7㎝厚の枠をつけパネル化したのだ。この図は、1993新潟の創庫美術館に再設置したときのものである。
用いたメディウムは1990年のギャラリーホワイトアートと同じく、白いカシュウ塗料によって吹き付け交互研磨し、最後に透明カシュウ塗料をごく薄くタンポ摺りしてチタニウムホワイト粉で拭きあげ、呂色仕上げをしている。呂色仕上げの原理はウレタン塗料におけるコンパウンド研磨後のシリコンやワックス処理に相当する。最終磨きのあとの残りキズをさらに、透明カシューを溶剤で薄くタンポ摺りで埋め、チタニウム粉(漆では鹿の角粉)で傷埋め以外の滓を拭いとる理屈だ。古人はよく着想したものである。

【1992 壁体床置き白色カシュー吹き付け水研ぎ研磨交互重層蠟色磨き ©奥村基】

【1992 壁体床置き白色カシュー吹き付け水研ぎ研磨交互重層蠟色磨き ©早川宏一】
1993 ギャラリーαM 高木修企画
1992年に高木修企画による『櫻井美智子展』があり、彼女は市販プロポーション木枠の矩形では無く、分厚く表面性をより強化した楕円形キャンバスでの絵画を発表していた。それが縁で高木と面識を得た酒席で、翌年やってみる気があるかないかと迫られた。ちょうど翌朝は愛子さんのデファンスの『うつろひ』増設だったか、海外出張で成田から発たねばならず、タイトな制作期間など計算する余裕も無いまま受けてしまった。高木修の直線直角と高さ140cm目線へのこだわりを何かのテキストで読んだ記憶があった。直角・140cmをポイントに、アイデアを練った。アトリエに来た高木は合板段階のキューブと、連結して組み上げたアイデアスケッチを見ると快諾してくれた。
じつは当初は90cm角のキューブ12個を連ねる予定で制作していたのだが、高木がアトリエに来て見て、あまりの嵩に70cm角×10個に縮小案が出された。たしかに2個積み上げるとピッタリ140cm高になるではないか。これ幸いに従うことにした。スケールと量の決断とは、ルナミ画廊における榎倉康二からの引き算の指摘でもそうであったように、空間把握においていつも迷わされる悩みの種であった。まあ、これで塗装作業もいくぶん楽になった。
70cm直角キューブ×10の門型床設置、70×140×420cm 、表面はurethan鏡面塗装ウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層によった。
1994 J2ギャラリー 試みるパール
十文字45°反時計回り捻り立柱、ウレタン鏡面研磨
初めてパールリキッドを使用した。淡い〈パールリキッドライラック〉と淡い〈パールリキッドベールブルー〉の2色を地色に応じて使い分ける。以後、明色には最終クリヤー吹きつけにほぼ混入している。作品を光にすかすと、細かいパール粒子が微かに輝く。メタリック粒子よりさらに細かいので作品が軽く感じられ開放感が得られる。ただし太陽光のような強い光を照射しないと沈んで、リフレクション効果がうすい。
1994 ギャラリー宏地
ギャラリー宏地は神田の医療機器問屋街の一角にあった。櫻井美智子の展覧会だったかオーナーの石坪夫妻と話すうちに、杣木の従兄弟の石坪と親類筋ではないかみたいな話になって個展をさせてもらった。ぜひこの会場で、前年αM個展1993の発展系を試みたかった。重力を意識した、直角空間による鉛+黒いurethan鏡面を組み合わせた。
捻りも歪みもない。直角空間構成であった。床に3点と、壁に12cm×270cmの横に細いL形鉛を噛ませたウレタン黒パネルが2点の全5点。1㎜厚の鉛ロールから合板表面に接着したらすごい重さになってしまった。1993αMを継承した通気空間ある直角体を構成した。
1997 ギャラリー宏地

【ベイスギャラリー櫻井英嘉展で、作家、櫻井美智子、小鶴幸一、牛腸達夫 ©櫻井彩子】
床には、直角と45°からなる多面体の組み上げ床置きで、鉛+urethan鏡面塗装の複合体を1点。そして、櫻井英嘉の新作の度ごとに強く感化されてきたから、今回の新作では、一度は試みてみたかった水性リキテックスメディウム+色彩顔料によって、刷毛塗り水研ぎ交互重層を試みた。
ちょうどホルベインの画材奨学生募集に応募したら久保田幹夫、櫻井英嘉の審査で一発通過し、大量の原色顔料を獲得できた。とくにカドミウム系レッドからイエロー、それにジェルメディウムは重宝した。また、ホルベインの久保田さんには1996年、原美術館における「宮脇愛子絵画1959-1964展」で大変お世話になっていた。愛子さんの一大絵画展の前年から準備に取りかかった。その愛子さんの出品絵画修復をすべて一任されたので何度も熱海の実家に通い詰めたのだ。
一部が未完のままの大作があって、その部分を補充しなくてはならなかった。もう愛子さんが使っていた大理石の在庫など熱海に見当たらなくて四苦八苦のさなか、久保田さんには、いろいろな大理石粉のサンプルをこころよく無償で調達していただいたのだった。
今回はホルベインから手に入れたカドミウムレッドによる彩色であった。ちょうど成田克彦夫人から遺品の極厚の帆布一巻、成田さんが炭を焼いた八王子の青木製材所にあるというので、もらい受けたばかりだった。これを使い、パネルに帆布を糊張りして開始したのだが、その極厚目地を平滑にするため石灰を用いて壁塗りのように箆付けしたので下地の段階で大変な重さになってしまった。
1977年に初めて櫻井英嘉の作品を目にしていたのだが、じつに遅まきながら、この展覧会を契機に、櫻井美智子の引き合わせで作家本人と知遇を得たのだ。作品を一渡り見ていただいた後に、「塗るとは、こういうことなのだよ!」という尊敬してやまない塗りの大家からのお褒めの言葉をいただいた。以後、妻ともども、たいへん親しくさせていただいた。このころから氏は病と闘われてもいたが、定期的に体調を記したお葉書をいただいていた。万年筆で几帳面に横書きされた文字列を見ていると、あの横ストライプ作品を彷彿させた。

