松本竣介研究ノート 第25回

戦争の時代~鶴田吾郎『半世紀の素描』から


小松﨑拓男


 前回、画家鶴田吾郎の著作『半世紀の素描』を取り上げたのだが、原本ではなく、コピーの資料だった。思い立ってネットで探してみると、価格1円という古書が出ていたので取り寄せることにした。手元に届いた本は、少し紙焼けがあるものの、いわゆる美本の部類。奈良にある古書店だったが対応も早く良心的な古書店だった。(図1)
 この本には「戦争と従軍画家」という章があり、昭和6年(1931年)の満州事変から太平洋戦争終結の昭和20年(1945年)の敗戦まで、鶴田自身が関わった従軍画家としての記録が、画家や軍との交友関係、あるいは従軍の組織やその成立の経緯などを含めて書かれている。以下、かいつまんでその章の内容を紹介しようと思う。

202105小松崎拓男_図1 鶴田吾郎『半世紀の素描』図1
鶴田吾郎『半世紀の素描』

 昭和12年(1937年)盧溝橋事件によって起こった中国との本格的な戦争突入を機に、鶴田は従軍することを思い立つ。だが陸軍情報部に掛け合うと従軍という便法はなく、新聞社の通信員として行くように言われ、新聞社から資金を受け取り、中国に赴く。列車で奥地に向かう途中、戦闘の恐怖に精神に異常をきたした傷病兵を乗せた軍用列車の様子が書かれていて戦争の悲惨さを感じさせるも、各地に赴き大陸の名所や風景を描き帰国。それはほとんどスケッチ旅行と変わらない。翌昭和13年(1938年)、向井潤吉らと共に従軍画の展覧会を「大日本陸軍従軍画家協会」の名称の下、朝日新聞社を介して三越などで開催したとある。ところがこの展覧会を切り盛りした男が売上金を着服持ち逃げして騒ぎとなり、「大日本陸軍従軍画家協会」は「陸軍美術協会」として発展的解消となった。会長は陸軍大将松井石根、副会長は藤島武二だった。議論の場には中村研一などもいたとある。
 これ以降、鶴田は、盟友日本画家川端龍子や藤田嗣治らと、こうした協会などを通じて毎年のように満州、中国、東南アジアに、陸海軍の従軍画家として出掛けている。前回紹介した『神兵パレンバンに降下す』を発表したのは昭和17年(1942年)のことだ。
 しかし戦況が厳しくなると、外地への従軍はかなわなくなり、昭和19年(1944年)に今度は工場などの生産現場への美術家慰問ということを鶴田は思い立ち、軍需省の要請を受ける形で、向井潤吉らと共に「軍需生産美術推進隊」という組織を作っている。40人以上の画家や彫刻家が参加したという。石炭統制会の協力を得て、各地の炭鉱を慰問し、生産を鼓舞する絵画や彫刻の制作を現場で行うと、大きな歓迎を受け、評価されることになる。また東京が空襲を受け、食料に事欠く状況であっても、炭鉱労働者のための食料配給が優先されていた結果、各地の現場では、丼いっぱいの食事をとることができ、さらに油絵具も水彩絵具も十分に用意されていたと述懐している。
 炭鉱では、制作の様子が炭鉱夫たちに公開され、質の高い絵が出来上がっていく様に感激された。一週間ほどの滞在で、炭鉱側の希望に沿って、ベニヤ板に300号大の航空戦や海戦、そのほか肖像画、食堂を飾る絵などを描き、号1円の謝金を受けていた。
 ここで思い出すのは松本竣介の描いた戦意高揚のポスター(図2)である。娯楽のなくなった生産の現場や地方都市では、こうした絵の存在は、人々に幾ばくかの慰めや楽しみを提供していたのかもしれない。この鶴田たちの慰問が大きな感激を持って受け入れられていた事実を見るとそう感じられる。
 しかし、こうした北海道の夕張、九州の三池などの炭鉱を巡る慰問も、戦争末期になると、度重なる空襲によって各地に被害が広がり、鉄道、食料事情も悪化し、ままならなくなり、敗戦となる。

