ときの忘れもの 今月のお勧め
■2020年12月26日(土)  オディロン・ルドン 《ベアトリーチェ》

オディロン・ルドン
《ベアトリーチェ》
1897年
カラーリトグラフ
イメージサイズ:33.0×29.5cm
シートサイズ:51.6×38.4cm
Ed.100
※レゾネNo.168

山上紀子「オディロン・ルドン『聖アントワーヌの誘惑』第3集について」
荒井由泰「マイコレクション物語 第1回 ルドン作<光の横顔>の話」
東海林 洋「近代との距離 ”モネ それからの100年”と”ルドン ひらかれた夢」

オディロン・ルドン Odilon REDON 
フランスの象徴主義の画家。1840年ボルドー生まれ。15歳のときに画家のスタニスラス・ゴランから素描を学び、ゴランを通して知ったウジェーヌ・ドラクロワの作品などに感銘を受ける。また植物学者のアルマン・クラヴォーからの紹介で、エドガー・アラン・ポーやシャルル・ボードレールの文学にふれる。一時、画家ジャン・レオン=ジェロームの教室に通うが、新古典主義に順応できず地元に戻る。その後、ボルドーに定住していた放浪の版画家ロドルフ・ブレスダンに師事。ブレスダンのロマン主義的な作品から影響を受け、後の伝記的主題につながる。

普仏戦争後、素描家になることを決心してパリに移住し、木炭による素描を広く発表するための方法を模索する中、出入りしていたサロンでリトグラフ技法を教わり、これによって初の版画集『夢のなかで』(1879年)を出版。続いて、ポーの小説に着想を得た『エドガー・ポーに』(1882年)、チャールズ・ダーウィンの進化論を独自に解釈した『起源』(1883)を刊行し、作中では、世界を見通すための道具として「眼球」のモチーフを多用している。


■2020年12月22日(火)  オディロン・ルドン 〈聖アントワーヌの誘惑 第三集〉より 《XIII. そして頭を持たない目が軟体動物のようにただよっていた》

オディロン・ルドン
〈聖アントワーヌの誘惑 第三集〉より 《XIII. そして頭を持たない目が軟体動物のようにただよっていた》
1896年(1933年版)
リトグラフ
イメージサイズ:31.2×22.5cm
Ed.220
レゾネ No. 146

山上紀子「オディロン・ルドン『聖アントワーヌの誘惑』第3集について」
荒井由泰「マイコレクション物語 第1回 ルドン作<光の横顔>の話」
東海林 洋「近代との距離 ”モネ それからの100年”と”ルドン ひらかれた夢」

オディロン・ルドン Odilon REDON 
フランスの象徴主義の画家。1840年ボルドー生まれ。15歳のときに画家のスタニスラス・ゴランから素描を学び、ゴランを通して知ったウジェーヌ・ドラクロワの作品などに感銘を受ける。また植物学者のアルマン・クラヴォーからの紹介で、エドガー・アラン・ポーやシャルル・ボードレールの文学にふれる。一時、画家ジャン・レオン=ジェロームの教室に通うが、新古典主義に順応できず地元に戻る。その後、ボルドーに定住していた放浪の版画家ロドルフ・ブレスダンに師事。ブレスダンのロマン主義的な作品から影響を受け、後の伝記的主題につながる。

普仏戦争後、素描家になることを決心してパリに移住し、木炭による素描を広く発表するための方法を模索する中、出入りしていたサロンでリトグラフ技法を教わり、これによって初の版画集『夢のなかで』(1879年)を出版。続いて、ポーの小説に着想を得た『エドガー・ポーに』(1882年)、チャールズ・ダーウィンの進化論を独自に解釈した『起源』(1883)を刊行し、作中では、世界を見通すための道具として「眼球」のモチーフを多用している。1888年から1896年にかけて、代表作となるギュスターヴ・フローベールの文学作品を題材にした石版画集『聖アントワーヌの誘惑 第一集〜第三集』を制作。幻覚を見るような魔的な世界を、「あらゆる色彩の中で最も本質的な色」とした黒一色で表現した。第三集に限り、初版と1933年版の2種類のエディションが存在する。 1916年没。


■2020年12月15日(火)  野口琢郎 《Azure》

野口琢郎
《Azure》
2020年
箔画/木パネル、漆、金、銀箔、石炭、アクリル絵具、樹脂
55.0×100.0cm
Signed

野口琢郎「京都西陣から」
島敦彦「静謐な輝き—野口琢郎の箔画」
石鍋博子「文句なく世界一」

野口琢郎 Takuro NOGUCHI 
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家 箔屋野口に戻り、西陣織に使われる引箔製造の技法を応用し箔画作家として活動を開始、2004年に初個展開催、以来毎年個展を行なっている。ときの忘れものでは2012年、2014年、2018年に個展開催。

