松本竣介研究ノート 第21回

昭和18年8月の志賀高原


小松﨑拓男

 
 松本竣介が終生自身の絵画のモチーフにしたのは、都会風景=建物と人物の二つの題材であった。それ以外のものは、自身の子どもの絵をトレースしたものや花をモチーフにしたものがわずかにあるだけである。特に単に自然を写したような写生画の類は、初期の旧制中学の頃の風景画しかない。ところが、スケッチ帖の複製画集『松本竣介手帖』を見ると、大変珍しいことに『ZATU』と題された一冊に松本竣介の自然をそのままに写した、まさに写生画が残っている。
 『ZATU』の後半部分の約40頁余りにわたって見開きに1点ずつ描かれたスケッチは、高原の風景をそのまま鉛筆でスケッチした写生である、しかも10点ほどは水彩で色がつけられている。また最初のページには表紙として、戦前の文字の書き方であった右から左の右横書きで「志賀髙原」、その下に数字があり、こちらは左から右に左横書きで「18・8」と記されている。(図1)数字から判断すれば、このスケッチは昭和18年8月に志賀高原で描かれたものだということである。
 しかし、1985年当時までの年譜にはこの「志賀高原」へのスケッチ旅行は記載されていない。スケッチ帖の複製画集『松本竣介手帖』の年譜にもない。手元にあるカタログ類で確認したが、最も早いものでは1986年に東京国立近代美術館などで開催された展覧会『松本竣介展』の図録の年譜に記載がある。
202101小松崎拓男‗図1 志賀高原スケッチ表紙 『ZATU』より図1
志賀高原スケッチ表紙 『ZATU』より

 「8月頃.義妹栄子やその友人らと志賀高原を旅し,手製のノートに風景を水彩でスケッチする。」とあり、出典として「自筆のノート」という記載がある(注1)。少なくともそれまでは、朝日晃の評伝やその他の資料の中にもこのことは出てなかったように思う。恐らくは、手帖の出版の翌年の展覧会であるので、この時、初めて公に明らかになったスケッチをもとに当時の年譜の編纂担当者が存命であった禎子さんなどを取材し、このことを記載したものだろうと思うが確証はない。また1998年の没後50年展の図録には「女子美術学校在学中の義妹栄子」(注2)という一文が加わり、この写生旅行が女子美術学校の学生たちとのスケッチ旅行であったことが示されている。
 松本竣介のスケッチ旅行というのは実に珍しく、ほとんどこの時ぐらいしかなかったのではないのか。しかも女子学生たちと連れ立っての旅行である。どのような経緯(いきさつ)であったのか、興味がわく。耳の不自由な松本が、わいわいと女子学生と行楽に興じていたとは到底思えないが、教師のような役割であったのだろうか。一種の画学生の引率のような・・・。

 高原を歩きながら、目に留まる自然の風景を写生していたのだろうか。思い思いに歩き回り、それぞれが気に入った場所を描いていたのか。それとも同じ場所で一緒に・・・。想像はつきない。スケッチの分量から見ると、何日かは滞在して描いているように思う。2泊3日程度の旅程だったのだろうか。私は、ハイキングにせよ、トレッキングにせよ、こうしたアウト・ドアの旅行には一切馴染みがないので、しかも志賀高原にも行ったことがなく、実際の場所や行動が全く想像つかない。多分、読者の中にこうした経験のある者がいれば、スケッチを見てみると、どの場所で、どんな行程であったのか、わかる人がいるのではなかろうか。
 さて、残された写生のスケッチを見ると、一つの場所をある程度の時間をかけて描いているように思う。と言っても何時間もかけて描くというのではなく、いつも街の中をスケッチして回る時よりは、多くの時間をかけて描いているのではないかと、その描写の細かさや丁寧さから想像される。
 その場で色をつけていたかどうかは判然としない。その場では鉛筆のスケッチだけで、宿に戻った時に、色をつけていたのかもしれない。色は濃彩ではなく淡い。最初に色をつけたスケッチには墨線も使われていたようだが、色彩が滲み、その後のものでは使用をやめたようだ。(図2)だから、都会風景を描いている時のような、丸みを帯びたインクで描いたような線はこの写生にはない。本当に自然を素直に鉛筆で写し彩色した、山や木々の風景のスケッチが続く(図3,4,5)。山野を歩いてのごく普通の写生だ。だからこれがもし、松本竣介のスケッチ帖にあったのではなく、どこか別の画帖にあったとしたら、彼の描いたものだとはにわかには思えないかもしれない。それほどある意味、松本らしくない、普通の、どこか生真面目さが漂う写生ということになる。松本竣介もこういう絵を描くのだ。
202101小松崎拓男‗図2 スケッチ (『ZATU』より 以下同じ)図2
スケッチ (『ZATU』より 以下同じ)

202101小松崎拓男‗図3 スケッチ図3
スケッチ

202101小松崎拓男‗図4 スケッチ図4
スケッチ

 この事実が示すことは、松本の街の風景のスケッチや建物の描き方が、やはり特別なのだということだろう。工夫されたペンやインク、さらにはスケッチをトレースしたり、別な場所の建物を組み合わせて一つの風景にしたりと、幾重にも手をかけて、練られたものであり、ただ目の前にあるものを引き写しているのではない。だから、前回も触れたが、このスケッチ帖にあるスケッチが、すべて本当にその場で描いた一次スケッチであるのかは、よく吟味してみないとわからないということになる。
 それほどに松本のスケッチはいつも自由である。外国の風景が紛れ込み、いくつかの風景が重ねられ、心のままに都会の風景を逍遥する。だが、それに比べるとこの志賀高原のスケッチにはその自由さがない。普通で、少し硬く、生真面目な描写である。まるでそれは女子美術学校の女学生たちを引率しなければならなかった松本竣介先生の、生真面目さが現れてしまったかのようにも見えるが、果たしてどうなのだろうか。


注1 田中淳/水谷長志編「年譜」『松本竣介展』図録 東京新聞 1986年 p.222
注2 濱淵真弓編「年譜」『没後50年松本竣介』展図録 共同通信社 1998年 p.201

こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

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