202105小松崎拓男_図2図2
松本竣介『征け大空へ』
(岩手日報2020年8月12日紙面より)

 戦後、鶴田は、周知のように、戦争中の活動を非難され、軍部に協力して軍国主義の片棒を担いだ戦争画家として糾弾を受けるのである。
 だが、鶴田は反論する。軍国主義者だった訳ではない、当時の大多数の国民と同じように、戦争という国家緊急の事態に対して、画家として、美術家として、国家に協力し、国に奉仕しただけだと。確かに、鶴田自身としては、兵役につき軍隊で戦った当時の日本人と変わらず、ただ「臣民としての義務」を美術家のひとりとして果たしたに過ぎないのだということなのだろう。
 しかし、こうした鶴田の戦後の言動を目の前にして、靉光などの戦場に散った画家、あるいは戦没画学生のような存在、あるいは松本竣介のような存在、さらには弾圧を受けた自由主義者や思想家がいたことに想いを致さない訳にはいかないのも事実である。

 そして今また、美術の展覧会場で愛国が叫ばれて展覧会が中止になったり、感染症が流行する最中にオリンピックのような国家行事に芸術家たちが協力を求められたりするさまを見ると、改めて、こうした事態にどのように対峙するべきなのかを考えざるを得ない。戦前の出来事は決して他人事ではないということである。
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

東京国立近代美術館で5月16日まで「MOMATコレクション」が開催中。駒井哲郎北川民次松本竣介瑛九などが展示されています。

●東京・アーティゾン美術館
アーティゾン収蔵品展5月9日(日)まで「Steps Ahead: Recent Acquisitions 新収蔵作品展」が開催中。オノサト・トシノブ瀧口修造元永定正倉俣史朗など現代美術の秀作が多数展示されています。3月13日ブログに番頭おだちの観覧レポートを掲載しました。

埼玉県立近代美術館で5月16日まで「コレクション 4つの水紋」が開催中。倉俣史郎の名作「ミス・ブランチ」が出品されているほか、ときの忘れものが寄贈した瑛九(コラージュ)や靉嘔の版画も展示されています。4月17日ブログにスタッフMの観覧レポートを掲載しました。

●新装なった板橋区立美術館
板橋区美さまよえる絵筆5月23日まで「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催中。松本竣介難波田龍起福沢一郎オノサト・トシノブらの戦前・戦中期の作品が展示されています。
担当学芸員の弘中智子さんによる展覧会紹介は4月22日ブログに掲載しました。

●東京・天王洲アイルの寺田倉庫 WHAT
202102王聖美_写真2IMG-6740佐藤研吾《シャンティニケタンの住宅》、Nilanjan Bandyopadhyay
5月30日まで「謳う建築」展が開催中。佐藤研吾が出品しています。
番頭おだちの観覧レポートは5月6日ブログに掲載予定です。

●栃木県真岡市・久保記念観光文化交流館
真岡関根伸夫展(表)6月14日まで久保貞次郎旧蔵の版画と素描による「関根伸夫展」が開催中。
久保記念観光文化交流館については2018年11月19日ブログ「第一回久保貞次郎の会~真岡の久保講堂を訪ねて」をお読みください。
三回忌となる5月13日ブログ関根伸夫の位相絵画をご紹介します。

●中国の上海と広東省仏山市で安藤忠雄展
church of water上海の復星芸術センター(Fosun Foundation)で6月6日まで「安藤忠雄:挑戦」が、広東省仏山市の安藤忠雄設計による和美術館(He Art Museum)で8月1日まで「BEYOND:ANDO TADAO and ART」が開催中。4月26日ブログでスタッフSが二つの安藤展を紹介しています。

●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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