漆を塗った木のパネルに金・銀・プラチナ箔や石炭粉を接着する独自の技法を用いて、抽象的な街の風景〈Landscape〉シリーズや、花火をモチーフにしたシリーズ、海と空、夜明けや星空などの風景を題材に希望の光を感じられる美しさを作品に表現している。箔画の最大の魅力は、画面全体に箔が施されている為に、観る角度、光源の強弱や方向によって輝きが変化する所にあります。


■2020年12月08日(火)  難波田龍起 《青の風景》

難波田龍起
《青の風景》
1973年頃
油彩
45.5×38.0cm (F 8号)
サインあり

難波田龍起「絵画への道」(再録)
難波田龍起「瑛九について」(再録)
栗田秀法『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』
中尾美穂〜ギャラリートーク「難波田龍起と遺された作品について」に参加して
難波田龍起「生命体の集合」油彩120号と第七画廊
6月5日・開廊25周年と難波田龍起先生
難波田龍起銅版画集『街と人』『海辺の詩』発表記念展
綿貫不二夫「難波田龍起先生の銅版画」

難波田龍起 NAMBATA Tatsuoki  
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。

難波田先生は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。アトリエに初めて伺ったのは二人のご子息を亡くすという非運の直後でしたが、以後亡くなるまで20年にわたり版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。95年ときの忘れものの最初のエディションも『銅版画集 古代を想う』でした。


■2020年12月01日(火)  平嶋彰彦 《新宿三丁目(角筈一丁目) 御大典広場の飲食店》

平嶋彰彦
《新宿三丁目(角筈一丁目) 御大典広場の飲食店》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed

平嶋彰彦「東京下町の私的な体験」
平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展〜写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月24日(火)  倉俣史朗 《花瓶(1990)、花瓶》

倉俣史朗
《花瓶(1990)、花瓶》
2020年
シルクスクリーン10点組
37.5×48.0cm
限定 35部(1/35〜35/35)
発行 ときの忘れもの

「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」
倉俣史朗の版画
橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」全9回
植田実「手紙 倉俣さんへ」
植田実「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」
倉俣史朗の作品集と資料
倉俣史朗展のポスター

倉俣史朗 KURAMATA Shiro  
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2020年11月17日(火)  平嶋彰彦 《桜丘町 丸西アパート》

平嶋彰彦
《桜丘町 丸西アパートり》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展〜写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月10日(火)  平嶋彰彦 《永代 大島川西支川の舟溜まり》

平嶋彰彦
《永代 大島川西支川の舟溜まり》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed 

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展〜写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月04日(水)  平嶋彰彦 《高田馬場一丁目(諏訪町) 賄付き下宿日本館》

平嶋彰彦
《高田馬場一丁目(諏訪町) 賄付き下宿日本館》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed 

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展〜写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年10月27日(火)  マン・レイ  《ガラスの涙》

マン・レイ
《ガラスの涙》
c.1930年(1988年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:28.8×20.9cm
シートサイズ:30.0×22.0cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント
※額裏にツァイト・フォトのラベルシールあり

「ガラスの涙」とツアィト・フォト・サロン
小林美香「写真のバックストーリー第29回 マン・レイ”ジュリエット”」
石原輝雄「マン・レイへの写真日記」全24回
石原輝雄のエッセイ(ただいま連載中)
石原輝雄「ウィーンでのマン・レイ展報告」
銀紙書房『光の時代 レイヨグラフを中心とした、マン・レイと三條廣道辺り』
宮脇愛子「私が出逢った作家たち〜マン・レイのこと」
マン・レイによる宮脇愛子ポートレート

マン・レイ Man RAY 
マン・レイ(Man Ray, 1890年8月27日〜 1976年11月18日)はアメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。

レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。


■2020年10月20日(火)  靉嘔 《透明な波 スリランカ》

靉嘔
《透明な波 スリランカ》
1981年
シルクスクリーン (刷り:岡部徳三)
90.0x150.0cm
Ed.85 
サインあり

岡部徳三とシルクスクリーン/オノサト・トシノブ、靉嘔
中村惠一「靉嘔のレインボー・ディナーショー」
靉嘔・池田満寿夫「金沢八景ビル 壁画解体」
針生一郎「現代日本版画家群像」第7回 靉嘔と池田満寿夫

