ときの忘れもの 今月のお勧め
■2012年06月30日(土)  アンリ・カルティエ=ブレッソン「Kiel: American yatch with spectators」
nicky_20120630.jpg 600×419 74Kアンリ・カルティエ=ブレッソン
「Kiel: American yatch with spectators」
1972年(Vintage)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:17.0x25.3cm
シートサイズ:20.0x27.7cm
スタンプサインあり

ただいま開催中の「アンリ・カルティエ=ブレッソンとロベール・ドアノー写真展」出品作品からのご紹介です。ご承知の通り、今までロベール・ドアノーは幾度もご紹介してきましたが、アンリ・カルティエ=ブレッソンの作品をときの忘れもので展示するのは初めてとなりました。
11点は連作で、1972年8月26日-9月10日に開催された第20回ミュンヘン・オリンピック (夏季)において撮影されたものです。
場所は、バルト海に面したドイツ北部の都市キール(Kiel)。ミュンヘンではなくセーリング(ヨット)競技のみキールで実施されたためです。
1972年のセーリングプログラムはボートのデザインによって6つのセーリングクラス(フィン、フライング・ダッチマン(FD)、テンペスト、スター、ソリング、ドラゴン)に分かれ、各クラスに付き7つのレースが行なわれ、5大陸42カ国が競技に参加しました。
作品裏面には、ブレッソンがキャパたちとともに創設した「世界最高の写真家集団」であるマグナム・フォト(Magnum Photos)のスタンプと、アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)のスタンプの二つが11点すべてに捺されています。
1972年に撮影、プリントされたヴィンテージ写真です。

アンリ・カルティエ=ブレッソン Henri CARTIER-BRESSON(1908-2004)
1908年フランス、シャントルーに生まれる。画家を志しパリでアンドレ・ロートに学んだ後、1930年頃からマン・レイ、アジェ、アンドレ・ケルテスの影響を受け写真に取り組むようになる。1931年から翌年にかけアフリカ滞在中に写真を撮り始め、小型カメラ「ライカ」で撮影したスナップショットが注目される。1930年代後半には映画監督ジャン・ルノワールの助手を務めるなど映画制作に従事。第二次大戦中は従軍しドイツ軍の捕虜となるも脱走。戦争終結までレジスタンス運動に加わる。1947年にロバート・キャパ、デヴィット・シーモアらと写真家集団マグナム・フォトを結成し、以後インドや中国、アメリカ、旧ソヴィエト(当時)、日本など、世界各地を取材する。1952年に初の写真集を出版し、そのアメリカ版の表題『決定的瞬間(The Decisive Moment)』は、カルティエ=ブレッソンの写真の代名詞として知られる。
現実ではなかなか視覚できないイメージを見事に捉えた彼の写真は、単なる街角のレポルタージュを越え、多くの写真家に多大な影響を与えた。70年代以降は絵画やドローイング制作に専念し、2004年歿。

■2012年06月20日(水)  ル・コルビュジェ「彫刻の習作」
corbusier_27_practice.jpg 430×600 204Kル・コルビュジェ Le Corbusier
彫刻の習作
1964
カラー石版
51.5x41.0cm
Ed.200
サインあり

ときの忘れものの定番ル・コルビュジェはロングセラーの人気で、問合せが絶えません。
困るのがこれほどの高い人気で、20世紀を代表するアーティストでありながら、その版画作品の資料が非常に少ないことです。
完璧なレゾネ(作品総目録)が出ていないことが先ず問題で、ル・コルビュジエがいったい生涯でどのくらいの版画を制作したのかがいまいちわからない。
総数も不明なら、個別の作品に関しても、限定部数(刷り部数)がいくらかも不明なものが少なくない。
サインもあるもと、無いものと……

本日ご紹介するのは、珍しくデータが明確(タイトル、制作年、限定部数)で、サインもされている、まことに貴重かつ希少な作品です。

ル・コルビュジェ Le Corbusier(1887-1965)
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

■2012年06月10日(日)  田中敦子「青、赤、緑の丸と小さな丸たち」
AtsukoTanaka_circles.jpg 436×600 22K田中敦子
「青、赤、緑の丸と小さな丸たち」
シルクスクリーン
14.7×10.0cm
Ed.100
サインあり

吉原治良、白髪一雄、元永定正たちの具体がヨーロッパで高い評価を得て、あれよあれよという間に価格が高騰したのはご存知の通りですが、田中敦子展も国際交流基金、イギリスのアイコンギャラリー、スペインのカスティジョン現代美術センターとの共同企画によるもので、海外での高い評価を反映した展覧会です。
1950年代にはまだパフォーマンスやインスタレーションといった表現が新奇の眼で見られるだけで、つまり話題にはなるが美術作品としての評価はなかなかされにくい時代でした。
20個のベルが順に鳴り響く「作品(ベル 1955年)」や、9色の合成エナメル塗料で塗り分けられた管球約100個と電球約80個からなる「電気服(1956年)」など、パフォーマンスやインスタレーションをとりいれた表現は記録の中でしか知ることができませんでしたが、それらの再制作作品を含む今回の展示はようやく時代が田中敦子に追いつき、理解を始めた現われと言っていいでしょう。
田中は電気服の電球と配線に対応する円と線から成り立ったおびただしいヴァリエーションの絵画群を生涯描き続けましたが、今回ご紹介する版画作品もそのひとつです。


田中敦子 Atsuko TANAKA(1932-2005)
日本の画家。大阪府出身。京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)中退。1953年から1955年頃は、布に数字を書き、一旦裁断し再びつないだ作品を作る。主に抽象画を描き、1955年に吉原治良が主導する具体美術協会に入会し、同協会の主要メンバーになる。サンケイホールなどで開催された『舞台における具体美術』展で、カラフルな電球と管球が明滅し光の服に見立てた「電気服」(高松市美術館が再制作品を所蔵)を着るパフォーマンスを行った事で知られる。
絵画作品は、「電気服」などのオブジェと同様、色彩豊かな円と曲線が絡み合う前衛的作風で知られ、国際的にも高い評価を得ていた。1965年具体美術協会を退会する。2001年芦屋市立美術博物館と静岡県立美術館でそれぞれ大規模な個展を開き、絵画とオブジェで独特の精神世界を表現した。この巡回展では国際的な再評価の声も高く、草間弥生、オノヨーコに並ぶ偉才と評された。
奈良県明日香村のアトリエで絵画の制作を続けてギャラリー HAM等で発表をしていたが、2005年12月3日肺炎のため、奈良市の病院で死去した。73歳。

過去の記事 2004年06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2005年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 12月 
2006年01月 03月 
2009年02月 03月 05月 06月 11月 12月 
2010年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2011年01月 02月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2012年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 
2013年02月 03月 04月 05月 06月 07月 
2014年04月 05月 06月 07月 08月 
2016年10月 11月 

一覧 / 検索