ときの忘れもの 今月のお勧め
■2013年05月30日(木)  エドワード・スタイケン 「Brancusi, Voulangis, France」
steichen_21_Brancusi.jpg 484×600 97Kエドワード・スタイケン
Brancusi, Voulangis, France
1922年頃(1987年プリント)
ゼラチンシルバープリント
33.2×27.0cm
Ed.100
裏にプリンターと遺族のサインあり

スタイケンは始めヨーロッパ美術の影響を受けたピクトリアル(絵画的)写真を発表し、若くしてその存在を知られるようになります。
その後第一次世界大戦中は陸軍の航空写真班として従軍し、空中写真の撮影や兵士達へ撮影の技術指導も行っていました。しかし戦後、それまでの絵画的だった作品の傾向は大きく変化し、シャープな表現を追及したり、カメラの機能を駆使した実験的な作品にも取り組むようになります。
1923年コンデナスト社と契約し、『ヴォーグ』や『バニティ・フェア』でのライティングを駆使したファッション写真や著名人のポートレートは、高い評価を得て広告写真界でも第一人者となります。スタイケンの表現方法は後進の写真家の手本となり、また当時もっともギャラの高い写真家といわれました。
1947年にニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターに就任し、1955年に開催された写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」展は日本を含む世界38ヵ国を巡回し、冷戦期の世界で900万人を動員しました。

このようにスタイケンは約70年にわたり、写真作品、広告写真、展覧会の企画など多岐にわたる活動を通して写真の可能性を追究し続けました。

この作品は彫刻家ブランクーシのポートレートです。
このポートレートはウィキペディアのブランクーシの項に掲載されるほど良く知られており、ブランクーシの少しはにかんだような表情を正面から捉えていて、朴訥であったという彼の性格をよく伝えています。
コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi, 1876-1957)は、ルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な彫刻家で、20世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も数多く残しました。

エドワード・スタイケン Edward STEICHEN(1879-1973)
1879年ルクセンブルグに生まれる。1881年アメリカに移住。1900年ニューヨークでアルフレッド・スティーグリッツに会い、活動を支援する。1902年季刊誌『カメラ・ワーク』を創刊に参加。1905年スティーグリッツと共にニューヨーク五番街291に「リトル・ギャラリー・オブ・フォトセクション」設立し、ピクトリアリズムからストレート写真へのムーブメントを起こす。1906年フランスへ。ロダン、マティス、ブランクーシらヨーロッパの芸術家たちとも交流をもち、彼らのポートレイトを撮影。1923年スタジオをニューヨークのボークス・アーツ・ビルディングに置く。
同年ヴォーグ誌などを発行しているコンデ・ナスト社のチーフフォトグラファーになり、 アート性を持った斬新なファッション写真のスタイルを確立する。1929年『スタイケン・ザ・フォトグラフィー』を出版。1947年ニューヨーク近代美術館(MoMA)写真部門のディレクターに就任。1955年「ザ・ファミリー・オブ・マン」開催。1961年回顧展「スタイケン・ザ・フォトグラファー」開催。1962年ニューヨーク近代美術館名誉ディレクターとなる。1964年MoMAにエドワード・スタイケン・フォトグラフィー・センター開設。1973年死去。

■2013年05月20日(月)  細江英公「Casa Mila 8」
mila_008.JPG 600×405 106K細江英公
"Casa Mila 8"
1977年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
36.0×54.7cm
サインあり

日本を代表する細江英公の「Casa Mila 8」をご紹介します。

細江英公の『薔薇刑』『鎌鼬』『抱擁』『おとこと女』などの写真集は今や稀覯本です。
瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江ですが、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞、2010年には文化功労者として顕彰されるなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。

1964年、細江はバルセロナでガウディ建築との衝撃的な出会いを体験しますが、そのときはあまりの衝撃に写真を撮ることはできず、その13年後の1977年になって、初めて撮影を行います。その撮影から戻ると、すぐにプリントして展覧会を開催し、それからも数度に亘る撮影を行ない「ガウディへの讃歌」として、写真集や展覧会で発表しました。ご紹介するのは、その1977年にプリントされたヴィンテージです。

細江英公(1933-)
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

■2013年05月10日(金)  ロベール・ドアノー「Le ptit balcon かわいいバルコニー」
doisneau_12_Le-ptit-balcon.jpg 600×436 77Kロベール・ドアノー
《Le ptit balcon かわいいバルコニー》
1953年
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:24.0x34.5cm
シートサイズ:30.3x40.5cm
サインあり

フランスを代表する写真家ロベール・ドアノー
彼は自作について次のように語っています。

「レンズは主観的だ。この世界をあるがままに示すのではない。私が気持ちよく感じ、人々が親切で、私が受けたいと思うやさしさがある世界だ。私の写真はそんな世界が存在しうることの証明なのだ。」

彼は生涯パリに留まり、華やかな中心街の姿を記録すると同時に自身が生まれ育ったパリ郊外も多く撮影し、ヒューマニズムに溢れた視線でパリの姿を生き生きと捉えました。
街の中の人物や建物などを前に自分が感嘆する瞬間が訪れるのを忍耐強く待ち、「永遠から獲得した数分のうちの1秒」をカメラにおさめたのでした。

ロベール・ドアノー Robert DOISNEAU(1912-1994)
1912年パリ郊外のジョンティイ生まれ。印刷会社でリトグラフの仕事を経験後、1931年写真家に転向。1934年ルノー自動車で広告、工業写真家として勤務し、1939年に独立するが、すぐに召集を受ける。パリ陥落後はレジスタンス活動に加わる。戦後は1946年にラフォ通信社に参加し、フリー写真家として「パリ・マッチ」などのフォトジャーナリズム分野で活躍。一方、1948年から1952年まではファッション誌の「ヴォーグ」の仕事も行う。パリの庶民生活をエスプリを持って撮影し、もっともフランス的な写真家として根強い人気がある。1947年にコダック賞、1956年にニエペス賞を受賞。また、シカゴ美術館(1960年)、フランス国立図書館(1968年)、ジョージ・イーストマン・ハウス(1972年)をはじめ世界中の主要美術館で回顧展が開催されています。1994年、歿。

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