靉嘔 Ay-O 
1931年茨城県生まれ。本名・飯島孝雄。54年東京教育大学卒。53年瑛九ら「デモクラート美術家協会」に参加。55年池田満寿夫らと[実在者]を結成。58年渡米、以後ニューヨークと日本を行き来する。62年ハプニングを中心とする前衛芸術グループ[フルクサス]に参加。71年のサンパウロ・ビエンナーレはじめ各国際展で次々と受賞。全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品で世界的な評価を受ける。

1974年美術界に入り、版元として初めてエディションしたのが靉嘔さんの "I love you (Love letters)" でした。世界一を目指そうと未だ誰もやったことのないシルクスクリーン手刷りで限定11,111部という途方もない作品でした。 刷り上がった作品をトラックで靉嘔さんのアトリエに運び込み16時間ぶっ通しでサインして貰いました。お互い若かった!一目で虹=靉嘔とわかるほど、その作風は独創的でオリジナリティは強烈です。


■2020年10月13日(火)  植田正治 "無題"

植田正治
"無題"
1977
Type-Cプリント, 木製パネル
27.0×40.0cm
『植田正治作品集』(2016年、河出書房新社) P132参照

飯沢耕太郎「植田正治―世界に開かれたローカリティ」
大竹昭子<迷走写真館>一枚の写真に目を凝らす 第40回 植田正治
森本悟郎「その後・第13回 植田正治 (1) 写真展のはじまり」
森本悟郎「その後・第14回 植田正治(2) いつも新しい写真家」
『植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』    図録
『植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』   図録

植田正治 Shoji UEDA 
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1995年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005〜2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2020年10月06日(火)  宮森敬子 "Birdcage Without Roof #4"

宮森敬子
"Birdcage Without Roof #4"
2009年
鳥かご、樹脂、穀物、和紙、炭
30.0X21.5X35.0cm
サインあり


ご縁があって、5年ほど前から御代田(長野)のpacearound という雑貨店で作品を見せ始めました。広い店内に、ヨーロッパのアンティックや、クラフト、アートまで、若い店主の目で選んだものが並んでいます。わざわざ探してゆかねば行き着けない場所にあるのですが、地元の人たち、文化人にも愛されており、小諸に仕事場を持っていた文芸評論家の加藤典洋さんも、時々行かれていたのでした。そこで時々見る私の作品を気に入ってくださり、ご自分の掲載される文章の挿絵に使いたい、ということでやりとりが始まりました。
(宮森敬子のエッセイ 「ゆらぎの中で」 第1回より)


宮森敬子の連載エッセイ「ゆらぎの中で」
大藤敏行「宮森敬子個展/ある小説家の肖像〜生きているものと死んでいるものの間に〜」

宮森敬子 Keiko MIYAMORI 
1964年神奈川生まれ。 筑波大学大学院芸術研究科日本画専攻修了。三木多聞賞受賞(1994)、文化庁新進芸術家海外留学制度により米国ペンシルバニア大学大学院在籍(1998)。 2000年よりフィラデルフィアで、2011年よりニューヨークで制作をする。 第6回柏市文化フォーラム104大賞展TAMON賞-谷新の眼大賞(1995)、第16回今立現代美術紙展 大賞(1997)、リーウェイ財団 ウインドウオブオポチュニティー賞(2003)、The Meijer Sculpture Competition 大賞2004)、Leeway Foundation Transformation Award(2008)、センターフォーエマージングビジュアルアーティストトラベルグラント受賞(2009)The Independence Foundation Fellowships in the Arts 受賞(2010)、朝日新聞文化財団助成(2018)。

主な展覧会は、VOCA’97「現代美術の展望—新しい平面の作家達」(上野の森美術館/東京 、1997)、「拡兆する美術’97 」(つくば美術館/茨城、1997)、「流通と大地」(カスミつくばセンター/茨城、1998)などのグループ展に参加し、以降、アメリカ(フィラデルフィアやニューヨーク、ピッツバーグなど)を中心に日本、ドイツ、韓国などでのグループ展に多数参加。
作品は絵画、彫刻からインスタレーションに及び、現在は日本とアメリカを基盤に制作活動を行なっている。和紙や木炭を使い、異なる時間や場所に存在する自然や人工物の組み合わせを、個と全体のつながりに注目した作品を作っている。


■2020年09月30日(水)  オノサト・トシノブ "白い大小の円"

オノサト・トシノブ
"白い大小の円"
1955年
キャンバスに油彩
24.5x33.5cm
サインあり


私の仕事は物理学だ。だから、そこには絵画的なものはなにもないともいえる。私は物理に一番興味をもっていた。いつか、美術の側に立つことになったが、もともと「人間ドラマ」とは無縁なのだ。ちょうど物理学に物体とか、力関係とか、数字という記号があるように、私には形と色があるのだ。
(『美術手帖』1962年8月号<基本的な形態と色から>より)


