ときの忘れもの 今月のお勧め
■2014年07月22日(火)  ザオ・ウーキー 《無題》
29.jpg 600×386 55Kザオ・ウーキー
《無題》
1959年
アクアチント
イメージサイズ:34.5x59.3cm
シートサイズ :50.0x65.0cm
Ed.29/75
サインあり

今回紹介する作品は難波田龍起先生のアトリエに飾られていたザオ・ウーキーの銅版画です。黒の中にうっすらと浮かぶ青、中国水墨画の伝統に根ざした、東洋と西洋の美意識が融合したザオ・ウーキーの叙情的抽象の世界が難波田先生の心を捉えたのでしょうか。

ここ数年、ザオ・ウーキー(趙無極)の評価は高騰しており、オークションで銅版画が100万円を超すことも珍しくありません。
宗王朝にまでさかのぼる北京の名門の家系に生まれたザオ・ウーキーは杭州の国立美術学校に学び、1948年にパリに移住。翌年には早くも個展をひらき“中国のボナール”と評され大成功を収めます。アンフォルメル(非定形絵画)運動の渦中に身を投じながら、次第に独自の画風を成熟させます。ヨーロッパ各地を旅し、古典から現代美術に至るまで貪欲に吸収していった彼は「パリの影響が私の技術形成すべてに及んでいることを否定できなくとも、私の個性が確立されるにしたがって、次第に中国を再発見した」と語っています。
1964年、ウーキーの最大の支持者アンドレ・マルローの助力でフランス国籍を取得し、83年には故国北京で個展を開催。日本にもしばしば訪れており、箱根・彫刻の森美術館に「アンドレ・マルローに捧ぐ」(1976)が収蔵されています。

■ザオ・ウーキー Zao Wou-ki 趙無極(1921-2013)
1921年北京に生まれる。宋朝の王族の血を引く名家であり、高い教養を学べる環境に育つ。1941年出身校である杭州美術学校の講師となり、作品展を開く。1948年渡仏しアカデミー・グラン・ショミエールに通う。詩人のアンリ・ミショーや、画家ジョルジュ・マチウ、ピエール・スーラージュらと交流する。その頃パウル・クレーを知り、その記号的な題材の扱い方を模倣しながら、クレーが中国美術に目を向けていたことに注目。このことがザオ自身の出自を再確認するきっかけになる。1957年にアメリカを旅行し、フランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合い影響を受ける。1960年代は中国の書を思わせる不定形が画面に立ち現れ、やがて動的なブラッシュワークが画面全体に広がる作風を展開する。さらに1980年代以降は色彩を空間に解き放つような画面に転換し、中国山水画や抽象表現主義を融合するかのような作品を制作した。

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