【1996ギャラリー宏地個展準備urethan吹き付け塗装と研磨】
2000 川崎IBM市民文化ギャラリー 櫻井英嘉へのオマージュとして
1999年に惜しくも亡くなられた櫻井英嘉へのオマージュを込めて2000年、川崎IBM市民文化
ギャラリー個展作品において、水性アクリリックによる、原色(赤、青、黄)medium交互吹き
付け重層黒化、第2次色(橙、緑、紫)medium交互吹き付け重層黒化を試みた。
2001 ABST 1998高木修の声かけに7名が集まった
横浜ポートサイドギャラリー
2001「第1回ABST展」出品作は、高木修に傾倒した、1994ギャラリー宏地作品の系譜にあり、より空間化して板材で構成し塗装研磨交互重層した。ここで表面はパールリキッドライラックとペールブルーを分割対比させている。
1998年11月に、神田ときわ画廊で高木修にバッタリ出会った。「これから一緒に活動していかないか」の旨の声かけをいただいた。メンバーは高木のほかに、牛腸達夫、後藤寿之、前田一澄、市川和英で「ほかに誰か居る?」というからすぐに、ミニマリストの大塚信太郎を推した。ちょうど近くの秋山画廊で大塚信太郎の個展中だったので皆で移動した。今回の新作は真っ白に磨き込んだ、エッヂの無いシンプルな楕円体に展開していた。
顔合わせしたあとで、ちかくの居酒屋で待つ美術評論家の藤枝晃雄と合流した。
高木が「このメンバーで活動をしていく」意思を告げると、藤枝は「『抽象』がいいよ!」と、ただちに名称を提案してくれた。
高木が”Abstract”を詰めて”ABST”ということになった。高木は互いに緩やかな繋がりを望んだから、なんと、その後25年も活動したのである。
横浜ポートサイドギャラリーにおける7人展が「ABST」を結成してから最初の展覧会だった。展覧会に合わせて7人のエッセイを寄せた最初のテキスト集『ABST 』第1号を刊行した。毎月定例会で銀座に集まったが、ゲストをお招きしてレクチャーを依頼することもあった。じつに面白い講演内容は、大塚信太郎が録音して杣木が文字起こしした。『ABST』第3号からゲストレクチャーも冒頭掲載することになった。2004年『ABST 』第3号の目次には、「抽象の生成」藤枝晃雄、「20世紀の抽象をどうとらえるか―理論的整理」谷川渥、「ミニマル・アート―透明性と不透明性」松本透とある。展覧会とテキスト集の刊行は、2024年1月『ABST』展まで継続したのだった。

【杣木作品の前で、大塚信太郎、前田一澄、宮脇愛子、市川和英、後藤寿之】

【2001 第1回 ABST 杣木浩一Untitled 合板、グラスウール、ウレタン塗装 ©森岡純】
(そまき こういち)
■杣木浩一(そまき こういち)
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)、2024年「杣木浩一×宮脇愛子展」(ときの忘れもの)など。
制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」次回は4月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、杣木浩一です。
《無題》
1994年
ウレタン、合板
21.0×21.0×83.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
アートフェア東京が始まりました。
亭主は社長のお供で毎日有楽町に通い、数時間の短い滞在ですがうろうろしています(ブースが狭い上に作品がぎっしり詰まっているので私たちは邪魔になる)。
建築(佐藤研吾)とフルクサス関連の展示が中心ですが、来場者の反応で予想外なのはジョナス・メカスさんへの注目です。
私たちは1983年に初めてメカスさんを日本に招いて以来、ずっとメカスさんを扱ってきましたが、やっと時代が追いついたのか、DVDボックスへの注文をたくさんいただき喜んでいます。

1983年12月1日品川・原美術館にて
左から、靉嘔、綿貫不二夫、木下哲夫、ジョナス・メカス
●「アートフェア東京19(2025)」に出展参加しています
本日、佐藤研吾さんが15:00ごろ-19:00までブースにいるのでぜひお立ち寄りください。

会期=2025年3月6日(木)~3月9日(日)
会場:東京国際フォーラム B2FホールE/B1Fロビーギャラリー
出品作家:靉嘔、瑛九、倉俣史朗、佐藤研吾、塩見允枝子、ジョナス・メカス、細江英公、松本竣介
詳細は2月21日のブログに掲載しました。
皆様のご来場お待ちしております。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
杣木浩一作品

































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