小此木美代子「”オノサト・トシノブと戦後桐生の青春〜1950年代を中心に”をめぐって、思うこと」
瀧口修造「画家の時刻のかなた(再録)」
オノサト・トシノブ文献資料

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(〜56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2020年09月23日(水)  杉山幸一郎 "Line & Fill 09"

杉山幸一郎
"Line & Fill 09"
2020
水彩
21.0×29.7cm
Signed


世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
(杉山幸一郎)

杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。

一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年09月16日(水)  杉山幸一郎 "Line & Fill 01"

杉山幸一郎
"Line & Fill 01"
2019
水彩
14.8x21.0cm
Signed


世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
(杉山幸一郎)



杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。

一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年09月09日(水)  倉俣史朗 "How High the Moon"

倉俣史朗
"How High the Moon"
1986年デザイン(2020年製造)
素材:スチール・エキスバンド・メタル
仕様:ニッケル・サテン・メッキ
サイズ:w955×D825×H695(SH330)
クラマタデザイン事務所による復刻証明プレート付


メッシュの作品に関して言うと、一枚の板から余分なものをどんどん消去していって、かろうじて自立している面を表現しているわけです。それでよくミニマリズムの作家だという言い方をされるんだけど、本当はそれとは反対のことをやっている。メッシュはクロームメッキをかけることによって網目が輝いて、増殖していくように見える。消し去っていく作業と増殖させる作業を同時にやっているわけです。ぼくにとって、そうしょくという概念は稀薄なんだけれども、消去していく中で増殖していく細胞のようなメッシュの網目などに、自分なりの装飾を見い出しているのかもしれません。
(CHANCE '88 夏『倉俣史朗の世界 1934-1991』(1996)より)


植田実「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」
倉俣史朗の家具と写真
橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」(全9回)
倉俣史朗展のポスター
倉俣史朗の作品集と資料
シンポジウム「PASS the BATON 倉俣史朗を語ろう」
倉俣史朗の版画
植田実「手紙 倉俣さんへ」
シルクスクリーン作品集「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」

倉俣史朗 KURAMATA Shiro
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2020年09月1日(火) ジョナス・メカス 《ひまわり》

ジョナス・メカス
《ひまわり》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.0x30.0cm
サインあり


今からおよそ30 年ほど前、わたしは初めて日本各地を訪ねる旅をした。
それ以来わたしは幾度も日本に出かけ、北の果てから南の端まで旅をして、新たな友人の数も増した。そしてきみたち、わたしの良い日本人の友人たちは、これまでの長い年月、たくさんの美しい贈り物を送りつづけ、わたしはそれを一つ残らず大切に手許に残してきた。そのお返しに、わたしはきみたちにささやかな贈り物、わたしの映画、わたしの詩、わたしの文章を送りつづけた。

(2012 年9月ジョナス・メカス『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』より)

ジョナス・メカスの初めての版画制作
『ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ』
原美術館で「アメリカ現代版画と写真展ージョナス・メカスと26人の仲間たちー」
福岡でジョナス・メカスさんがアコーディオンで歌う
ジョナス・メカスさんに「映画美術館建設賛助計画」インタビュー
ジョナス・メカスさんからのFAX
オリジナル版画入り『版画掌誌第5号/ジョナス・メカス、日和崎尊夫』
原茂「天使の謡う夜に〜ジョナス・メカス展オープニング」
中村惠一「リトアニアへの旅の追憶」を見て
ヴィートウタス・ランズベルギス「メカス マチューナス フルクサス」
西村智弘「ジョナス・メカスをめぐる断章」(全三回)
浜田宏司の展覧会ナナメ読み No.1「ジョナス・メカス写真展」
植田 実「美術展のおこぼれ第27回 ジョナス・メカス写真展」
ジョナス・メカス『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』
トゥルーリ・オカモチェク「虹の彼方 こことどこかをつなぐ、アーティストたちとの遊飛行」
小林美香「写真のバックストーリー第31回 ジョナス・メカス」
西村大佑「Jonas Mekas Film 上映会@横須賀 レポート」
井戸沼紀美「ジョナス・メカスとその日々をみつめて」
植田 実『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源1959―1971』
井戸沼紀美「メカスさんに会った時のこと」
メカスさんの版画制作
佐伯誠「その人のこと、少しだけ_追憶のジョナス・メカス」
井戸沼紀美「東京と京都で Sleepless Nights Stories 上映会」


ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。

2019年1月23日死去、享年96。


■2020年08月26日(水)  細江英公 《薔薇刑 作品32》

細江英公
《薔薇刑 作品32》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.0x30.0cm
サインあり


三島氏がぼくに求めたものは、よくある「作家の肖像写真」などというシロモノではない。氏自身が”ダンサー”としてぼくの写真の被写体になりたかったのだ。だからぼくは当然のことながら、舞踏家三島由紀夫をモデルとして細江英公作品をつくればいいのである。この二八歳と六ヶ月になったばかりの若い写真家は、神も畏れぬ血気盛んな青年だった。
(細江英公『薔薇刑』撮影ノートより)


第6回シンポジウム瑛九・細江英公フォトデッサン実技講座
細江英公「写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い〜イタリア・ルッカ」
原 茂「細江英公写真展―写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い〜イタリア・ルッカ」オープニングに出席して
飯沢耕太郎「細江英公の演劇的想像力」
細江英公、瀧口修造を撮る
細江英公〜「ガウディ」の肉体と霊性(再録)
森下隆「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」(全3回)

細江英公 Eikoh HOSOE
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

[薔薇刑][鎌鼬][抱擁][おとこと女]などの写真集は今や稀覯本です。瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江先生ですが、98年紫綬褒章、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞するなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。


■2020年08月18日(火) ル・コルビュジエ 〈ユニテ〉より#11b

ル・コルビュジエ
〈ユニテ〉より#11b
1965年
カラー銅版画
シートサイズ:57.5×45.0cm
額寸:66.0×54.5cm
Ed.130
サインあり


自分の建築は絵画という運河を通って来た。
(ル・コルビュジエ)


磯崎新 ル・コルビュジエへのオマージュ
ル・コルビュジエの版画と資料
磯崎新『栖十二』より第二信ル・コルビュジェ[母の小さい家]
藤本貴子「建築圏外通信」第1回(没後50年 ル・コルビュジエの資料)
藤本貴子「建築圏外通信」第11回(ル・コルビュジエ ロンシャンの丘との対話)
八束はじめ「建築家のドローイング第15回 ル・コルビュジエ」
倉方俊輔「『悪』のコルビュジエ」(全13回)
番頭おだちの東奔西走 「映画 ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」
王聖美「気の向くままに展覧会逍遥」第1回〜ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸とエスプリ・ヌーヴォー館を通じてル・コルビュジエが試みた絵画と建築の融合
杉山幸一郎「幸せにみちたくうかんを求めて」第42回〜チューリッヒのコルビュジエ

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2020年08月05日(水)  磯崎新 《影1》

磯崎新
《影1》
1999年
シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35
サインあり


(版画は)建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化してある。実際にできた建築は三次元的な存在だし、内部に空間をかかえこんでいるから、その見えかたも体験のしかたも違っている。しかし、それが構想されるときには、手がかりとなるひとつの形式を導入せねばならない。版画で表現しようとしているのは、その部分である。だから、建築が、建築家の手からうまれでていくその瞬間のイメージの視覚化といっていい。それと同時に、建築家が自分の仕事をもういちど解釈しなおそうとしている部分もある。
(磯崎新「版画としての建築」)


磯崎新「内部風景シリーズについて」
磯崎新「極薄」〜東野芳明へのオマージュ
磯崎新「還元」〜建築家はなぜ版画をつくるのか
植田実「磯崎新の七つの美術空間 Seven Art Galleries」
深野一朗「建築家というもの、建築家の仕事というもの[たてもの]」
植田実「建築家の手の在り処」
今村創平「大分市美術館[磯崎新の謎]展」

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2020年07月29日(水)  安藤忠雄 《近つ飛鳥博物館》
ozaki

安藤忠雄
《近つ飛鳥博物館》
1998年
シルクスクリーン
イメージサイズ:70.5×51.0cm
シートサイズ:90.0×60.0cm
A版:Ed.10
B版:Ed.35
サインあり


日本は、近代を受け入れる過程で、もっとも重要な自我に目覚めた〈個人〉をないがしろにしながら、効率や合理性の名の下に〈夢想〉や〈狂気〉を排除していった。そして、画一化の中、日本人は他者と自己を区切り自立することに極めて臆病であり〈凡庸〉や〈慣習〉を信奉する国民となった。

私は〈個〉からの発想を大切にしたい。豊かな〈個人〉が、豊かな〈家族〉、〈地域〉〈国家〉、〈世界〉をつくっていくという当然とも思えることを私は信じている。そして、近代の枠に収まらない〈個人〉がもつ〈直感〉や〈夢想〉、〈狂気〉こそが建築に生をもたらし、そこに住む人間に活力を与えていくのだと思っている。

