ときの忘れもの 今月のお勧め
■2011年08月30日(火)  磯崎新「栖 十二 挿画6(ル・コルビュジエ<母の小さい家>」
nicky_20110830.jpg 392×600 107K磯崎新
「栖 十二 挿画6(ル・コルビュジエ<母の小さい家>」
1998年
銅版・手彩色・アルシュ紙
版サイズ:15.0×10.0cm
シートサイズ:38.0×28.5cm
Ed.8 サインあり
※単品が一点(EA)のみ頒布できます。

『栖 すみか 十二』は、当初ときの忘れもののエディションとして予約購読者35名(限定35部)に、毎月1回、一年間にわたり書簡形式で郵送された銅版画入り・小冊子として書かれました。
磯崎先生初の書き下ろし作品ですが、同時に取り上げた12人(自身も含む)の建築家へのオマージュとして40点もの銅版画を制作しました。
ご紹介するのはル・コルビュジエの「母の小さな家」に捧げた銅版・手彩色。
この彩色は、磯崎先生が軽井沢の別荘に篭り、自ら仕上げた傑作です。

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。

■2011年08月20日(土)  ル・コルビュジエ「モデュロール」
nicky_20110820.jpg 445×600 37Kル・コルビュジエ
「モデュロール」
1956年
リトグラフ
70.3×52.8cm
版上サインあり

ル・コルビュジエというと必ず「モデュロール Modulor」という言葉がついてきます。その定義をコルビュジエは「建築や、その他の機械の設計に普遍的に適用できる、人体の寸法に合わせて調和した寸法の範囲」としています。人体の寸法と黄金比から作った建造物の基準寸法の数列で、フランス語のmodule(モジュール・寸法)とSection d'or(黄金分割)からなるル・コルビュジエの造語です。ロンシャンの礼拝堂の窓配置、ラ・トゥーレット修道院におけるブリーズ・ソレイユなどのプロポーショナル・レイアウトは、モデュロールを用いた応用例です。
多くの版画作品の中で、そのものずばり「モデュロール」というタイトルの版画があります。
急に入荷したのでご紹介しましょう。

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

■2011年08月10日(水)  福田勝治〈イタリア紀行〉より「オスティア」
nicky_20110810.jpg 465×600 59K福田勝治
〈イタリア紀行〉より
「オスティア」

1955年
ゼラチンシルバープリント
24.5×19.0cm
裏面に遺族のサインあり

今週のお勧めは、福田勝治の〈イタリア紀行〉シリーズからご紹介します。
福田勝治は1955年キャノン・コンテストに一般公募した作品《修道尼と船》が推薦となり、ヨーロッパ旅行に招待されました。同年9月16日に出発し、ミラノからナポリまで10月22日に帰国するまでの45日間、精力的に取材し、5,000枚を撮影したと本人が書いています。
「わずか四十日余のイタリアの旅であったが、私にとっては、この期間中ほど楽しい、美しい思い出をのこしてくれたものはなかった。(中略)
 ゲーテが、若い修行時代を、スタンダールがその青春を、イタリアに魅せられて旅をしたという気持ちの実感を、私までもが想像することができたし、先人たちの残してくれた芸術というものの偉大さが日々よみがえり、新たに生きている事実を知った。(中略)
 私はヨーロッパの国々をスナップして歩くよりも、イタリアだけの、そして名も知られてない都、町々、村々の数知れない多くの美しさを喜びに満ちて撮って来たのである。(後略)」『カメラ毎日1956年1月号』(毎日新聞社)

翌1956年に、この成果を発表する「イタリア写真展」を6月に日本橋高島屋、7月には大阪の大丸で開催し、大好評を得ました。
ときの忘れものが所蔵しております〈イタリア紀行〉のプリントは、この展覧会当時にプリントされたものと思われ、また、1993年にネガはすべて山口県立美術館に寄贈されて、今後プリントされる機会があるとしても非常に限定されるであろうことを考慮すれば、たいへん貴重なものであることは間違いありません。

福田勝治 Katsuji FUKUDA(1899-1991)
1899年山口県生まれ。1921年東京で高千穂製作所に勤務しながらヴェス単で写真を撮り始める。関東大震災後、大阪に移る。1926年「第1回日本写真美術展」でイルフォード・ダイヤモンド賞を受賞。翌年、堺市で写真館を開業するもうまく行かず、生活が困窮する中でもバウハウスの影響を受けた構成的な静物写真の作品制作を続ける。1936年『アサヒカメラ』に連載された「カメラ診断」が好評となり、それをまとめた『女の写し方』をはじめとして多くの指南書を出版、広告写真でも活躍する。戦後、女性美を追求したヌード作品を発表し、日本写真界をリードする存在となる。そのなかの「光りの貝殻(1949)」は福田の代表作となる。
リアリズム写真運動が写真界を席巻する中でも、自分のスタイルを崩すことなく、孤高をつらぬく。1955年キャノン・コンテストで推薦を受けてイタリア旅行に招待される。翌年、「イタリア写真展」を開催し大好評を得た。この後、「京都」「銀座」「隅田川」などのシリーズを発表。1950年代末より実験的なカラー写真の制作を始め、1970年には日本橋高島屋で「花の裸婦・福田勝治写真展」が開催された。1991年逝去。享年92。横浜美術館、川崎市市民ミュージアム、東京都写真美術館、山口県立美術館に作品が所蔵。

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