(安藤忠雄『家』より)


スタッフS「Tadao Ando. The Challenge」
安藤忠雄の初期版画
スタッフS「Tadao Ando, Le defi」
植田実「安藤忠雄展―挑戦―」
光嶋裕介「安藤忠雄展を見て 手の痕跡が示す〈挑戦〉の彼方」

安藤忠雄 Tadao ANDO
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。

学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2020年07月22日(水)  尾崎森平 《昨日の世界》
ozaki

尾崎森平
《昨日の世界》
2018年
アクリル、キャンバス、パネル
サイズ:144.5x163.5cm
サインあり


ペインターは少なからず、自らの言葉の力よりも、キャンバスの上の色と形の力を信じる人種である。
(尾崎森平)


尾崎森平のエッセイ「長いこんにちは」

尾崎森平 Ozaki Shinpey
1987年仙台市生まれ 。岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース卒業。現代の東北の景色から立ち現れる神話や歴史的事象との共振を描く。2016年「VOCA 2016 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち 」大原美術館賞 。平成27年度 岩手県美術選奨。


■2020年07月08日(水)  野口琢郎 "Landscape #45"
noguchi

野口琢郎
"Landscape #45"
2018年
箔画/木パネル、漆、金・銀・プラチナ箔、石炭、樹脂、アクリル絵具
137.3×112.1cm
サインあり




野口琢郎「京都西陣から」
島敦彦「静謐な輝きー野口琢郎の箔画」


野口琢郎 Takuro NOGUCHI
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家 箔屋野口に戻り、西陣織に使われる引箔製造の技法を応用し箔画作家として活動を開始、2004年に初個展開催、以来毎年個展を行なっている。ときの忘れものでは2012年、2014年、2018年に個展開催。
漆を塗った木のパネルに金・銀・プラチナ箔や石炭粉を接着する独自の技法を用いて、抽象的な街の風景〈Landscape〉シリーズや、花火をモチーフにしたシリーズ、海と空、夜明けや星空などの風景を題材に希望の光を感じられる美しさを作品に表現している。箔画の最大の魅力は、画面全体に箔が施されている為に、観る角度、光源の強弱や方向によって輝きが変化する所にあります。


■2020年06月27日(土)  駒井哲郎 《顔(びっくりしている少女)》
sugiyama

駒井哲郎
《顔(びっくりしている少女)》
1975年
銅版
23.0×21.0cm
Ed.60
サインあり
※レゾネNo.312(美術出版社)


芸術家にとって大切なのは、なんらかの新しい、独自の思想だと思うが、詩人が言葉で思索するように、銅板画家は銅板をなんらかの方法で刻むことによって、つまり素材に対する抵抗によって、逆に思索の動機をとらえ、同時に創作の世界に入っていくこともありうるわけだ。

(駒井哲郎『白と黒の造形』より)



栗田秀法/前編
栗田秀法/後編
吉岡知子
片多祐子
S氏のエッセイ/私の駒井哲郎コレクション
瀧沢恭司
針生一郎
駒井哲郎を追いかけて
綿貫不二夫「駒井哲郎ー福原コレクションをめぐって」


駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
1920年東京生まれ。35年西田武雄に銅版画を学び始める。42年東京美術学校卒。50年春陽会賞、翌年第1回サンパウロ・ビエンナ−レで受賞。木版の棟方志功とともにいち早く世界の舞台で高い評価を獲得し、戦後の美術界に鮮烈なデビューを飾る。53年資生堂画廊で初個展。54年渡仏。56年南画廊の開廊展は駒井哲郎展だった。72年東京芸術大学教授。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。1976年永逝(享年56)。 銅版画の詩人と謳われた駒井先生は15歳の少年時代から56歳で亡くなるまで銅版画一筋の生涯でした。名作『束の間の幻影』はじめ、心にしみるエッチング作品を多数残し、長谷川潔、池田満寿夫とともに銅版画の魅力を人々に知らしめた功績は大きなものがあります。


■2020年06月17日(水)  杉山幸一郎 “Line & Fill 02”  
sugiyama

杉山幸一郎
“Line & Fill 02”
2019
水彩
14.8x21.0cm
Signed


「建築とはマテリアルを用いて新しい感覚を創ること」
建築は、数えきれないほどのマテリアルから成り立っています。音が連なってメロディができあがるように、単体では意味を成し得ないマテリアルもいくつか集まって組み合わさることで、単なる要素の羅列«1+1+1+…»では達成し得ないような、共鳴効果が起こることがあります。建築空間を創り上げるとはつまり、複数のマテリアルを秩序をもって配置し互いに共鳴させることで、新しい感覚を創っていくことだ。と僕は考えています。


(杉山幸一郎)



杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」


杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。 一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年06月10日(水)  奈良原一高 写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
NARAHARA

奈良原一高
写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:47.8×31.5cm
シートサイズ:50.8×40.6cm


果たして死者は単に過ぎ去った者でしかないのだろうか。果たして写真は単に過ぎ去った時間の記録でしかないのだろうか。もし死ぬことがなかったならば生まれて来る必要もないのではなかろうか。死者は予言者のように愛と生の味覚を人に知らせる。

(奈良原一高「ヨー ロッパ・静止した時間」より)



小林美香「母さん目線の写真史第16回/奈良原一高「王国」
大竹昭子「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」第25回
蔦谷典子〜奈良原一高 文集『太陽の肖像』
蔦谷典子「奈良原一高≪肖像の風景≫」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第13回 奈良原一高-複眼のヴィジョン」
銀塩写真の魅力 VI展より 奈良原一高


奈良原一高 Ikko NARAHARA
1931年福岡県生まれ。本姓は楢原。中央大学法学部卒業後、早稲田大学大学院で美術史を専攻。前衛美術に傾倒し、1955年には池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。在学中の1956年に、初個展「人間の土地」を開催し、ほぼ無名の新人の個展としては例外的な反響を呼び、鮮やかなデビューを飾った。それに続き、1958年には極限状況を生きる人間にフォーカスを当てた「王国」を発表、日本写真批評家協会賞新人賞受賞。1959年東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。 その後滞欧し、帰国後の出版した写真集 『ヨーロッパ静止した時間』で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1975年写真集 『消滅した時間』、1986年写真集『ヴェネツィアの夜』で日本写真協会賞年度賞。1996年紫綬褒章受章。2002年パリ写真美術館で、2004年東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2005年日本写真協会賞功労賞受賞。 2020年死去。


■2020年06月03日(水)  瑛九 《二人》
EiQ

瑛九
《二人》
1951年
フォトデッサン
27.5x21.5cm
サインあり


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月27日(水)  瑛九 《海辺》
EiQ

瑛九
《海辺》
1955年 
べニア板に油彩 
27.3×22.0cm(F3号)
サインあり
※「瑛九作品集」(1997年、日本経済新聞社)p.68
※山田光春「瑛九油絵作品写真集」No.244
※レゾネNo.274
※「瑛九回顧展」(1970年、福井瑛九の会)出品 2


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月19日(火)  瑛九 《赤の舞い(仮)》
EiQ

瑛九
《赤の舞い(仮)》
1958年
べニア板に油彩
22.0×27.2cm(F3号)
サインあり
※山田光春「瑛九油絵作品写真集」No.389
※レゾネNo.444


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月13日(水)  佐藤研吾 「囲い込むためのハコ1」
kiku3

佐藤研吾
「囲い込むためのハコ1」
2018年
クリ、ナラ、アルミ、柿渋
H80cm
Photo by comuramai


ハコが一人歩きまたは群動するような、家具ないし建築がこちらへ「おーい」と呼びかけてくるような、不可視の応答関係を見てみたいと考えるようになった 。(佐藤研吾)


2018年12月:佐藤研吾展―囲いこみとお節介
佐藤研吾「大地について―インドから建築を考える―」
佐藤研吾「『異形建築巡礼』を注釈する」


佐藤研吾 Kengo SATO
建築家、一級建築士。1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。


■2020年05月07日(木)  アンディ・ウォーホル "KIKU 3"
kiku3

アンディ・ウォーホル
"KIKU 3"
1983年
スクリーンプリント
イメージサイズ:50.0x66.0cm
シートサイズ:50.0x66.0cm
Ed.300
サインあり
*現代版画センター・エディション


「ねえ、ぼく何を描いたらいいんだろう?」と、人に聞くのをためらったことはいっぺんもない。ポップは外界からくるものだし、雑誌からアイディアを得るのも、人に聞くのもたいして違いやしない。 ―アンディ・ウォーホル」


森下泰輔「私の Andy Warhol 体験 」
ウォーホルを偲んで〜KIKUシリーズの誕生
1983年6月7日 渋谷パルコでの「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
1983年7月23日宇都宮大谷・巨大地下空間でのウォーホル展オープニング
綿貫不二夫「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984カタログ」編集後記


アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
1928年8月6日アメリカ・ピッツバー生まれ。本名“Andrew Warhola”。49年カーネギー工科大学卒業。52年ニューヨーク・ヒューゴー画廊でドローイングによる初個展。56年友人と約6週間で世界一周旅行、日本にも立ち寄る。62年[ファクトリー]を設立。同年8月5日モンローの死に会い[マリリン]を制作。63年映画の制作を始める。68年ファクトリーで狙撃される。74年10月大丸の大個展のため来日。1987年永逝。 83年[アンディ・ウォーホル全国展]を企画した私は、ウォーホルに日本の花をテーマに、日本の刷り師を使いエディションを作って欲しいと頼んだ。刷り上がった千数百枚の『KIKU』『LOVE』連作6点を担いで、生まれて初めてN.Y.に行きウォーホルにサインを貰ったのだが、「君も描いてあげるよ」と言われたのに遠慮してしまったのが今となっては悔しい!89年にファクトリーを再訪した時は既に主はいなかった・・・。


■2020年04月30日(木)  宮森敬子 〈Portrait of Myself〉シリーズより
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宮森敬子
〈Portrait of Myself〉シリーズより
2019年
麻布、木枠、和紙、木炭、チョーク、胡粉
185.0×323.0cm
サインあり


“ 樹拓を採ることは、私が意図した形をつくる、というより、ある場 (それはどこでも良いのです) を私が選択し、それぞれの場所や状況に、一瞬で折り合いをつけてゆくことです。”
(宮森敬子)

宮森敬子「ゆらぎの中で」

大藤敏行「宮森敬子個展/ある小説家の肖像〜生きているものと死んでいるものの間に〜」


宮森敬子 Keiko MIYAMORI
1964年神奈川生まれ。 筑波大学大学院芸術研究科日本画専攻修了。三木多聞賞受賞(1994),文化庁新進芸術家海外留学制度により米国ペンシルバニア大学大学院在籍(1998)。 2000年よりフィラデルフィアで、2011年よりニューヨークで制作をする。 第6回柏市文化フォーラム104大賞展TAMON賞-谷新の眼大賞(1995)、第16回今立現代美術紙展 大賞(1997), リーウェイ財団 ウインドウオブオポチュニティー賞(2003)、The Meijer Sculpture Competition 大賞2004)、Leeway Foundation Transformation Award(2008)、 センターフォーエマージングビジュアルアーティストトラベルグラント受賞(2009)The Independence Foundation Fellowships in the Arts 受賞(2010)、朝日新聞文化財団助成(2018)。 主な展覧会は、VOCA’97「現代美術の展望—新しい平面の作家達」(上野の森美術館/東京 、1997)、「拡兆する美術’97 」(つくば美術館/茨城、1997)、「流通と大地」(カスミつくばセンター/茨城、1998)などのグループ展に参加し、以降、アメリカ(フィラデルフィアやニューヨーク、ピッツバーグなど)を中心に日本、 ドイツ、韓国などでのグループ展に多数参加。 作品は絵画、彫刻からインスタレーションに及び、現在は日本とアメリカを基盤に制作活動を行なっている。和紙や木炭を使い、異なる時間や場所に存在する自然や人工物の組み合わせを、個と全体のつながりに注目した作品を作っている。


■2020年04月22日(水)  松本竣介 《人物(W)》
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松本竣介
《人物(W)》
1942年
紙に鉛筆
イメージサイズ:23.5x20.5cm
シートサイズ: 27.5x22.5cm


“ 元来素描とは仏語のDesseinであり英語のDesignの事であつて、計画であり、決意決心を意味してゐるのである。”
(松本竣介『生命の藝術』より)

小松崎拓男「松本竣介研究ノート」
植田実「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」
大谷省吾「松本竣介の素描について」


松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。
1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2020年02月04日(火)  オノサト・トシノブ 《59-B》
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オノサト・トシノブ
《59-B》
1959年
リトグラフ
イメージサイズ:31.0×49.0cm
Ed.50
サインあり
※レゾネNo.3(Art Space 1989年)

オノサト・トシノブは生涯に約210点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン、捺染によるタペストリー、立体マルチプル)を制作しました。
もっとも重要なのが、初期リトグラフ(石版画)で、1958〜1966年までに制作された18点(レゾネ1番〜18番)である。
それら18点はオノサト自ら版(石またはジンク版)に直接描画し、桐生の石版職人・荻野栄一郎が刷った。
まだ版画専門のリトグラフの工房は少ない時代で、初期18点には、色むら、色抜け、版ずれなどがあり、それがまた味わいともなって魅力を醸し出している。

油彩でも最も評価が高いのは1950年代後半の「べた丸」だが、リトグラフによる「べた丸」はわずか3点しかない。

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(〜56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。




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